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天露の神  作者: ライトさん
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幸さん

冷たい雨の日に起こった小さな奇跡、冬寒くなると温かなココアが欲しくなります。

 古びた瀟洒な作りの洋風の屋敷がそこに在った。

今時の建物とは一線を画した趣が在り、しゃれた門柱に備え付けてあるボタンを押すと、中で暖かなチャイムの音がした。


 バラバラと傘に当たる雨音を聞きながら待つこと数分、幸さんとやらが不在なのではないかと思い始めていた頃、ようやっと誰かが玄関の扉を開けて出てきた。


 真っ白な髪をした小柄なおばあさん、でも姿勢が良く少しも腰が曲がっていなかった。


「こんな雨の夜訪ねてこられたのは何方かしら?」


 さてその問いに僕はどう答えればよいのだろう?頭の中を色々な考えがぐるぐると巡った。でも良い答えが浮かんでこない。

 まあ良いか、下手な嘘より本当のこと、その方が結果として物事は上手く行く物だ。何故なら人との信頼感の醸成には多分に手間がかかるが、失うのはあっと言う間だからだ。


「あの、この傘を忘れられませんでした?」


 僕はそう言うと手に持ったこうもり傘を差し出した。


「あら大変、おじいさんの傘!でもこの傘を一体何処で?」


 そう言うと彼女は傘を受け取り、付着していた雨粒を丁寧に拭うと、そっと愛おしむように抱きしめた。その仕草だけで傘がどんなに愛されているのかが分かってしまう。


 その時一瞬だけれども僕には、さっきの男の子が笑っているように見えた。


「えっと、その、昔ながらの土管みたいなポスト、その側でこの傘を見つけたんです」


 僕は傘を見つけたときの状況を説明した、最小限の事実だけを使って。


「あらまあ、さっき手紙を出しに行ったときに忘れたのね。でもこの傘がどうして私の物だと?どこかで私のことをご存じだったのかしら?」


 さあて、一体どう答えればよい物だろう?ままよ、僕はあるがままのことを話すことにした。


「あの、ポストの前を通ったらこの傘があって、そしてこの傘が貴女の元へ連れ帰ってくれって…」


 ああ、言っちゃった。きっと変に思われるに違いない。僕は奇異な目で見つめられることを覚悟して、心の中で首をすくめてしまった。


 けれども僕の話を聞いた幸さんは、少し首を傾げはしたものの、何も訝しむようではなかった。不思議なことに返ってきたのは、僕の不安を優しく解かす温かい微笑みだった。


「まあ、そうだったの。この傘がねえ…」


 そう言うと彼女はゆっくり確かめるように握りの意匠をなぞった。そして小さな声で囁くように「お帰りなさい、あなた」そうつぶやくと傘をそっと古びた傘立てへと差し込んだ。


 それは真っ黒な猫を模した傘立てで、鋳物製か?今にも声を出して鳴き出しそうな風情がある。


 幸さんはしばしじっと収められた傘のことを見つめている、何か昔のことでも思い出しているのかな?


 やがてふと、僕の存在に今初めて気がついたかのように視線を注いできた。

けれどもどこか定まらない感じで、僕とは違う何かを見つめているような、そんな感じがする。

 どう表現すれば良いのだろう?幸さん、彼女そのものの存在感が薄らいでいくような、そんな儚いような雰囲気を感じた。


 一体彼女の心中をどんな思いが去来しているのだろう?

だがそんな定まらない時間も瞬きするほどの内に過ぎ、ゆっくりと彼女の姿が確定していく。


「あらまあ私ったら、せっかく傘を届けてくださった方を雨のかかるようなところに立たせたままで」


 そう言うと幸さんは傘を差している僕の手をそっと取った。


「とにかく中に入ってくださいな」


 言いつつ彼女は僕の手に視線を落とした。


「すっかりと冷えきっているじゃない、ごめんなさいね気がつかなくって」


 僕はたかだか傘を届けただけのことでもあるので、丁重にその申し出を断った。だが彼女の暖かな小さな手は、しっかりと僕の手を握って離さなかった。


 華奢な老女の手を無理矢理振り払ってその場を去るわけにも行かない。

僕は進められるがままその家の居間へと通された。


 かく言う僕はたかだか高校生、インテリアに詳しい訳でもない。でもそんな僕でも当然のように感心してしまう、実に洒落た内装だった。少し驚いてしまったのだが、チロチロと火の燃えている暖炉まで在るのだ。

 中を見渡す僕の視線に気がついたのだろうか?幸さんが遠慮深げに笑いながら説明してくれた。


「この家はね、私の亡くなった主人が建てた物なの。宅の主人はイギリス人だったのよ」


  成る程、幸さんの説明を聞くと確かに頷けるものがある、

そう言えばあの男の子が、自分はイギリスで買ってこられたらしいと言っていたっけ。きっとあの傘は幸さんの旦那さんに買われて来たのだろう。


 居間の中に導かれた僕は、幸さんが勧めるままそこにあったソファーに腰を下ろした。

あまりあちこち見回すのは失礼かなと思うのだが、普段見慣れない部屋のつくりについついあちこち見回さずにいられなかった。


 そうやって部屋の造作に気を取られていると、気がつかぬうちに幸さんは姿を消していた。

次に姿を現した時には盆に乗せたココアを運んできていた。


 部屋に満ちるとても甘い香り、その香りだけで飲み物がココアであることが分かってしまう。


「ごめんなさい、インスタントな物しか無くって…、でも体を温めるにはこう言う暖かい物がいいかなって思ったの、飲んで下さるわね?」


 断るべき理由を思いつかない、僕は軽く頭を下げると勧められるがままにカップに手を伸ばした。

 甘い香りが体中に染み込むような、それでいてちっとも甘すぎないとっても美味しいココアだった。冷えた体がお腹の中からじんわりと暖まっていった。


「あの傘はね、私が主人と新婚旅行でイギリスに行った時に買って差し上げた物なの。」


 そう話しながら彼女の視線が宙をさまよった。きっと幸さんの心は今、時と空間を飛び越えて、かつて自分たちが居た場所に漂っているのだろう。


「そのころ私たちは余り裕福ではなかったのよ、お互い社会に出てまだ間がなかったのもあったしね。彼のご両親にご挨拶に伺うのがようやっとという感じだったの」


 そう言うと彼女は少し恥ずかしそうにしながらフフフと笑った。


「それでご両親のお宅に幾日かお世話になり、やがて日本に帰らなくてはならなくなったのだけど、とある店であの傘を見つけた時の主人たらなかったわ。それまでも色々な傘を集めることを趣味にしていたのだけれども、それこそ恋人にでも出会ったみたいだった。この私がすぐ側にいるのによ?なんだか妬けてしまったわ」


 彼女の話す姿を見ていると、その時のことは決して嫌なことではなかったはずだった。暖かな微笑みがなによりも豊かにそのことを証明している。

 なぜだか僕はせっかく入れてもらったココアを飲むことすら忘れて彼女の話に聞き入っていた。


「主人は一目見た瞬間にその傘のことが気に入っては居たの。でもその頃の私たちにとっては結構値の張る物だったし、まだまだ要りような物があったから諦めたのね。ぎゅうっと胸に押し抱いたかと思うと、ゆっくりと元在った場に置いて惜しみながら手を離していたわ」


 その時の光景が目の前にありありと浮かんでいるのだろう。本当に楽しそうに話してくれる。


「その様が余りにも未練たらたらだったから、なんだか可哀想になってしまっのね。で、両親が困ったことがあったら使いなさいと渡してくれていたお金が有った物だから、思い切って買ってあげたの。そうしたらそれこそ小躍りしちゃって…」


 そう言うと幸さんはクスクスと小さく声を立てながら笑った。


「でもね、あの時買ってあげて良かったなって思うの。それからだんだん裕福になって、もっと高価な物も買うことが出来るようにもなったのだけれど、あの傘はいつも主人の一番のお気に入りで、一体何度修理に出したかしら?ねえ信じられる?イギリスのロンドンの店にまで修理に出すのよ?ただの一本の傘を?」


 呆れかえって見せたり、笑って見せたり、実に豊かな表情を見せる人だった。


「それくらい主人はあの傘を大事にしていたの。でもだからと言ってどこかにしまってしまうのではなく、雨の日の供としていつも身近に置いていたわ。そんなだから雨の日を楽しみにしていて。雨が降るとどんな時でも元気いっぱいになるのよ、信じられる?そしていつも日本の傘の童謡を歌ったりして楽しそうに傘を差していた…」


 そう言うと僕のことを時と見つめた。微かに涙ぐんでいるように見えたのは気のせいだろうか?


「だからね、私にはあの傘のことが、丸で主人の分身のように思えて仕方がないの。なのにどうしてその大切な物を置き忘れてしまったのかしら?」


 彼女は悔しそうに微かに唇をかみしめた。

きっとこれまで乗り越えなくてはいけなかった苦労は数え切れないほど在ったことだろう。

 それらが残した時の年輪が、幾つもの証を彼女の上に残している。けれど今の幸さんは、内から滲み出す何かでとても若々しく見えていた、


「でもいいじゃないですか、それだけ大切にされていたからこそ、傘は貴女の所に戻っていこうとしたのだと思いますよ」


「そうなのかしら?」


 僕は幸さんのことを思って泣いていた男の子の姿を思い出しながら頷いた。


「ええ、間違いないです。だから傘は貴女の所に戻ったのだと思いますよ」


「お優しいのね、本当にありがとう」


 人の口から語られる言葉には色々な思いが載せられる。ただ単語を並べただけの言葉もあれば、深い深い思いを載せられた言葉もある。

今の幸さんの言葉は間違いなく後者のものだった。


「遅くなるのでそろそろ僕は失礼します」


 暖炉の上にあった時計に目を向けながら僕は言った。


「あらほんと、すっかりと長話をしてしまったわ。体は暖まった?ごめんなさいね、お婆ちゃんのこんな昔話につきあわせてしまって」


「いいえとんでもない、楽しかったですよ、それにココア御馳走さまでした。とっても美味しかったです」


「あらまあ、それは良かったわ。でも私もね、実を言うととっても楽しかったの、主人と暮らしたあの頃のことをこんなにも楽しく思い出せるとは思っても居なかったから」


 席を立って玄関に行った僕はぺこりと頭を下げた。


「それじゃあ僕はこれで失礼します」


「今日は本当にありがとう」


 幸さんの笑顔に見送られ、玄関を出ようとした僕は一瞬その傘の方に視線を向けた。

ほんの一瞬だったので、本当に見ることが出来たのかどうか疑わしかったけれども、その傘に重なって笑っている男の子の顔が見えたような気がした。


 きっとこれからもあの傘は幸さんと共に暮らしていくのだろう。いつまでも長く一緒に居られたらいいのにな。僕はそう願わずには居られなかった。


適うなら、彼女にも男の子の姿が見えると良いのだけれどもなあ。

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