付喪神
姿を消してしまった雨子様とは別の不思議な存在と出会うことに…
さて、神様が体の中に入ったから何かが変わったかと言うと、実は何もなかった。
実際それから三日間、雨子様からは何の話しかけもなく、僕にしてみると再びあれは現実に起こったことなのかと、自身の記憶を疑い始めてしまう始末。
人の記憶はかくも儚いものかと、自分自身でも呆れてしまうが、致し方のないことだ。
とにかく僕は目を前に向けて、足下をしっかりと踏み固めながら。ただ未来に向かって生きていくしかない。それが僕にとっての現実だった。
だがその現実が、雨子様に出会ったあの日から数えて五日目にして再び変化した。
それは学校帰りのことだった。
降りしきる雨の中、雲上では既に日も落ちているとみえ、駆け足で闇が迫りつつある頃だった。
傘を差して足早に家に向かっていると、脇道の路地の闇の向こうに、なにやら人影が浮かび上がっている。
それだけなら何のこともないことなのだったが、目を凝らすとその人影は、丸で闇の中で浮かび上がっているかのように見えるのだった。
今までの僕なら、ただもう気のせいとばかりに思ってかかわり合いにならないようにしていただろう。だが雨子様と関わってしまっているせいだろうか、何も考えずにそれを無視してしまうことがどうにもできなかったのだ。
どうしてそのとき関わり合うことを選んでしまったのか?今思うと不思議に思うことでもあり、僅かではあるが後悔に思うことでもあった。
ただその時の僕は関わることを選択し、それがいずれ運命の歯車を変える事に繋がっていくのだった。
お節介にも僕はその路地の中へと足を進めて行く。
そこには昔風の古い鋳物で出来たポストがあり、人影はその横にいた。
人影と見えた者は小さな男の子で、先日の雨子様ほどではなかったが、うっすらと闇の中で輝いている。
だがその視線は僕を通り越してその背後に向かっている。
不思議に思ったのも束の間、僕の視線が自分にあると分かると、急に僕のことを見つめた風だった。
「見えるの?」
そう問いかけられて縋るような視線に絡まれては、頷かざるを得ないだろう。
「…」
無言のままゆっくりと頭を振って見せた。
「…!」
すると顔中くしゃくしゃにしながら、その子は笑って見せた。そして笑いながら泣いている。
「あの…」
訳を知りたくて僕は話しかけた。
男の子は笑うのをやめた、でも涙は流したまま。そして目顔で問いかけてくる、僕に何を聞くのと。
「どうして笑って、どうして泣いているの?」
僕は思ったままに聞いた。すると小さな指で流れる涙を拭いながら答えてくれた。
「泣いていたのは大好きな人と別れたから、笑ったのはこうやって僕のことに気がついてくれる人に巡り会えたから」
いくら本通りから離れた路地だと言っても町中のこと、丸で人通りがないと言うことは無いだろうに。
と言うことはそうか、僕はふと雨子様とのことを思い出した。もしかすると彼は僕にしか見えていないのか?
しかしなあ、どうして僕にばかりこう見えてしまうのだろう?
雨子様から始まってこの短期間に二例目となると、少し偶然と考えるには無理がある。
不思議に思ったけれども、ともかく話を聞くことにした。
「初めに言って置くけれど、僕に何かが出来るとは限らない、それでも良かったら話してみてくれる?」
男の子は嬉しそうに頭を振った。
「幸さんが、手紙を持って来た時には雨が降っていたんだよ。でもここに来たらすっかり雨が止んでいて、それで僕のことを忘れてしまったんだよ」
「君のことを忘れてしまったって?」
幸さんとか言う人が手紙を持ってここまでやってきたのは分かる。何せここにはポストがあるのだから。
だが雨を降っているときは忘れないでいて、雨が降っていないと忘れるって一体どういうことなんだ?
ちなみに今はまたしとしとと雨が降り続けている。
僕は眉根を顰めて考えた。思うにこの子が人間の姿をして見えると言うことが、問題をややこしくしているのではないだろうか?
考えてみれば雨子様だって、人の姿はしてはいても果たして本体はどうだったのか、今をして思えば謎に思う部分がある。
僕は案ずるよりは生むがや易すしと、率直に聞いてみることにした。
「あの、僕の目からすると君は人間の男の子のように見えるのだけれど、本当は何なんだい?」
するとその男の子はびっくり眼をしながら僕をみた。
「ええ?お兄さんもしかして僕のこの姿を見て話しかけてくれたの?」
僕は頭を掻きながらその問いに答えた。
「ああ。うん。何がどうなっているのか知らないけれども、僕にとって君が人間の男の子に見えるのは確かだなあ」
「そっかあ、そうだよね、いくら何でも傘でしかない僕にいきなり人が話しかけてくるなんておかしいと思ったんだよ」
「傘?」
「うんそうだよ」
人が自分自身の目を以て何かのことを見ることが出来ないとすれば一体どうすればよいのだろう?
微かに白く光を放っている男の子のことを僕は今一度まじまじと見た。
すると彼の背後にうっすらと何かの形が見える。すると男の子自身が何かしたのだろうか?急にはっきりとその形が見えるようになった。
「こうしたら見易いでしょう?」
思うにどうやら彼は人間の姿でいることを止めたのだろう。そこには綺麗に畳まれた大きなこうもり傘が壁際に立てかけられていた。
恐る恐るそれを手に取ってみる。持ち手が仄かに暖かいような気がするのは気のせいだろうか?
雨子様の時と同じような声無き声が頭の中に響いてきた。
『僕が道案内をするから、幸さんの所へ連れて行ってくれる?』
こちらはもとよりそのつもりだったから二つ返事でそのことを了承した。
「ああ、それはもちろんだよ」
答える僕は自然に言葉を口にしていた。
『良かった、これでまた幸さんと一緒にいられる』
表情が見えるわけではないけれども、伝わってくる感じでとても安堵しているのが分かる。
僕はその傘の指図するままに路地を抜け、大通りを歩きさらにその先へ向かった。
街頭の光の元で見ると、ただの当たり前のこうもり傘と思っていた物が、実はとても良く出来た高級品らしいことが分かった。
生地がしっかりとしているし、持ち手の作りも安物の傘には見られない丁寧な細工が見て取れた。
『僕はこの国の生まれじゃないんだって』
僕の視線に何かを感じたのだろうか?その傘は急にそんなことを言い出した。
しかし考えてみるとその言い方が妙だった。どうして自分の生まれについての説明が伝聞口調なのだろう?
「自分ではどこで生まれたのか覚えていないのかい?」
『うん、僕が目覚めたのは最近だから…』
「ん…」
それが一体どういうことを意味するのか?その時の僕には理解のしようがなかった。だから傘の説明をそのまま受け取っておくしか他になかった。
『幸さんの言うには、僕は幸さんの旦那さんがイギリスとか言うところで買ってきたんだって』
大して世間のことを知らない僕でも、こう言った傘の本場はイギリスだと聞いたことがある。この少年自身はきっと理解していないのだろうけれど、この傘はきっとかなりの高級品であるに違いない。
『ああ、そこを曲がって三軒目だよ』
言われるがまま道を行き、三軒目の家の前に立った。
主人公の世界は徐々に不思議な世界へと変貌していきます