目的の地
お待たせ致しました
お弁当の入っていた容器を片付け、地面に敷いていたシートを片付けると僕達はその場を後にした。そこから先更に山道を歩いて行かなくてはならないのだ。
先ほどまでは少しへばり気味だった雨子様なのだったが、お腹に物が入るとさすがに元気も湧き出るようだ。
鼻歌交じりに着実に歩を進めて行く。
「戦いの時は別として、元々余り運動は得意とはしておらなんだのじゃが、こうやって懸命に身体を動かすというのも、実のところ良いものがあり居るの」
そう言いながら歩いている雨子様は、不整地を歩くことにもだいぶ慣れてこられたのか、周りの景色を眺める余裕も生まれてきたようだった。
辺りの緑は未だ若く、見ていて目に心地よいし、時折響く小鳥の鳴く声も耳を楽しませてくれる。
大地を踏みしめる足の感覚、時折香ってくる草いきれや、土の香り。肌を撫でる爽やかな風に木々の間から降ってくる美しい木漏れ日。
雨子様にとってその全てが心を豊かにしてくれる物なのだった。
「こうしてこの地を経験してみると、祐二はようにこのハイキングに我を誘ってくれたものじゃ。久方ぶりに人の手の入らぬ自然を味わうことが出来て、なんだかわくわくしてしまうの」
そうやって歩いて行くとやがて未舗装の山道が途切れ、再び細くはあるが舗装された道路に入っていくのであった。
「何と山中に分け入ってきたかと思って居ったのに、またこの様に人工の道があるのかや?」
雨子様としては思いも掛けなかったようだった。
「日本の国土は結構開発され尽くしているところがありますから、大都市近郊ではこういう感じのところが多いですよ。ちょっと興ざめかも知れませんが、目的地はもう少し行ったところに有ります」
僕にそう説明を受けた雨子様は、別に取り立てて不満に思うようなこともなく、寧ろ歩き易くなったわいとにこにこしながら、傍らに来ると手を握ってきた。
「せ、折角のデートじゃからの?」
そう言い分けるようにぼそりと言うと、赤くなってきた顔をさっとあらぬ方向へと向けてしまう。
ともあれ僕は嬉しいので否やはないのだけれどもね?
道が広くなって辺りが開けてきた分、涼やかな風がよく通るようになってきた。
道もまた山道のように急な傾斜では無いから歩くのも楽で、先ほどまでの様に汗にまみれて歩いていたのが嘘のようだ。
くねくねと曲がりくねった山間部の道路が暫し続き、有るところまで来ると急に目の前が開けた。
と、同時に湧き起こる一陣の風が、ぶわっと僕達を包むように吹きすぎていく。
「ゆ、祐二、あれは一体何なのじゃ?」
雨子様が震える声で僕にそう問いかける。
目の前には、そう広くは無いのだけれども、昔ながらの田んぼが草々の茂った土の畦で区切られながら、段々になって棚田を形成している。
その田には未だ少し小さいが青々とした稲が風になびき、水面がきらきらと日の光を反射している。
恐らくかつての日本の原風景では無いかと思われる世界が、彼方まで広がっているのだった。
「もしや祐二…そなたは我にこれを見せようとしてハイキングに連れ出したのかえ?」
雨子様はその景色から目を離せないまま僕にそう問うてきた。
「ええ…きっと見たいだろうなと思ったので…」
そう言う僕の手を雨子様の手がぎゅうっと握りしめてきた。
耳を澄ませばあちらこちらから、蛙の鳴く声がいくつも聞こえてくる。
「うむ…かつて我が見ていたのはいつもこんな光景であった。当たり前で何の取り柄も無いものじゃと思って居ったのが、こんなにも懐かしいものじゃとはな」
そう言うと雨子様は、暫しその場に立ち尽くして、心ゆくまでその地の風景を目の奥底深くに焼き付けるのだった。
小鳥の声と、蛙の鳴き声、田を渡る風の音、そんなものに包まれながら、気がつくと雨子様は僕の手を離れ、少し離れた田んぼの畦に独り立っていた。
目を瞑りながら天を仰ぎ、深呼吸でもするかのように手を広げ、ゆらゆらと立ち尽くす様は、丸でその場の自然そのものに溶け込んでいくようだった。
いや、形容だけでは無い、事実その姿がうっすらと薄らいできてはしないか?
「雨子様?」
驚いた僕が声を掛けると、はっとしたかのようにその姿がまた色濃くなっていく。
そして振り返ったかと思うと、何か悪戯を見つかった直後の子供の様にえへへと笑ったかと思うと、急に僕に向かって駆け寄ってきた。
そして僕の身体にどんとぶつかると、その身をぎゅうっと抱きしめてきた。
「済まぬ、心地よさの余りに危うく、神の身に戻ってしまうところであった」
そう言う雨子様に僕は問うた。
「一時でも戻っては成らなかったのですか?」
そんな僕のことを見上げた雨子様は、僕の頬を両の手で引き延ばしながら言う。
「い~や~じゃ~。例え寸時であったとしても今のこの身の、我の思いを途切れさせたくは無いのじゃ」
「神の身になると途切れてしまうのですか?」
不思議に思った僕が問うと、雨子様は手を離しながらうんうんと頷いて見せた。
「この身になって初めて気がついたのじゃが、人の思いというか感情は、ここ…」
と言うと雨子様は頭を指差した。
「…だけで有されるものでは無いようなのじゃ。身体も含めて一体となって出来上がると言うか、作り上げていくもののようなのじゃ。じゃからその、我は途切れさせとうは無い」
そう言うと雨子様は僕にしがみつくと胸に顔を埋める。ちょっ!雨子様?僕はその、汗臭いよ?でも雨子様はそんなことはお構いなしのようだった。
もっともその僕も、雨子様のおつむから匂う汗の臭い、少しも嫌では無かったのだけれどもね。
「さて雨子さん、もう少し歩いてこの景色楽しみませんか?」
そう言うと雨子様は身体を離し、照れ臭そうに笑うと軽く手を繋いだ。
そして僕達はその棚田沿いの道を更に上に向かって歩いて行った。
下から見上げる棚田も壮観だったが、上から見下ろす棚田は日の光を受けて本当に綺麗なのだった。
それを見ながら雨子様がぽそっと呟く。
「我ら神はこの様な暮らしは助けてやれるが、工業化され尽くしてしまうと及ばぬの…」
そう独り言ちした後、僕を見上げて言う。
「のう祐二よ。我ら神はもうそなたら人にとって必要の無いものになりつつあるのかえ?」
そう寂しそうに言う雨子様に僕は首を横に振りつつ言った。
「少なくともこの国に於いて、恐らく当分はそんなことは無いと思いますよ?確かに僕達日本人も、農業や漁業、林業などと言った産業から少しずつ離れているようでは在りますが、それでも毎年々の初めには必ず神様方をお参りしますもん。そんな僕達を神様方も見捨てたりはしないでしょう?」
すると雨子様は少し物思いに沈むようにしながら、やがてゆっくりと口を開いた。
「確かにそうじゃな…。そなたらはその時々に応じて必ず我らに参ってくれ居るものな。我らを敬い、思いを尽くしてくれ居るものな」
そう言いながら雨子様は少しずつ元気を取り戻していく。
そんな雨子様を引き連れ、僕はとうとう今回のハイキングの終点である、一軒の茶屋まで行き着いたのだった。
「お疲れ様雨子さん、ここが今日の終点ですよ」
鄙びた田舎の一軒家で、此処は昔ながらの峠の茶屋として成り立っている。
かつての農家の趣が残っているのか、雨子様は何となくではあるが、懐かしそうにあちこちを眺めている風だった。
「此処で一服したら後はもう帰り道となります。何か甘い物でも飲んで少しのんびりしましょうか?」
僕がそう言いつつ空いていた席に座ると、雨子様も直ぐその隣に席を設け、早速嬉しそうに手近にあったメニューを覗き込んでいた。
「僕はラムネかな?」
「我は…クリームソーダなる物を頼んでみるかの?」
僕はオーダーを取りに来てくれた店の方に、それぞれが選んだ物を頼む。
暫くして出てきたクリームソーダに、目を丸くしている雨子様。
ラムネは、昔ながらの懐かしい甘さと炭酸の刺激で僕に元気をもたらし、クリームソーダは、ぽっかりと浮かんだお月様のようなアイスクリームと、不可思議な色合いの緑のソーダ水の甘みが、雨子様にもまた元気をもたらしていた。
「この組み合わせ、いささか珍妙にも思えるが、アイスクリームの甘さの中に、ソーダ水のぱちぱちはじける微妙な刺激があって、何とも言えぬの?」
そんなことを言いながら雨子様は、くりくりとスプーンでクリームを回しながら少しずつ削り取っている。
そして矢庭に
「一口食べるが良い」
等と言いながらいきなりアイスクリームを一掬い、口の中に押し込んできた。
「美味いか?」
アイスクリームの美味さが、丸で自らの手柄であるかのように問うてくる。
仕方が無いという訳でも無いのだけれども、こう問われたら美味いと言うしか無いだろう?
僕は素直に感想を述べた。
「美味しいです」
「であろ、であろ?」
そう言いながら何とも幸せそうな顔をする雨子様。
うん、今日はこうやって雨子様を連れてきて良かったみたいだ。僕はその時になって初めて真に確信したのだった。
本当に都市部には、こう言った日本の原風景と言ったところが無くなってきました。
知らない人は知らないだけで済むのかも知れないけれども、実際神様が居られたら寂しいだろうなあ




