「月を飲む」
在るものが無くなると、やはりそれがいかに些細なもので有ったとしても、なんとはなしに心が欠ける思いがするものです
夜も大分更けた頃、吉村家のリビングでは独り雨子様が窓から外を見ていた。
午前に有った櫻爺の送りの儀式は実に賑々しく行われただけに、今の静寂が痛いほどに身にしみる。
古き盟友の欠けた雨子様のことを、色々と気遣っていた咲花様と和香様であったが、御二柱とも何かと用があるお忙しい身の上、くれぐれも気落ち無きようにと言いつつ、それぞれに帰って行かれた。
「あらあら、電気も付けずにどうしたの雨子ちゃん」
とはこの家のお天道様とも言える節子だった。
何も返事を返してこない雨子様の元にそっと歩み寄ると、彼女もまたそれ以上何も言わずにじっと雨子様の顔を覗き込んだ。
都会の夜とも成れば特に明かりなどは付けなくとも、窓の外から仄かな明かりが入り、その下で雨子様の顔は十分に見て取れる。
だから今その顔がいかに精彩を欠き、ぼんやりと魂が欠けたかのような表情になっていること、節子にも十分見て取ることが出来るのだった。
幾十年、幾百年かは知らないのだが、永きに渡って自分のことを見守ってくれた櫻爺が居なく成り、そのことの心の始末が、おそらくまだ出来ないで居るのだろう。
これはと思った節子はそっとその場を退去した。
そして暫くの後、手に盆を持ち静かに雨子様の所に歩み寄ると、そっとその盆を降ろした。
目の前に降ろされたその盆の内容にふと心が動いた雨子様が問う。
「節子、これは何なのじゃ?」
すると節子はよっこらしょとばかりに雨子の隣に座り込みながら言う。
「今日だけ特別ね?」
一体何を言って居るのかと雨子様は節子の顔を見る。
「一応ね、今の雨子ちゃんは高校生設定でしょ?」
そう言う節子に訝りながらも返事をする雨子様。
「うむ」
「だから本当はいけないかしらとは思うのだけれども、でもまあ神様なんだし、今日はおおまけにまけてまあ良いかってね」
そう言うと節子は、盆の上には無かった酒器を傍らから取り出して見せるのだった。
「節子、そなた…」
「神様でも時に飲みたいこともあるでしょ?」
いたずらっぽそうにそう言いながら雨子様の顔を覗き込む節子。
本当にこやつはと思いつつも、その気遣い、心遣いが堪らなく嬉しい雨子様。
「今日は茶では無く酒なので有るな?」
すると節子はくすくすと笑いながら答える。
「そうそう、おちゃじゃ無くっておちゃけね!」
そう言っては自らころころと笑い転げている。
その余りに楽しそうな笑い声に、雨子様自身もついついつられてくすりと笑い声を漏らしてしまう。
心の奥底にあった、大きくは無いけれども居心地の悪い小さな塊が、節子の笑い声で、そして自分自身の笑い声で少しずつ溶けていく。
「とにかくこれを持って」
節子はそう言って雨子様の手に酒杯を手渡した。
良く見るとそれは正月に屠蘇を飲んだ時の酒杯だった。
「ごめんね雨子ちゃん、我が家には神事に使えそうな酒杯がそれしか無いのよ」
「神事と申すか…節子…」
本当にこの女子は、と雨子様は心の中で思った。いつもしっかりと周りの者に目を向け、弱った心があれば必ず救いの手を伸ばしてくる。
節子の方が我よりも遙かに神を名のるのに相応しいのでは無いか?雨子様はそんな事を思うのだった。
奨められるがままに酒杯を持つと、節子がそっと酒を注ぎ入れる。
と、窓の外では雲が晴れ、その合間から煌々とした月が顔を見せた。そしてその月が酒杯の酒に映り込みなんとも美しい。
傍らに居る節子にも、雨子様の顔に反射した光の照る様から、酒杯の中に月が居ることが分かるので有ろう。
「あら、お月様を飲み干しちゃうのね?素敵」
等と言いながら手を打って喜んでいる。
そんな節子の仕草に心癒やされた雨子様はぐいっと呷って酒を飲み干す。
そして飲み干した後の酒杯の当たりを指でそっと拭うと、節子に手渡した。
「え?私も?」
少し驚く節子だったが、今一度差し出される酒杯を見ると丁寧に受け取った。
その酒杯に今度は雨子様がとくとくと酒を注ぐ。
「節子、そなたも我と共に月を飲むのじゃ…」
そう言うと雨子様は節子が月を飲み干す様を嬉しそうに見守った。
「なかなかに良い飲みっぷりよの?」
「あらそう?雨子ちゃんが下さったお酒だからかしら?」
節子はそう言うと茶目っ気たっぷりに笑んでみせる。
「ささ、折角作ってきたんだからちゃんとこちらも食べてね?」
そう言うと、盆の上に載った幾ばくかの肴を雨子様に勧める節子。
そこで初めて気が付いた雨子様、盆の上は彼女の好物ばかりが並んでいるのだった。
「節子…」
今の雨子様にはそう言葉を漏らすのが精一杯だった。
もう十分に櫻爺の為に涙は流し尽くしたはずなのに、今再びはらはらと流れ落ちて止めどない。
雨子様を思う節子の深い思いに曝されて、彼女は心の中の澱が次第に溶け、洗い流されていくのを感じていたのだった。
そんな雨子様の震える手に持たれた空の酒杯、そこに節子がそっと酒を注ぎ入れていく。はたと瞼を閉じ、涙を溢れるままにしながら節子の注いだ酒を呷る雨子様。
「何故に斯様に溢るるのであろうな?」
いくらでもこみ上げる涙に、そうぼやくように言い、苦笑う雨子様。
その目の涙をそっと指先で拭いながら静かに言う節子。
「その涙の分、櫻爺様は雨子ちゃんに思われていたのね…」
そう言う節子の言葉に、雨子様は櫻爺とのことを思い起こしていた。
「思えばあやつはいつも笑んで居った」
そう言うと雨子様は盆に載った肴を箸でそっと口に運んだ。美味い。その美味しさに思わずぽんと膝を打ちたくなるほどだった。
お陰で少し元気が出たのか、重かった口を開き始める雨子様。
「あやつはの、いつも笑って居った」
そう言うと雨子様は先ほどの肴をもう一口々に運ぶ。
「本当にただいつもそう笑って居るだけじゃったのじゃ。そう、照る日も曇る日もただにこにこと我を見守って居るだけなのじゃった。最初の頃など、ただ笑うしか能の無いこやつなぞ、一体何の役に立つものかと、不思議に思っていたくらいじゃった」
その時節子は思った。そんなことを言いながらも雨子様の表情はとても嬉しそうだなと。
「だがな、長い年月を経る内にそれで良かったのだと、いつしか気が付くようになったのじゃ」
さすがに雨子様のその心中までは読み取れない節子が、僅かに首を傾げる。
その動きを見た雨子様は静かに言う。
「考えてもみるが良い節子、永き時を経るに、その最中いつもなんだかんだと口を出され続けて居ったら、それは堪らぬぞ?」
一瞬きょとんとした節子だったが、直ぐに理解が行ったのか楽しそうに声を上げて笑い始めた。
その余りに楽しそうな笑いっぷりに、今度は雨子様が不思議に思って尋ねかける。
「何故にそなたは斯様に楽しげに笑うのじゃ?一体何を思うて笑って居るのじゃ?」
すると節子は、笑い涙を拭いながら言う。
「あのね雨子ちゃん、私の頭の中では、ガミガミ文句を言いまくっているおじいさんの前で、頭を抱えて蹲っている雨子ちゃんの姿が思い浮かんだのよ。それが何だかおかしくって…」
そんな節子のことを呆れた顔をしながら見つめる雨子様。だがそれで良いとも思う雨子様なのだった。
雨子様と節子のお話でした




