爺様の試練
どんな存在であったとしても、やっぱりそれぞれ悩みは有るのかもしれないなあ
僕が頷くのを見た爺様は、束の間嬉しそうな表情を見せたのだが、直ぐに厳しい顔つきになった。
「ではまずお前の心の基本的な耐久性を見たいと思うのじゃが良いか?」
もうここで引く訳にはいかないだろう、僕は即答だった。
「はい」
「ならば…」
そう言うと爺様は地面の一カ所を指さす。するとそこには割と大きめなベッド?が姿を現した。
「ではこの上に身を横たえるが良い」
僕は爺様に言われるまま、ベッドとおぼしき物の上に身体を引き上げ、その身を横たえた。
上に上がる時には固いとも言えるような状態だったのだが、身体を横にした途端に一気に柔らかさを増し、まるで液体のようになって僕を包み込む。
その柔らかで不思議な物が顔の所に来た時点で、呼吸!と思った僕は慌てたのだが、気が付いたらいつの間にかその呼吸が止まっている、それでいて何も苦しくは無かった。
多分爺様が何かやっているのだろうけれども、それが何なのかは分からない。
そうこうしている内に僕は身体の全てをその謎の何かによって覆われてしまう。
そうすると視覚はおろか嗅覚、体中の触覚まで全て何も感じられなくなってしまう。辛うじて平衡感覚だけは残っているのだが、徐々にそれも怪しくなっていく。
もっともこれについては極めてゆっくりと変化させてくれたので助かった。でなかったら酔ってしまってなんとも成らなかったことだろう。
そうやって一体どれだけの時間が経ったのだろう?現在の僕には時間の感覚すら無くなってしまっているので、なんとも言いようが無い。
僕はその不可思議な無感覚の世界で、いつの間にか身体を失い、精神だけで存在しているかのような、そんな錯覚に陥っていた。
寒くは無いのだが、絶望的なまでの暗黒と虚無感、そして孤独感。
上も無ければ下も無く、自分と外界を隔てている区切りとて無い、何とも言えない孤独感。
それこそ何を頼りに自分を維持して良いのか分からず、そうで有るが故に自分自身を維持することすら難しくなっていく。
これでは拙いと考えた僕は、心の中で何かとっかかりになるような物を考えた方が良いと思った。しかしはたと思う、一体何を考えるのが良いだろう?
色々と考えたが、その末に思ったのは雨子様のことを考えるという物だった。
何故なら今の僕には雨子様のことを思い起こすのが一番楽しくもあったし、楽でもあったからだ。
初めて会った時から、先達てのデートのことまで、記憶にある雨子様のことを何度も何度も思い出し、反芻し、その雨子様と会話することを繰り返した。
怒ったり泣いたり、笑ったり膨れたり、或いは甘えてきたり。
僕の記憶の中に居る雨子様は千変万化、くるくるくるくる鮮やかに変化しては、いつも僕のことを見つめてくれる。
僕はそんな雨子様の存在を感じながら、こう言う雨子様となら、永い時間を共に過ごすのもきっと苦に成らないだろう、そう思っていた。
実際多分その通りなんだと思う、何度も何度も繰り返し雨子様の姿を再生し、会話し、心を合わせる内に、徐々に雨子様と僕との区切りが薄まり、途切れ、末には無くなっていく。
『僕は誰?』
更に存在しないはずの時間が流れていく。
『僕は何?僕は……雨子様?』
いつしか僕という存在は希薄化し、無限にループを繰り返されて強化されていた雨子様が、徐々にでは有るが僕自身になりつつあった。
それでもまだ、極僅かではあるが、奥底の方、深奥の更に最下部には僕自身が残っていた。
『ボ…』
その時であるどこからともなく、懐かしい声が響いてきた
『愚か者、一体何をやって居るのじゃ?』
その誰だか分からないけれども、温かく懐かしい声が響くと、目の前?それとも遙か遠くの彼方なのか?
小さな光りの点がひょいと現れ、やがてにそれは球となり、更に広がり膨らみ形を持ち、そこには光り輝く裸身の雨子様が居た。
『しっかりせぬか祐二、そなたは一体ここで何をして居るのじゃ?自分自身すら無くし、変容し、一体何になろうとして居るのじゃ?』
そんな風に雨子様に怒られている僕は、何故だかその雨子様が僕の中の雨子様と少し違っていることに気が付いた。
『あれ?雨子様だけれども…雨子様じゃ無い…』
今をして思えばそれはもう半分寝惚けたような感じだったのだと思う。
僕のそのなんとも間の抜けた話を聞いていた雨子様は大苦笑しながら言う。
『本当にもうどうしようも無いやつじゃな?良いか祐二、本来こう言うものは男の方から眠れる女に致すものじゃ、我の方からするなぞ全くもって不本意なのじゃが、此度ばかりは致し方ない、こちらから施してやるが故、早う目を覚ますが良いぞ』
そう言うとその眩しくて直視していられないほどに光り輝く裸身の雨子様が、(よく考えてみたらそうやって眩しいほど光っていてくれて良かったと思う)すうっと僕の方へ近づいてきたかと思うと、多分、(何故ならこの時の僕には自分の身体のどこが唇なのかという感覚も無かった)唇なんだと思う、甘くて熱く、でもとても優しい口づけをそっと、与えてくれたのだった。
『馬鹿…』
小さな声で、雨子様がそんな風に言ったような気がするのだが、定かでは無い。
だがそんなことはともかく、雨子様が僕に与えてくれた口づけは、劇的なまでの効果を与えてくれた。
ほとんど無と言えるほど希薄化していた僕という存在が、その部分を起点に収束し、再構成し、密度を増し、やがてにはっきりと自分自身を感じるレベルにまで回復したのだ。
そして僕は、溺れかけた人間が初めてする呼吸のように、大きく息を吸い込むのだった。
「かっはぁ!」
途端に身の回りのあらゆるものが色を取り戻していく、触覚が甦り、香しい薫りが鼻腔に押し寄せてくる。
僕は定まらぬ目の焦点の中、その中央に位置する誰かの顔に意識を向けた。
もうはっきり見えなくたってそれが誰だか分かる。
僕はまだ余り力の入らない両の手を宙に持ち上げ、その誰かに向かって目一杯伸ばした。
勿論その誰かはちゃんとその手の中に入ってくれる、それだけじゃ無い、その誰かは僕のことを抱きしめてもくれる。
「目が覚めたようじゃな?」
その声は確かに雨子様だった。僕が自身の全ての感覚を失い、更にその自我までもを失いかけた時に、ただ一つ僕を生の世界に繋ぎ止めてくれたその人、いや、神様なんだけれどもね?そう、僕の大好きな雨子様だった。
僕は自分がどこに居たかと言うことを思い出しながら雨子様に問うた。
「ねえ雨子様…」
すると雨子様に耳たぶをカプリと噛みつかれた。
「そなたはまたも我のことを様付けで呼ぶのかや?」
僕は苦笑しつつ雨子様のその問いに応える。
「だってここには文殊の爺様が居られるんですよ?」
だが返ってきた雨子様の答えは、実にあっけらかんとしたものだった。
「構わぬ、我が許すのじゃ。普段通りで良いぞ?」
あれ?雨子様何となく怒っている?まあいいや、今の僕には余り色々なことにまで頭が回らなかった。
「ん、分かりました、雨子さん」
僕がそう答えるのを聞いて安心したのか、雨子様はそっと僕から身を解き放った。
そして僕の手を掴むとゆっくりと身体を引き起こしてくれたのだった。
そこには決まり悪げな表情をした爺様と、それを睨み付ける雨子様が居た。
「それで?何か申し開きがあるのかや?爺?」
あっちゃあ、見た感じこの雨子様は激おこである。
だがさすが爺様というか、やっぱり爺様というか、生みの親だけあって雨子様の激怒の視線をものともしていないようだった。
「まあそのように気色ばむな、元より今回のことはそこ成る祐二の希望することぞ」
そう爺様に説明を受けた雨子様は、心底驚いたような顔になって僕の方へ振り返った。
「何故なのじゃ祐二?」
信じられないと言った表情をしながら僕に詰め寄ってくると、再び雨子様は聞いた。
「一体何故にしてそなたは、あのように自我を失いかねぬような危険を冒すのじゃ?しかも我のまったく与り知らぬところで?あの爺に何か唆されたのか?」
自分の中に有る怒りと不安と、恐れ、それらの物を皆ない交ぜにしたような表情をしながら雨子様は僕に問うた。
そこで僕は考えた、果たして今のこの雨子様に僕の決心を話して良いものかどうかと。そして悩みながら爺様の方をちらりと見ると、彼は本当に微かな動きでしか無かったが、僕に向かって頷いて見せてくれたのだった。
その爺様の後押しを受けて僕は、雨子様に僕の思いを告げることにしたのだった。
「あのね雨子さん…」
「なんじゃ祐二」
そう言う雨子様は何ともじれったそうだった。
だが僕は気持ちを抑えながら努めて静かに言葉を継いだ。
「僕は雨子さんのことが大好きなんです」
すると雨子様は顔を真っ赤にしつつ、ちらちらと爺様の方を見ながら答える。
爺様はと言うと素知らぬ顔、まるで鼻歌でも歌っていそうである。
「そ、それはその、うむ。我もそのことは要に知って居る」
「だから僕は…」
その先更に言葉を続けようとしたが、一瞬逡巡してしまう。その言葉の持つ重み、これから先に横たわるものを思ってのことである。だが例えそうであったとしても、今の僕は後ろに引くつもりは無かった。腹に力を入れ、背筋を伸ばして言葉を形にした。
「だから僕は、今すぐは無理かも知れませんが、必ず雨子様と一緒になろうって思いました」
僕のその言葉を聞いた雨子様は、頬に朱を差しながら視線を下げ、少しはにかみながら言う。
「うむ、いずれ夫婦となってくれると言いおるのじゃな?我も、我もゆくゆくはそうなりたいと願うて居る」
うん、分かってる、雨子様の中では普通の人間として僕と歩んでくれようとしているのだって事。でも、そうやって二人で時を過ごした後、僕を先に喪ってしまった雨子様はどうなってしまうのだろう?孤独に苛まれながら日々を送るのだろうか?或いは僕の後を追ってしまうのかも知れない。はたまた僕のことを忘れるようにする?これはあり得ないと思う。
いずれにしても雨子様が不幸せになるのが目に見えるような気がしていた。
だから僕は、僕としては雨子様のことをそんな不幸にはしたくない。
「あのね雨子さん、僕の言うのはそう言う意味じゃ無いんだよ」
すると一瞬あっけにとられ、その後見る見るうちに目に涙を溜めた雨子様が言う。
「なんじゃと、祐二は我と一緒になることを厭うというのかや?」
慌てて僕は雨子様のその言葉を否定しに掛かる。
「違う違う、雨子さん、勘違いしないで!」
その慌てようが可笑しかったのか、傍らで爺様がにやにやしている。もうどうしようも無い生みの親だな、まったく。
「僕が雨子さんに言いたかったのは、もっと先の話なんだ」
「先の話?」
そう言いながら雨子様はぐすぐす言いつつ涙を収めた。
「僕はね、今の僕はただの人間でしか無くって、例えこの状態で雨子さんと連れ添っても、せいぜい何十年という単位しか共に暮らすことが出来ないんです」
そう言う僕の言葉に、雨子様は何か言おうとして口を開けては閉じると言うことを何度も繰り返した。
そんな雨子様のことを見ながら僕は更に言葉を続けた。
「でもそれだと、僕が先に居なくなってしまった後、雨子さんを不幸にしてしまう、例えようも無く悲しませてしまう。ぼくは雨子さんがそう成ってしまうのがどうしても嫌だったんです。だから…」
僕はそう言うと爺様の方へ視線を送った。
「だから僕は爺様にお願いして、雨子様と同じような存在になろうかなって思ったんです」
すると雨子様は目を大きく見開き、それこそこぼれ落ちてしまうのでは無いかと言う風にしながら僕に言った。
「そ、そなたが、我と同じ存在になると言うのかえ?」
「…」
僕はゆっくりと頷いて見せた。
雨子様の顔一面に喜色が広がっていく。体中から歓喜の色が溢れていく。
だがそれも束の間だった。雨子様は小さく消えてしまいそうになりながら、目を瞑り、黙りこくってしまう。
やがてに恐る恐ると言った感じで薄く瞼を開けると僕に問うのだった。
「じゃが…じゃがそれじゃと、今度はそなたが我と同じ苦しみを得ることになるのじゃぞ?」
そう言う雨子様の言葉には悲痛な思いが満ち、身を捩るようにしながら僕に手を伸ばそうとしては引っ込めるを何度も繰り返している。
「そなたが、我と同じ身になれば、我と同じゅうにいずれ家族と別れ、友人とも別れ、何時しか人とも別れて生きていかねばならぬのじゃぞ?それでも良いと言うのかや?」
僕は雨子様の伸ばされ掛けた手をしっかりと掴むと言った。
「人間だっていずれ親とは別れ、友人達とも別れる時が来ます。それとは別に、永くを生きるというのは今の僕には理解出来ないような、大変なことが一杯有るかとも思います。けれどもきっと、雨子さんと一緒なら大丈夫なんだと思うんです。雨子さんと一緒に喜び、悲しみを経験していくのなら、大丈夫なんだと思うんです」
そう言うと僕は雨子様のことをしっかりと抱きしめた。
すると僕の胸板に顔を押しつけた雨子様は、これまで聞いたことの無いような声を出しながら、ひたすら泣きじゃくり、しがみつき続けるのだった。
そしてそんな僕達のことを爺様は、限りなく暖かで優しい眼差しで、いつまでもいつまでも見守り続けてくれるのだった。
求めよされば与えられん
頑張れ祐二君




