「朝の一時(ひととき)」
思った以上に書くのに時間が掛かる回でした
散歩から帰ってきた雨子様は、依然として祐二が起きていないことに少し驚く。
今日は所用があるとかで節子が既に出かけてしまっており、朝食は雨子様が作って祐二と共に食べようと思っていた。だから未だ起きてこないというのでは、さすがの雨子様も空腹に耐えかねるというものだった。
きゅうっと鳴るお腹の虫に、もう少し待つのじゃと心の中で語りかけながら、祐二の寝ている二階へと向かう雨子様。
軽くノックした後、
「入るのじゃ」と声がけして室内に入るのだが、やっぱり祐二は眠っていた。
全くもってよく寝て居るなと感心するも、寝る子は育つとも言うから仕方が無いのかとも思う。
雨子様はベッドの側に行きそっと床に腰を下ろすと寝顔に見入った。
起きている時には最近随分大人びてきて、男の顔をするようになったなと思っていたのだが、こうやってあどけなく眠っている顔は、初めて会った頃の祐二のことを思い出させる。
目に掛かりそうになっている髪をそっと掻き上げながら言う。
「人の子が大きくなるのはあっと言う間じゃの…」
雨子様はベッドの端に腕を乗せ、そこに顎を乗せる形で祐二の顔を眺め続ける。
時折夢でも見ているのか、瞼がぴくぴく動いたりもするのだが、依然として起きようとする気配は見られない。
「全くもって何を夢見て居るのやら…この寝ぼすけめ」
そう言って軽く罵りはするも、だからと言って腹を立てている訳では無い。その証拠に先ほどから雨子様の口角は引き上げられたままだった。
と、その祐二の口から突然言葉が語られる、でも起きたという訳では無い、だから寝言という訳なのだが…。
「雨子様…」
そうやって寝ている者の口から語られる自らの名にどきりとする雨子様。
一体どんな夢を見ているのじゃろうな?そう思いながら祐二のことを見つめ続ける雨子様。
「しかし未だそなたは我のことを様付けで呼ぶのじゃな…」
雨子様は静かにそう言い放つと唇を尖らせた。
寝言であるのだから、文句を言っても始まらないのであるが、ちょっと口惜しくも思ってしまうのだ。
かつて雨子様の前に現れた、痩せ衰えてガリガリになった小さな子供はもう居ない。
今思えばただの庇護の対象でしか無かったこの少年が、一体いつから対等になり、ともに歩きたいと思えるような存在になったのだろう?
この少年が変わったのか、それとも自分自身が変わったのだろうか?いやおそらく二人が互いに変わっていったのだろう、それぞれが相手の影響を受けながら。
これから先自分達は更にどのように変わっていくのだろう?
そう思うと雨子様は少し怖くもあった。
悠久とも思える長き時の間、例え変化することはあってもごくごく僅か、丸で水滴が岩を穿つかのようにしか変わることが無かった自身が、この少年に出会ってからいかに早く変貌していったことか。
そう、もうどのように変わり行くのか、先が知れぬと言って良いのかも知れない。
かつては長く緩やかな連続性の有る変化しか知らなかった自分が、今は激しく時に華やかに変貌し、その様はまるで統一性を欠いているかのようにすら思える。
これは一体何なのだろう?この先自分が進むべき未来に待つのは、光りなのか闇なのか、今の雨子様にはそれすらも見通すことが出来なかった。
雨子様は思う、良く人間達はこの様に不確かな思いの中、未来を目指して生きていけるものだなと。
予測出来ない未来に向かって、胸に大きな不安を抱えながらも、ひたすら走り抜いていく人間のことをある意味凄いとも思ってしまう。
そして笑みを浮かべながらそれを熟してしまうこの者達のことを尊敬すらしてしまう。
雨子様は思った、自分一人では絶対無理だろうと。この者、祐二が居てくれるからこそ例え不安であったとしても、共に未来に向かって変化していけるのだと。
そう考えることで初めて雨子様は、自分の心の内にある不安の影が薄まっていくのを感じることが出来た。未来という得体の知れない物の中へ、足を踏み出していく勇気を得ることが出来た。
そこで雨子様は思わず笑ってしまう。自分の方が目の前で眠るこの少年よりも、遙かに長く長く生き、経験も積み、力を持っているにもかかわらず、今はすっかりと彼を頼りにしてしまっているので有る。
これを笑わずしてなんとしよう。
だがその笑いは消して自虐でも無ければ、何かを皮肉る物でも無かった。
どちらかと言うとこの不可思議な状況を可笑しがるとでも言えば良いのだろうか?そう言う笑いなのだった。
雨子様は改めて今目の前に居る少年の顔を見つめる。
「もう、祐二め!」
何だかそう言わずしていられなかったのだ。
すると期せずして相手から言葉が返ってきて少し慌てる雨子様。
「どうしたの雨子さん?何かあったの?」
「もう、勝手に起きるのでは無い!」
って、いくら何でも雨子様、むちゃくちゃな言いようで有る。
「え?何それ?」
照れ隠しで思わず心にも思っていないことをつい言ってしまった雨子様、勿論自分が悪いと言うことは重々分かっている。なのであっと言う間にしゅんとして、俯いてしまう。
「すまぬ、我が悪かったのじゃ」
だが起きたてでまだしっかりと頭の動いていない祐二としては、もう何が何やらである。
「別に何も怒っていないし、気分も悪くしていないからそんな風に謝らなくても良いですよ…」
しょんぼりしてしまっている雨子様が気の毒になってそう言う祐二。
だが雨子様はと言うと俯いたきりで動こうともしない。
「はいはい、もうおしまいおしまい」
祐二は全てをリセットすべくそう言葉を発したのだが、どうにも直ぐに浮上してこない雨子様。
さてこれはどうしたものだろうと思う祐二であったが、こう言う時は言葉より行動?そう考え、ふと雨子様の頭に手を伸ばしかけ、そして思い留まる。
いや~、いくら何でも自分が雨子様の頭を撫でるなんて、やっぱ拙いかなとも思うのだ。
だが自分の頭の少し上で停止した祐二の手を見るや、雨子様はぐいっとその手を自らの手で捕まえてそのまま頭に乗せてしまう。
思いも掛けない雨子様の行動に少しの間戸惑う祐二だったが、その目に宿る期待の色を読み取ると、後はままよと優しく丁寧にその頭を撫でるのだった。
「むふぅ」
雨子様が満足げにそんな声を漏らす。そして不安げだった顔に笑みが満ち満ちていく。お陰で祐二まで温かな気持ちで満たされていく。うん、良い朝だ。
暫くして祐二の手の感触を堪能した雨子様は、ご機嫌になりながら祐二に言う。
「そろそろ朝ご飯を食べぬかや?」
言われた祐二は自分のお腹が空腹であることを確認したのだが、その最中に隣でも何やらお腹の虫が鳴いている。
「きゅぅ~~~~」
「「あっ…」」
同時にそう言って顔を見合わせ、そして吹き出す二人。
その時雨子様は思うのだった、こんなことでも人は幸せを感じることが出来るのだと。
そして今その幸せをくれる祐二のことを、この上も無く愛しく思う自分が居ることにも気が付くのだった。
「何が良い?ご飯かや?パンかや?」
眠そうに欠伸をし、伸びをする祐二のことを見つめながら、雨子様は例えようも無く優しい笑みを浮かべていることに、自身では気が付いていない。
「そうだなあ、今日はご飯の気分かな?」
それを聞いた雨子様はにこやかに頷いてみせると言う。
「うむ、分かったのじゃ。ではご飯のメニューとするかの?」
「何か手伝おうか?」
何も言う前にそう申し出てくれる祐二なのだが、雨子様はともすれば溢れそうな喜びを何とか抑え込みつつ言う。
「良い、我が作るので大人しゅう座って居るのじゃ」
そう言うと雨子様はついと立ち上がり、とととと足音も軽く階下に降りていくのだった。
「卵焼きは甘いのかや?塩っぱいのかや?」
階下から声が駆け上がってくる。
「甘いのが良いなあ」」
即座に答える祐二。
ご機嫌なのか雨子様の鼻歌が聞こえてくる。そうやって祐二もまた、幸せな一日の始まりを噛みしめているのだった。
はたして雨子様や祐二の心内、一体どこまで書き込めているのだろうか?
色々悩んだ回でした




