「和香様の思い」
筆者が生まれて初めて抱かせて貰った赤子は、姉の子供でした。
小さな小さな手の指に、これまた更に小さな爪が生えているのを見て何だか感動したのを覚えています
翌朝目が覚めると、朝風呂に向かう者と、そうで無い者に分かれていく。
凡そ大人と称する年齢になった者ほど風呂に向かうところがあり、そうで無いものはただ眠りを貪っていることが多い。
だが大人に属していながら、なかなか思うに任せて好きには動けない者も居る。
良い例が葉子だった。
既にとっくの昔に大人の立場に立っているのであるが、今の彼女に自分勝手に好きなことが出来るという自由は無い。
大分間隔は空いてきているとは言う物の、やはり赤子である美代のリズムに合わせて寝起きをしなくてはならないのだ。
普段寝所を共にしたことなど無かった和香様なのだが、共にしてはじめて知る人の苦労は、ある意味とても新鮮ですら有った。
葉子にとってそれが日々の日常なのであるが、だからと言ってこれは簡単に慣れることが出来ると言う類いのものでは無い。得てして寝不足に陥りやすいのであるが、ここでは頻繁に小和香様が顔を見せて、その手伝いをしてくれるので随分と助かっている。
夜中は勿論朝方も、美代がぐずって起きそうになると直ぐに目を覚まし、葉子がミルクを飲ませたのであれば後を受けて寝るまであやし、おむつが原因であれば葉子を起こすまでもなく手早く交換していく。
本来神性の者はそう言った汚れをことのほか嫌う物なのだが、人の身になることを許されてから以降の小和香様は、そう言うことに拘らずに進んで手伝いをするのだった。
喜々としてその役割を果たしていく小和香様を見る和香様の目がとても細くなる。
何故なら、小和香様が美代を抱いている時の様が、本当に幸せそうだったからだ。
そんな小和香様のことや、傍らで寝ている雨子様のことを見ながら和香様は思う。
もしかすると自分達神が、人からその身を隠すという時代は、そろそろ終えても良いのではないかと。
ただやっぱりまだ怖い。余りに強い人の欲望が自分達に向かうことを思うと、その思いから抜け出ることが出来ないのだ。
神の身で何を恐れることが有るのかとも思うのであるが、人との共存でのみ生きることが適うことを思えば、無碍にも出来ないので致し方のないことかも知れない。
思えばもう何千年も、人の本質は余り変わっていないのかも知れない。こと、欲に関する限りは、近年、より深く激しい物になっているとさえ思える。
そして和香様は思った。人々の願いを叶え、幸せを齎す仕事をするのも良いが、自分達自身ももう少し幸せになることを追求しても良いのでは無いかと。
何故なら雨子様が発見?いや再発見なのか?した新たな宝珠?分霊?を用いれば、自分達神が人の精に頼らずとも良くなる時代が、もう目と鼻の先まで来ているのだ。
小和香様が美代を抱き上げると、嬉しそうにきゃきゃと笑う声がする。そんな美代のことを小和香様は無上の宝のように抱きしめ、誰にも見せたことのないような笑みを放っている。
ふと目を移すと、その近くの布団の中で雨子様が満ち足りた表情で眠っている。
昨夜遅く、何やらあゆみを伴って風呂に行き、暫く後に二人で楽しげに内緒話をしながら戻ってきた。
出かけていく前とはうって変わったその雰囲気に、一体何があったのかと聞きたい気持ちもあったのだが、和香様としてはこの心優しき親友が自ら話をする気になるまで、何も聞かずに待っていよう、そう思っているのだった。
それにしてもよく眠っている。お前は朝風呂に行く側ではなかったのかと、和香様は心の中で思いはするのだが、どうやら現実の中では異なるようだ。ちょっと羨ましくすら思ってしまう。
人達の営みを見、美代をあやす小和香様の姿を見、柔らかな眠りの中に居る雨子様を見ながら和香様は思う。これからの神はいかにして生きるべきなのかと。
人間達から袂を分かって神達だけで生きる。
生きる為に必要な精を自給自足しつつ、今まで通り人間達との関わりを持っていく。
新たな精の自給方法は確立せずに従来のまま生きていく。
和香様としては神様達が取るべき未来として以上の三つの方法が考えられるのだが、さてどの方法を選ぶべきなのか?はたまた選ぶべきではないのか?元より選ばないのであれば三番目の方法を選択することに等しい。
どうしたものだろうと、思い悩んでしまう和香様なのだった。
さすがに朝食の時間ともなれば、全ての者達が揃って起きていた。
今朝は昨日の大広間ではなく、人間達がいつも使っている広間での朝食となる。
今日はその中に混じって和香様と小和香様も共に食事を摂ることになっている。
その小和香様の姿が見えないので、どうしたのかと見渡す和香様なのだが、直ぐに得心がいった。
どうやら葉子と共に美代を連れて風呂に行ってきたようだ。とても楽しそうに何やら話しているのが聞こえてくるのだが、なんでも初めて小和香様が美代のことを風呂に入れたらしい。
それを聞いていた和香様は、いつの間にか自分の頬がぷっくりと膨れていることに気が付く。いや、気が付かされた。
「あの…和香様?」
「ん?なんやのん小和香?」
そう言う和香様に小和香様が恐る恐る言う。
「どうしてそのように膨れておられるのですか?」
「へ?うち膨れてるんか?」
そこへ雨子様からも同様に言葉が掛かる。
「うむ、和香がそのような顔をするのは珍しいの」
「あぅ」
そう言うと和香様は思わず自分の頬を手の平で押さえた。確かにこれは膨れている。
そのように無意識に表情を変えることなど、かつて無かった和香様は慌てながら考える。
そしてやがてに結論づける。一つには彼女もまた今人の身で有ること、もう一つには多分彼女は小和香様が葉子や美代とあのような形で交わっている、そのこと自体が羨ましいのだと。
和香様は恐る恐る葉子に言う。
「なあ葉子ちゃん、うちもその、美代ちゃんのこと抱かしてもろてもええかな?」
今まで一度としてそう言ったことのない和香様の様子に、小和香様が心中驚き微かに目を丸くする。
だがそんな裏の思いは何も知らない葉子は、にっこりと笑いながらそっと美代を和香様に差し出す。
「おっおっおっおっ?」
ぎごちない手つきで受け取ろうとする和香様に、慌てて小和香様が側に寄り、口を尖らせて言う。
「和香様、美代は脆いのです、豆腐を受け取るよりも優しく抱いて下さいませ」
「豆腐ぅ?」
なおぎこちなくあわあわし出す和香様。
そんな和香様の様子にくすりと笑いながら優しくアドバイスを施す葉子。
「大丈夫ですよ和香様、落としたりしなかったら少々のことではこの子は泣きもしませんから」
だが落とすという言葉が良くなかったらしい。何だか余計に緊張した和香様はガクガクとしている。
そんな有り様を見て周りの人間達がぞろぞろと集まってきて見物を始める。
それがまた和香様に緊張を強いる。
「小和香ぁ…」
半分べそをかきそうになっている和香様。
そんな和香様の肩に雨子様の手がそっと掛かる。
「大丈夫じゃ和香、骨は拾ってやるのじゃ」
「骨ぇ?」
もう何が何やらで和香様はほとんどパニック状態だったのだが、周りを取り囲んだ人間達のどっと笑う様にようやっと身体がほぐれ、何とか美代を受け止めることが出来たのだった。
下から和香様のことを見上げ、にこにこと笑っている美代。抱いた身体からは誰よりも高い体温が伝わってくる。この甘い香りは何だろう?ミルクなのかな?
何時しか和香様は蕩けたような顔で美代のことを抱きしめている。
そして和香様は思うのだった、人達と袂を別って生きていくことなど絶対にあり得ないと。
その時まで、もうあと僅かです……




