「星空の下」
はい、こうなりました……
杖が落ちるのは翌日の正午前後と言うことで、食事の後は皆それぞれ自由に寛ぎ、当地自慢のお風呂に何度も繰り返し入っては命の洗濯をしている。
お風呂の方も改築されていて以前の数倍の広さにもなっており、加えていくつか泉質の異なる物も誂えられていた。
湯着を着ているので男女の区別も無く、気の置けない者同士が集ってそれらの温泉に浸かるのだが、小者達が適宜飲み物を持ってきたりするので、ちょっとした温泉地なんかよりも遙かにサービスが上と言えるだろう。
景色は彼方まで続き、空も果てしなく青く美しい。ここが地下であるとは教えられても信じることが出来ないのだった。
そして夜ともなれば、満天を埋め尽くす星また星。仰向いてそれを見つめていると、錯覚でその中に落ち込んでいきそうにすら感じてしまう。
唯一人間側から文句を言うことが有るとすれば、そこにやたらめったら神様方が多いことくらいだろうか?
だがそうは言っても、居られる神様方は皆気さくで優しい方々ばかりで、ちょっとした切っ掛けがあると四方山話に花が咲いたりしている。
七瀬のお母さんの聡美さんなどは、周りを全て神様に囲まれた時など、それこそパニック状態になりかけていた。
しかし雨子様が間に入り、わいわいと世間話を繰り広げている内に、何時しかすっかり心を許して話の輪に入っていったのだった。
そして仲良くなった神様方から、思いも掛けぬほどの加護を頂き、長年の頭痛の種だった腰痛がすっかり改善されたなどと言って驚き、喜んでいる。
和香様曰く、神様方にとって身近に接することの出来る人間が、最近冨に少なくなっており、こうやって裸の付き合いよろしく、生の人間と接することが出来るのがとても嬉しいらしい。道理で人間達に対して少なからぬ加護が飛び交うわけだった。
そうやって人と神様を交えて実に賑々しく、楽しい時間が過ぎていくのだが、やはりその根底には一抹の緊張感が無い訳では無かった。
翌日起こることを考えると致し方のないことなのかも知れない。
ともあれ更けゆく夜、皆は早めに部屋に引き上げていく。特に人間達は、たっぷり浸かった温泉の疲れなどもあったのか、そうそうに床についてしまった。
さてそうやって皆が寝付き、頃は夜半を過ぎた頃だったろうか?
七瀬は誰かが肩を揺さぶるのを感じて目を覚ました。
「ん…?」
見るとそれは雨子様だった。
「なぁに雨子さん?」
眠そうにそう言う七瀬に、雨子様は少し頭を下げながら小さな声で言う。
「あゆみ、そなたにちと話したいことが有るのじゃが、一緒に風呂にでも参らぬか?」
まだとても眠かったので一旦は断ろうかとも思った七瀬だったが、何となく雨子様の真剣な雰囲気を感じてゆっくりと首肯した。
音をさせないようにそっと部屋を抜け出し、温泉に向かう二人。
雨子様の後ろからついて行く七瀬は、ふと雨子様の肩が微かに震えているのを見たように思った。だが一瞬後その様は見る影もない、気のせいだったのだろうか?
脱衣場で着替え、洗い場でささっと身体を洗い終えると、微かに光る道を辿って、数在る温泉の内の一つに向かう。
床面からの間接照明なのか、お湯が仄かに光り、足下が見えているので不安を感じることなく、そっと湯の中に身体を沈めていった。
ちょっと温めで、此所ならいくら話し込んでも大丈夫かな?そんな事をふと思う七瀬。
見上げると漆黒の空に光り輝く無数の星々、美しすぎてため息が自然に出てしまう。
「綺麗…」
七瀬はそう言いながら星を掴もうとするかの様に手を伸ばした。
「本当に綺麗じゃの…」
雨子様もまた久々に見る無欠の星空に、暫し我を忘れるように魅入っているのだった。
「それで?」
七瀬が囁くように雨子様に問う。
「うむ…」
そう言うと雨子様は俯いてしまう。そして時折少し顔を上げて何か言おうとしては、上手く言葉に出来ず、再び俯いてしまう。
何度かそんなことを繰り返しているのを見た七瀬は、そんな雨子様のことが心配になってしまい、そっと側に近づくと肩に手を掛け、顔を覗き込みながら言う。
「大丈夫なの?雨子さん?」
それに答えようとして上げられる雨子様の目からは、大粒の涙が零れて流れ落ちる。
湯の水面から発せられる淡い光りが、波紋の跡を残して顔を照らし出し、夜の闇の中、一切を明らかにしていく。
暫しの沈黙の後、嗚咽の合間にようようにして雨子様は小さな声で言う。
「済まぬあゆみ…」
「済まぬって雨子さん、それだけじゃ何も分からないわよ?」
そういう七瀬の言葉に、何とか雨子様は嗚咽を堪えようとするのだが、何故かこの時ばかりは上手く抑えることが出来ないのだった。
そんな雨子様のことをどう慰めようかと思って悩む七瀬だったが、やがてふと思い当たることがあったのでそのことを口にする。
「もしかして祐二君のこと?」
どうやら当たりだったらしい、驚きの為か丸でしゃっくりでも止まったかのように嗚咽が止まり、驚き見開かれる雨子様の目。
「ど、どうして…?」
くぐもった声でそう問う雨子様。
そう聞いてくる雨子様に七瀬はほんの少しだけ苦笑しながら言う。
「だってさ、私、二人の一番身近に居るじゃ無い?何となくね…」
そう言うと静かに俯いてしまう七瀬。
そんな七瀬の所作に気付き、思わず唇を噛みしめてしまう雨子様。
「…我もまた、あゆみが彼奴のことを好いているのを知って居った…」
そう言うと雨子様はふうっとため息をついた。
「元より我が、あの者を女子として好きになるとは、思うておらなんだのじゃ」
そう苦しそうに言葉を吐く雨子様。
「でも好きになっちゃった?」
雨子様のその言葉に少し同情するように言う七瀬。
「そ、そうなのじゃ…どうして?何故なのじゃ?我は神、あやつは人の子に過ぎぬのじゃぞ?」
雨子様の声音には、彼女の思い悩む様がそのままに現れているようだった。
七瀬はそんな雨子様の手を取ると悲しそうに微笑みながら言う。
「それでも好きになっちゃんだもの、仕方無いよ…。雨子さんも普通の女の子だもん」
七瀬のその言葉に驚く雨子様。
「わ、我が普通の女の子?」
信じられないことを聞いたかのように、大きく目が見開かれている。
「そうよ、知らなかった?」
「し、知らなかった…」
そう返事して、丸で鳩が豆鉄砲でも喰らったかのような顔をしている雨子様に、思わず七瀬は吹き出してしまった。
「雨子さんたら可笑しい…」
「わっ笑うでない」
そう言う雨子様はいつの間にか頬を膨らませている。
七瀬はそんな雨子様の頬をそっと指で突いて、膨らみを笑窪に変える。
「会った頃の雨子さんはね、こう言ったら何なんだけれど、どこか人形みたいな感じで、人の心の機微が余り良く分かって居なくって、ああ、やっぱり神様なんだなって思ったの」
そう言いながら七瀬は過去のことに思い馳せているようだった。
「でもね、そんな雨子さんが、私達の間で暮らし、祐二君と接している内に、少しずつ殻が取れて、まるで蕾が開いて花になるみたいに、普通の女の子になっていくのを感じていたの」
そう言うと七瀬はふうっと深い吐息を吐いた。
「最初の内はね、私も祐二君のことを盗られてしまうような気がして、とても、とっても嫌だった。それこそ雨子様にどんな悪戯をしてやろうかって思う位にはね?」
「あゆみが?我に?悪戯?」
驚く雨子様は目をまん丸にして七瀬のことを見る。
「そう、悪戯、半分位までは本気だった。でも雨子さん、可愛いんだもん。何にでも一生懸命で、私とユウの為にあんなにも頑張ってくれて…。そんな雨子さんのこと、憎めないじゃん、酷いこと出来るわけ無いじゃん」
そう言いながら七瀬は雨子様の正面に回り、その目を深く深く覗き込む。
「それにね…」
そう言う七瀬の目に大粒の涙が浮かび上がる。
「それに私も雨子さんのこと、大好きなんだもの」
そう言うと七瀬は雨子様の胸元にしがみ付くと、わんわんと泣き始める。
そして雨子様もまた、そんな七瀬のことをぎゅっと抱きしめながら、溢れ出る涙を抑えられないのだった。
そうやって二人が涙を流し、もうこれ以上泣くことが出来なくなったと思うまで、一体どれだけの時が流れたと言うのだろう。
仮初めの空では幾つもの星が流れ、北斗の星を中心に、星々がいくらかの歩みを進める、そんな時の刻みの後二人は抱擁を解き、並んで空を見上げる。
「あゆみ、我もそなたのことが好きじゃ」
「知ってる…」
七瀬のその言葉に不思議そうに雨子様が問う。
「何故知って居るのじゃ?」
「だってね雨子さん、あなた自身は知らないかも知れないけれども、大切だって思う人に対して、時折もの凄く愛おしそうな視線を向けるんだもの」
「そっ、そうなのかえ?」
無くて七癖とは言うが、雨子様は思わぬところで自分の無意識の所作を知らされるのであった。
「そう、私にも時折そんな視線を向けるんだもの、最初の頃はもの凄く照れ臭くって、上手く目を向けられないことがあった位よ?」
「わ、我は斯様なこと意識したことは無かったのじゃが…」
「もしかするとそれって雨子さんの神様としての視線も有ったのかもね?」
「と言うと?」
「だって雨子さん、たまに愛し子って言っていたでしょう?あれって多分神様としての面が有るんだと思う。でも祐二君に向けられている視線は、いつからかもっと人間寄りって言うか、どこか求めているようなそんな物に変化していった」
そういう七瀬に雨子様は不思議そうに問うた。
「どうしてあゆみは視線からそのようなことまで読み取れるのじゃ?」
「それはね、多分私が祐二君に恋していたからだと思う」
「恋をするとそう成るのかえ?」
そう言う雨子様に対して七瀬は少し首を傾げる。
「皆が皆そうなれるのかどうかは分からないわ。でも恋することで人はそう言ったことに敏感になることが多いみたい。そしてだからこそ、祐二君が雨子さんを見る視線の変化に、気が付いちゃった…」
「そうなのかえ?」
「うん、だから…今でも祐二君のこと大好きよ?きっと恋もしている。でもこうやって雨子さんの胸の内を知ってしまうと…」
「あゆみの方がずっとずっと先じゃったのにの…」
「そう、ずっとずっと先だった、祐二君が初めて遊びに誘ってくれた時、棒取りしていて私がその棒で祐二君を叩いてしまった時、多分あの頃から私の好きは、始まっていたのだと思う」
そう言うと七瀬は深い深いため息を吐いた。
「うぐぅ…」
再び涙を滲ませ始める雨子様。
「あ、こらこら、もう泣かない、泣いたらだめなんだってばぁ」
そう言うと七瀬もまた涙を滲ませそうになっている。
「結局ね、こう言うのってどっちが先とかってことじゃ無いんだと思う。だってまだその思いが相手に届いていない訳なんだもの。要は何時相手に思いが届き、相手もまた同じ思いを返してくれるのかってことなんだと思う」
七瀬はそう言うとお湯を手ですくって顔を洗った。そしてにっと歯を見せて笑うと雨子様に問うた。
「それで?」
「それでとは?」
唐突な七瀬の問いに戸惑う雨子様。
「だから祐二君に好きって言ってもらえたの?」
その問いを聞いた途端に顔を真っ赤に染め上げる雨子様。自分でもそのことが分かっているのか、両の手を上げて顔を覆ってしまう。
「あ~~、その様子を見たら答えを聞くまでもないかぁ」
「……………」
嫌々をしながら下を向いてしまう雨子様。その余りに可愛い姿に、何だか妙なところにスイッチが入ってしまいそうになり、必死になって抗う七瀬。
「う~~~、これ位は良いよね?」
おそらく抗しきれなかったのだろう、七瀬は雨子様のことをむぎゅうっと抱きしめてしまう。
「もう、神様だなんて信じられない!可愛すぎるんだもの…」
そして七瀬は思うのだった。この様に可愛い雨子様だからこそ、祐二とのことまだ何とか我慢出来るのだと。こうで無かったら相手のことをひっぱたいても、取り返すのにと。
「それでそれで、祐二君にはキスの一つもして貰ったの?」
そう問い詰めてくる七瀬に、雨子様はもう息も絶え絶えになりながら、小さく頷いてみせる。
…後はもう仲の良い女の子同士だけが出来る、特別なトークになっていくのだが、ここから先はもう神の身ならずして知ることは適わない。
ただ密やかな笑い声だけが、静かな夜の静寂の中、優しく響いていくのだった。
二人の間の会話、聞いてみたかったなあ……




