雨子様の活躍
どんなことでもそつなくこなす雨子様、でもそれが本当に良いことなのか?
そうこうするうちに僕たちは学校に着いた。僕と雨子様はともかく、七瀬は幾人かの連中に取り囲まれて一つのグループになっていった。
彼女の目が一瞬不満そうな色を湛えたのを僕は見た。
でもこれは七瀬自身で何とかすべきことだ。しゃしゃり出ていってどうこうする事柄じゃあない、僕はそう考えていた。
だがそういう動きが七瀬の周りだけで起こっていると思っていた僕の認識は甘かった。
未だに物思いに耽りながら歩いている雨子様の周りにも、少しずつ人が集まってきた。
当然のことながら並んで歩いている僕の周りにも人が群れてくる。
雨子様と僕の間柄がまだよく分からないだけに、皆どう扱って良いのか戸惑っているのが見て取れる。
連中は雨子様にではなく、僕にその疑問の目を向けてきた。全く何とも面倒な事態になって来つつあった。
しかし僕には彼らの疑問をわざわざ解消してやるつもりはなかった。答えを知りたかったら自分でもっと努力しろと言うのが正直な気持ちだった。
少し心配しはしたが大した混乱もなく僕たちは無事教室にたどり着いた。
教室というのは有る意味結界みたいなもので、そこに最初から属している者ならともかく、他からはなかなか入りにくいものがある。
おかげで僕や雨子様はもちろんのこと、もしかすると七瀬が最もその恩恵を受けていた。
ただ雨子様が果たしてそのことに気がついているかどうかは疑問だ。
相変わらず心ここにあらざりといった感じで考え事を続けている。
こうなるとここまで集中力があるのも考え物だった。
「雨子さん」
僕は小声で雨子様の注意を促した。もうとっくにホームルームが始まっている。
「むぅ?」
今初めて自分がどこにいるのか気がついたような口振りだった。しかし束の間の内に急速に状況をつかんでいるのが見て取れた。
やれやれ、果たしてこんな状況で学校生活に馴染んでいけるのだろうか?僕はいささか先行きを不安に思ってしまった。
だがまもなくそんな心配は杞憂であると知る。
まず始まりは英語の時間だった。
英語の教師に指名されて立ち上がった雨子様は、僕と一緒に見ている教科書を一瞥すると、(雨子様の教科書は昼休みには一式購買部に届くらしかった。)本当にこれは雨子様なの?と言いたくなるような流暢さでその一文を口にし始めた。
読み始めたと言う感覚では無い、まさに自らの言葉として喋り始めたのだ。
まあ確かに神様なんだから、そういう記憶力があっても別に不思議じゃないだろう。しかしそんなことを思っているのは僕だけ、もとい、僕と七瀬だけだった。
僕たち以外のクラスの連中の間にはどよめきが走る。だが言っても雨子様の設定は帰国子女だ。まだこの程度のことは比較的穏やかに受け入れられる物だった。
だがその後の授業で今度は古文、さらにその次に数学の授業で、教師の舌を巻かせるような模範解答を連発させたと有っては空気そのものが変化してきていた。
感心から感嘆へ、そしていつしか畏敬の念へと彼女を取り巻く周りの雰囲気は変化していった。
はてさて、こんな状況で一体どんな人間関係が作り上げて行くことになるのか?先ほどまでの不安とはまた別の不安で心が満たされていく。
当たり前の生徒にとって、教師からも一目も二目も置かれるような者が相手では、一歩引けてしまうのは致し方のないことだろう。
実際雨子様のことを普通に扱い、変わらず話しかけているのは僕と七瀬だけになってしまっていた。
もっともそのことは雨子様にとって何の問題にもならないことらしい。勉強以外の、極々ありふれた日常に大喜びしている。
雨子様にとって未だ人の物を食するというのは、未だとても物珍しいことらしく、お昼に母が作ってくれたお弁当を食べる時には大はしゃぎだった。
日本のお弁当という文化に余り馴染みがないと言うことで何とかごまかしたものの、本当に端で見ていて笑えるくらいだった。
そして昼からは体育。また例によって超人的デモンストレーションをしてくれるかと思ったら、これはどうも勝手が違ったらしい。
男女それぞれに分かれたバレーの練習試合があったのだけれど、何度ボールを受けようとしてもことごとく顔で受ける結果になっていた。
さすがに僕が近寄っていって様子を伺うことは出来なかったのだが、そこは七瀬がきちんとフォローしてくれていた。こうなると七瀬にきちんと事情を打ち明けていたことが有り難かった。
「大丈夫?」
またもや顔にボールをぶつけた雨子様の前に七瀬が駆け寄る。
別にそんな速球がぶつけられたわけではない。同じコートにいる仲間が上げた軽いトスを物の見事に顔で受けた、ただそれだけのことなのだ。
しかしそれが何度と無く続けばダメージも大きい。
見ると雨子様の顔は、特に鼻は真っ赤だった。
体育教師が心配して彼女を保健室に連れていくように指示した。七瀬はそのまま付き添って保健室に向かった。
やれやれ、僕は思わずため息をついた。半分は大事に至らなかったことに対する安堵感から、もう半分は雨子様をしても全てで人に勝るというわけには行かないと、言うことだった。
なんと言えばいいのだろう?その人間臭さ?に安心したと言えばいいのだろうか?
しかしその後で雨子様から聞いた話は逆に人間臭さなど微塵も無い内容だった。
時は既に下校時刻。僕たちはまた三人で家路を辿っていた。
雨子様を真ん中に挟んでその両側に僕と七瀬。そして七瀬の取り巻きが少し離れたところでこちらを伺っている。
僕としては取り巻きの連中に申し訳ない気持ちでいっぱいだった。しかし七瀬は全く意にも介していないと言った感じで僕たちと共にある。
せめてもの救いは、七瀬の注意のほとんどが雨子様に払われていたこと。お陰で僕は彼らの嫉妬の炎に焼かれずに済んでいた。
次第に傾いていく日差しの中、僕たちは極めてのんびりと歩みを進めていた。
幸いなことに雨子様の顔は跡が残るような傷を負うことは無かったようだ。
若干赤みの消えつつある顔をゆっくりとさすりながら雨子様は、実に無念そうに言った。
「全く人間の脳の処理速度がこれほどの物とは思わなんだ」
「?」
どうやらここにヒントがあるらしかった。
「脳の処理速度ってどう言うことなんです雨子様?」
七瀬がそんな僕たちの会話を怪訝な顔をしながら聞いている。しかし多分今聞いていても分かっていないのじゃないだろうか。後で必ず説明させられることになるだろう。
だが雨子様はそんなことお構いなしだった。
「むぅ、人間は体を動かすのに脳を使っておるのじゃろ?実はその処理速度に感嘆しておったのじゃ。我はすっかりと見くびっておったようじゃ。普段のそなたらの思考速度からは想像も出来なんだ」
僕は思わずぎょっとした。
「もしかして雨子様、その体の一挙手一投足を全部その都度考えて動かしているの?」
今度は雨子様が驚く番だった。
「なんじゃ?もしかしてとはどう言う事じゃ?まさか違うというのかえ?」
僕はどのように説明したら分かりやすいかしばし考えた上で口を開いた。
「確かにどう動こうかという事は考えます。でもどの筋肉をどれだけ動かすなんて事は考えていないですよ」
「?」
「なんて言うのかな、こう動こうと思ったら自動的に体が動くのです。有る意味僕たちの思考とは別に独立した備え付けのプログラム?が有るというか…」
それを聞いた雨子様はなにやらしばらく考えにふけっていた。
「むぅ、分かったように思う。故に人は反復を行うことによって動作を覚えていく、つまりほとんどアナログ手順によってプログラムを最適化していくのじゃな?」
「え?…まあそんなものです」
僕にしてもなにからなにまで分かっているわけではない。しかしまあ感覚的に言ってそんなものだろう。
「むぅ、我としたことが…自立プログラムをいくつも作っておけば良かったのに、なにもかも全て自分でやろうとしたのが間違いじゃったようじゃ」
「まさか雨子様一体…」
そこまで言葉を口にしてはたと止めた。雨子様が一体どんなところまでコントロールしながら日常生活を送っているのかと、危うく問いかけようとしていたのだった。
しかしこの調子だととんでもない答えが返ってきそうだ。僕は自分の想像力を越えるような答えを受け取るのが嫌で、もう問いかけること自体諦めることにした。
「なるほど…これは楽じゃの」
早くも雨子様は喜々としている。こうしている間にも次から次へと色々な改良を施しているに違いない。
「!」
僕は色々なことを経験してもう慣れっこになっていた。自分ではそう思っていた。だが決してそうではないことを今またもや思い知らされることになってしまった。
しかし好奇心は猫をも殺すとはよく言ったものだ。好奇心は九生有る猫の命をも無くさせると言うことなのだが、今も嬉しそうに跳んだり跳ねたりしている雨子様が一体何をしているのか聞きたくて溜まらなかった。
勿論その時の僕はそれ以上何も言うつもりはなかった。しかしそれでも雨子様には十二分に僕の気持ちが伝わっていたらしい。
「祐二よ、そなたは一体なんと言う顔をしているのじゃ?」
僕は慌てて自分の顔に手で触れてみた、触れたからと言って何も分かる訳ないのだが、それでも触れずにいられなかった。
そんな僕の有り様を見ながら、雨子様は苦笑しつつ語を継いだ。
「くっくっく…、今各所の独立プログラミングを済ませたところじゃ。我ながらなんと抜けておった事よ。実に詰まらぬ事に力を使っておったものじゃ」
朝飯前みたいにそんな話をしている割に、どこか雨子様の表情は自慢げだ。
横にいた七瀬にも、少なくともその辺りのことは分かったらしい。微かに唇を歪めながら笑っている。
ところでこの時僕には、何となくではあるけれども雨子様の失敗の理由が分かるような気がした。
思うに雨子様の思考演算能力が元々非常に大きかったことが全ての発端になっている。
だから普通ならやりそうもないことまで出来てしまうと言うこと。そして雨子様が今まで人間としての身体を長時間持ったことが殆ど無かったこと。
おそらくこれら二つのことが結果的に今回の雨子様の失敗を生んだのだと思う。
そもそもそんな計算力がなかったら、誰が自身の肉体を計算で全てコントロールしようとなど思うだろうか?
否だ、まさに雨子様が神様であるが故だ。
全く笑い話にもならないような失敗をするものだなと、少し呆れた思いにも成った。
僕はそこから雨子のことを、人間がその想像力の中で作り上げてきた様々な神様よりも、より人間に近い存在として感じるようになっていた。
それはさておき、七瀬が既に催促するような表情で僕のことを見つめている。一応の区切りがついた時点で事の次第の詳しい解説を求めているのだ。
僕は心の中でほぅっとため息をついた。しかしこれくらいの面倒があっても仕方ないだろう。それ以上の様々な手助けを期待出来るし、また既にその手助けをしてもらっているとあれば尚更だ。
多分自分が作り上げたプログラムの出来をみているのだろう。雨子様はなおも一人で跳んだり跳ねたり走ったりを繰り返している。
それを横目に見ながら僕は説明し始めた。なぜ今日の体育の時間に雨子様がちっともボールを受けることが出来なかったかを。
そしてその問題が今解決されつつあるようであることも。
七瀬は僕の説明を聞きながらまじまじと雨子様のことを見ている。時折二三質問を挟んだけれども、どれも的確で要点を突いた物だった。
「じゃあ今度バレーボールをしたら、誰よりも上手に出来るって訳なのね?」
僕の考えでは正にその通りだったので黙って頷いて見せた。
「ふ~ん」
七瀬には何かが腑に落ちないようだ。残念ながら七瀬が何を思ってそう言うのか僕には分からない。
だがその疑問も雨子様に向けられた七瀬からの質問によって氷解した。
雨子様はちょうどそこいらを一巡り走ってきたところで、軽く汗こそ描いているものの、息はほとんど切らしていない。七瀬はそんな雨子様に声をかけた。
「ねえ雨子さん」
話しかけることによって急に表舞台に上がってきた七瀬に雨子様は注意を向けた。
「何じゃ七瀬?」
自分の成し得たことにきっと満足しているのだろう。雨子様の頬には笑みが張り付いている。
「私たち人間がなぜスポーツをするのかご存じですか?」
その問いは僕の予想の外にある物だった。
ある意味雨子様にとっても突拍子もない物だったに違いない。目一杯不思議そうな顔をして七瀬のことを見つめている。
「むぅ」
そう答える間に雨子様が一体どれだけのことを考えているのか?僕には想像もつかないことだった。その中にはきっと僕の中から得た情報もあるに違いない。だが結局答えは出なかったようだ。
「七瀬よ、残念ながら我にはその問いに答えるだけの知識はないようじゃ。いくつかの推測は可能じゃ。しかしそんなありふれたことのためにそなたが質問してくるとも思えんしの」
「雨子さんの推測した答えって?」
七瀬の問いは僕自身も聞きたかったことだった。
「うむ、一つは他者に勝って自らの優位を示すこと。もう一つは自己の能力の改善かや?」
なるほど、どちらもそう言われれば納得のいく答えだ。だが七瀬の求める答えも、雨子様が考えあぐねている答えもそこにはないらしい。
雨子様は素直に七瀬に教えを請うた。
「残念ながら今の我にはそなたの求めておる答えを見つけることは出来ぬようじゃ。それが何かの約束ごとに反するので無ければ答えとやらを教えて貰えはせぬか?」
こういうところ、僕は雨子様のことを大人の存在だなと思う。得てして人は自らの大きさを自負している者ほど、他者に頭を下げることを苦手にするものだけれど、今の雨子様にはそんなそぶりは見られなかった。
七瀬の表情を見ていれば、彼女も同様のことを感じているらしかった。何事か言おうとして口を少し開け、そして閉じた。そして一駿目をつぶり深呼吸をしたかと思うと、七瀬は話始めた。
「確かに雨子さんの言うとおり、私達は他人に打ち勝つためや、自分の能力をより高めるためにスポーツをします」
自らの答えの正しさを知った雨子様は嬉しそうに微笑んだ。だが七瀬の言葉がそこで終わることはないと言うこともよく理解していて、一言も口を挟もうとはせずに続きを聞こうとしている。
「でもそれだけじゃなくて、私達は誰かとともにそれをすることを楽しむんです」
なるほど、僕にも七瀬の言わんとしていることが見えてきているように思えた。
「むう、そなたの言わんとしていることは共に高見を目指すことで得られる一体感や達成感のことを言っておるのかの?」
七瀬は雨子様の答えを聞くと嬉しそうに笑った。
「そう、そうなの。さすがだなんて言ったら怒られちゃうかも知れないけれども、それでもやっぱりさすがだなって言いたくなっちゃうわね」
言葉の後ろ半分はおそらく僕に向けられたものだろう。実際僕も同じ意見だった。だが雨子様の思考はそれで留まることはなかった。
「それで?」
その言葉は七瀬の更なる答えを促していた。雨子様の目がきらきらしている。なんだろう?面白くて仕方がないと言った表情をしている。
そして七瀬は明らかにその感覚を共有していた。
「うん!私が言いたかったのは正にその先なの」
今雨子様と七瀬は二人して何かの壁を越えつつある。それがその時僕の感じていたことだった。
僕や雨子様が何か言うまでもなく七瀬は話の先を続けた。
「それでね、雨子さん。もし貴女が今のその体を完璧にコントロールできるようになって、一種スーパーマン見たくなってみんなと一緒に競技をしていたらどうなるかしら?」
「あ…」
と言葉を漏らしたのは僕。僕の中にはその視点は存在していなかった。
「むぅ、確かにの。そんなことをすれば一体感もなく何も得ることが出来なくなるの。詰まらぬ、実に詰まらぬ結果を生むであろう」
確かにそれは火を見るよりも明らかだった。普通の人間に完璧な存在が一人混じって競技をしたって何が面白いだろう。それはある意味もうただのずるでしかない。
雨子様は笑みを浮かべるとゆっくりと七瀬に頭を下げた。
「七瀬よ感謝する。我は目的の達成ばかりを考え、とんでもなく大きな間違いを犯すところであった。確かに我は神ではあるが、今はそなたらに属しているただ一人の人間で有るに過ぎん。またそうあるべきじゃ、勿論色々な例外は当然有ろうが、この件に関しては例外の必要性は認められんしな」
「雨子さん」
七瀬はそう言うと雨子様の手を取って握りしめた。
「今度の体育の時間楽しめそうね?」
「むう」
雨子様も嬉しそうだった。
「ねえ、雨子さん知っている?私達同じチームなんだよ」
「むう、それは楽しめそうじゃな」
「私達と雨子さん一緒にがんばって勝つんだよ。勝って勝って勝ち抜くんだよ」
「むう。勝ち抜いてみせるつもりじゃ」
雨子様達は手を握りしめ有ったまま盛り上がっている。なんだろうこれって?雨子様も青春している?明らかに二人は熱い血潮を共有しているように見えていた。
僕はそんな二人を眺めながらふと思った。僕たちよりも遙かに長い長い時を生きている雨子様も、僕達同様にどんどん変化していくのだろうか?僕達が彼女を変化させうるのだろうか?
僕には今この場でその一歩が始まっているように思えていた。
だが果たして雨子様は一体どうするつもりなんだろう?完璧と無能の間だってどう区別していけばいいんだ?この設問は僕には難しすぎる物だ。さりとて今はそんなことを聞く雰囲気にはないし。
雨子様、どんどん人間臭く?成っていく?もしくは成ろうとしている?




