守る者守られる者そして…
難産でした、実に難産でした。
危うく帝王切開になるところでした。
その時偶々雨子様は僕の部屋に居たのだが、小和香様からレインで連絡が入ってくるなり、何か様子がおかしくなっていた。
そして連絡を終えるなり雨子様は急に、自分の社に戻らなくてはと言い始めるのだった。
「え、なに?どうして急にお社に?」
僕が聞くと、雨子様は何か言おうとしてそのまま言い淀んでしまった。
いつも見る雨子様とは異なっていて、唇を真一文字に結び、目に固い光りを湛えていた。
「どうかしたの雨子様、何か僕に隠していないですか?」
僕がそう言うと雨子様はふっと息を漏らした後、僕の頬に手をやると口を開いた。
「何も案ずることは無い、ただ少し社に物を取りに行き、その後いつものように和香の所に行ってくるだけぞ」
そうやって今は事も無げに言う雨子様だったが、僕の心で感じている雨子様は何とも苦しそうに思えてしまう。
僕は思う、今日の雨子様は明らかにおかしい。
「分かりました、なら僕も一緒に行きます」
僕がそう意思を表明すると、雨子様は微かに唇の端を噛んだ。
「嫌なに、今日は少しばかり和香と昔話をしてくるのみよ、わざわざ祐二が行くには及ばぬことよの」
僕には分かる、雨子様が何とか僕を来させまいとしていることが。
第一、今まで一度たりともそんな理由で別々に行動したことなんか無いじゃ無いですか?
だがそうやって僕から何かを隠そうとするのであれば、それはそれでやりようもある。
「昔話ですか?なら僕も伺ってみたいですから、やっぱりついて行きますよ」
すると今度は怒ったように言う。
「ならぬ、神々同士の話も有るのじゃ、そのような話、人には聞かせられぬ」
「聞かれて不味い話をなさる時には、他の部屋にでも行っています。だから一緒に行きますからね?」
すると雨子様はとうとうその場で地団駄を踏み始めた。
「だからならぬと言うのじゃ!何故我の言うことが聞けぬのじゃ?」
僕はほんの少しだけ間を置き、その後努めて平静を保ちながら雨子様に言った。
「ねえ雨子さん…」
僕はここに来て意識してさん付けで雨子様のことを呼んだ。
雨子様の身体がぴくりと動き、唇がへの字に曲がる。
「今まで一度だって雨子さんがそんな風に駄々を捏ねたところなんて見たことないです。今の雨子さんは明らかにおかしいんですよ、そんな雨子さんのことを僕は一人には出来ません」
僕がそう言うと雨子様は何かを我慢している様な顔付きになった。
「祐二は、祐二はずるいのじゃ。何故今この様な時に我のことをさん付けで呼ぶのじゃ?我の、我の決意が揺らいでしまうでは無いか…」
そう言うと雨子様は僕の胸に額をこつんと押し当てた。
「我は、我にとって祐二は、何よりも大切な存在なのじゃ。だから傷つけたくない、失いたくない。我は守りたいのじゃそなたを」
そう言いながら僕のことを見上げる雨子様。その瞳には溢れんばかりの涙が満たされ、そして流れ落ちた。
「雨子様…」
「むう、そこでまた様付けなのかえ?」
そう言うと雨子様のほっぺがぷくりと膨れた。
それに答えて僕は少し笑いながら言う。
「すいません雨子様。僕の中では雨子様とお呼びするのが何よりも自然なんです。他人がいる時だけは何とかさん付けでお呼び出来るのですが、こうやって話している時にさん付けで呼ぶのはもの凄く頑張ってるんです」
僅かな時間きょとんとした雨子様は、手の甲でげしげしと涙を拭くと、苦笑いしながら言う。
「もう祐二は、本当に仕方の無いやつよの」
「はい、僕は仕方の無いやつなんです。だから雨子様は諦めて、僕に今起こっていることを正直に話して下さい」
僕はそう言うと雨子様の中で思いが固まるのを静かに待った。
今の雨子様を見ていると、心の中で色々な思いが渦巻いているのがよく見て取れる。勿論誰にでもそれが分かるかというとそうでは無い。
日々を共に暮らし、共に一喜一憂し、共に事を成してきた仲であるからこそなのだ。余人にそれが出来るとは全く思わなかった。
暫くの逡巡の後、雨子様が口を開いた。
そして現状を詳しく説明してくれた。
現在の神の杖の状況、彼の国からの人ならざる者の襲来。そして僕は知る、宇気田神社が現在その侵攻の矛先になっているのだと。
雨子様の言われるに、和香様の司るあの神社こそが、この国の四周を守る大いなる結界の要なのだそうだ。
この結界は非常に弱いものであるが、この国を余すこと無く覆い、外からのあらゆる汚れの類いの侵入を防いでいるとのこと。
勿論微弱なもの故、今回のような付喪神の寄生した人間や、狐狸妖怪と言った個々の物を防ぐほどの力は持っていない。しかし様々な種類の汚れや、負の歪みの侵入を防ぐことで、病や事故と言った事象を大きく軽減してくれていると言われた。
ただ、あくまでも軽減と言うことなので、昨今猛威を振るった疾病などは、この結界でも防ぎきることは出来なかったようだ。だがそれでもこの結界がなかりせば、遙かに重篤な症状が国中で溢れかえっていたとのことだった。
僕はそう言った説明を受けて思わず納得した。目に見えることは無いものの、この国が神々の見えざる手によって、いかに大切に守られて来たかと言うことを。
そして今その守りの要が危機に曝されていると言うのだった。
「付喪神が人にとりついた程度のものであるから、和香の配下の小者達でも十二分に対抗出来るものと思って居った。ところが彼奴らはこちらの予想を遙かに超える力を持って居っての。一当てして様子見と思うて居ったところ、ことごとく小者らを刈り取られてしもうた」
「そんな…」
僕の口からそれ以上の言葉が語られることは無かった。宇気田神社に於いて細々とした仕事を遅滞なく熟し、少しばかりおどろおどろしいところは有るものの、十分に可愛げのある小者達のことを思い出し、絶句してしまった。
雨子様もまた何とも言えない複雑な顔をしていた。
「で、それから後のことはどうなっているのですか?」
僕が暗い面持ちで雨子様にそう聞くと、雨子様は努めて明るい表情で答えてくれた。
「取り敢えず小者達は引かせ…そうは言っても相当量の者達が打たれてしまったようじゃがの…現在は分霊どもが出陣して盛り返しつつあるとのことじゃ。だから祐二は然程心配せぬでも…」
だが僕にはそうやってわざと明るく振る舞おうとしている雨子様の、心の奥底に有るものが、何故か自然に感じ取られてしまう。
僕は黙って嫌々をするようにゆっくりと頭を横に振った。
「む?」
「雨子様、ちゃんと本当のことを言って下さい」
僕のその言葉に雨子様は暫し黙りこくってしまった。そしてゆっくり静かに言葉を形作る。
「…回廊…のせいかの…」
そう言う雨子様は切なそうな表情になった。やがて歯を食い縛り、泣きそうな表情をしつつ、ようようにして言葉を吐いた。
「祐二よ、我はそなたに必要以上に負担を掛けて居るのでは無いかえ?我はその…その…そなたとの契約を…」
僕はその言葉を聞くや否や、腹の底から沸き起こる怒りを、頭がおかしくなってどうかなってしまうかと思うような激しい憤りを、必死になって押さえ込み、手をわなわなと震わしながら雨子様に言葉をぶつけた。
「雨子様、それ以上言ったら僕は怒りますよ?」
怒濤のように湧き起こる感情を僕は必死になって押さえ込もうとした。それでもなおぎりぎりと歯を噛みしめ、その身を震わせる僕の姿を見た雨子様は、何かを恐れるかのように二三歩後退った。
「万が一でも雨子様がそんなことをなさったら僕は、僕は雨子様のことを嫌いになってしまいます。きっと二度と顔を見たく無いとも思ってしまう」
僕のその言葉を聞いた雨子様の表情がくしゃくしゃに崩れる。
「嫌じゃ、そんなのは嫌じゃ。祐二に嫌われたら我は、我は…」
雨子様はそう言うと自らの身体を抱きしめるようにしつつ、その場に蹲ってしまう。
項垂れ、か弱く見える肩が細かく震えている。その人の身が、ちらちらと点滅するように現れては消える。部屋の中だというのに何故だか激しく風が吹き荒れ、辺りのものを拭き散らかしていく。
その様に驚き慌てた僕は急いで雨子様に飛びつくと、その身を強く抱きしめた。
「雨子様、雨子様、そんなこと絶対にしません。絶対にそんなことには成りません。だから、だから雨子様も契約を切るなんて絶対に口にしないで下さい」
そう言いながら僕は雨子様の身体を必死になって抱きしめた。
瘧のように震えるその身体、明滅を繰り返す度に虚実を繰り返すその身体、冷たく冷たく冷え込んでしまったその身体。
雨子様の言葉が小さく小さく、掠れるようにして聞こえてくる。
「我は、我は…」
まるで風に揺らぐ蝋燭の炎のように、弱々しい存在となって僕を見上げる雨子様。僕に縋りしがみ付いてくる雨子様。必死になって僕の顔を見上げ、切ない瞳で僕のことを見つめる雨子様。
はたして雨子様って本当に神様なんだろうか?ただのか弱い女の子でしか無いのでは無いだろうか?
僕の心の中をそんな考えが巡る。そして僕は思う、彼女を守りたいと、本当にごく自然に。次に僕は気が付いてしまう。雨子様のことが大好きであると。
さらに理解してしまう、僕が雨子様のことを深く愛していることを。
その思いはもう後戻りの出来ないところまで膨らみ、溢れ、やがて言葉になった。
「雨子様…雨子さん、大好きです…」
それまでの一切の動きを止め、大きく目を見開き、驚きを隠すことも無くなった雨子様は、ただ呆然とする。
「ゆ、祐二よ、そ、そなた今何と言うたのじゃ?」
雨子様は未だ信じられぬと言った顔をすると、わなわなと震える唇でそう問いかける。
その言葉を聞いた僕は一度そっと目を瞑ると、やがてゆっくりと見開き、雨子様の目の奥を見つめながら静かに思いの丈を語った。
「雨子さん、大好きです」
そこまで言うと僕の胸の中で更に思いが強く溢れる、言わずには居られない。
「雨子さん、愛しています」
驚いたように見開かれる雨子様の目から、大粒の銀の滴が止めどなく溢れていく。
熱を帯びた花弁のような唇が何かを言おうとしては閉じ、閉じてはまた開くを繰り返す。何度か言葉を口にしようとしてはまた黙ってしまう。
嫋やかな白い手が伸びては縮みを繰り返し、やがてにおずおずと祐二の身体をなぞり、その末に抱きしめる。そしてその身を確認するかのようにしっかりと抱きしめた後、ようやくにして思いが口から溢れていく。
「祐二、我も、我もそなたが好きなのじゃ、大好きなのじゃ。愛して居るのじゃ…」
そう言うと雨子様は僕にしがみ付き、堰を切ったかのようにわんわんと泣き始めた。
その慟哭に僕は雨子様の孤独の深さを知り、僕への愛慕の強さを知った。
それから一体どれだけの時間、雨子様は泣いていたのだろうか?
おそらく心に溜め込んでいた全ての苦しみを吐き出したのでは、と思う位に泣き尽くしようやっと静かになった。
抱きしめられた腕の中でもそもそと身動きを始める雨子様。
力を抜くと、おずおずと顔を上げて僕のことを見つめてくる。その様が余りに可愛くて、僕の心を大きくかき乱す。
泣きはらした目が真っ赤になっている。だがそれも束の間で恥ずかしそうに伏せられてしまう。
「祐二…」囁くように言葉を放つ雨子様。
「なんでしょう、雨子様?」僕がそう答えると。
「何故そこで様なのじゃ?」と言って膨れる雨子様。
ふと目を合わせると僕達は笑った。心の底から、お腹の中から。
二人の笑いが身体を揺らす、互いの思いがお互いに響き合う。
雨子様の美しい瞳が僕の目を見つめ、一言も語らずに、ただじっと心の中まで見通ていく。
でもそれでも僕には伝わってくる、今ははっきりと伝わってくる。だから僕もその思いに重ねる。静かに目を閉じる雨子様。涙に濡れる美しい睫毛が微かに震える。そっと上向く柔らかそうな唇。
僕はその唇に優しく自らの唇を重ね、ゆっくりと、しかし強く雨子様の、人の身を抱きしめるのだった。
やっとの事で思いを通じ合った二人。
これからさて、どうなっていくのかなあ?
七瀬ちゃんがなあ……




