閑話「風邪の日」
雨子様と節子…祐二の母は大の仲良しさんです。
さて冬休みも終わり、毎日学校に通うという月並みなルーチンにも慣れて来た。そんな最中、鬼の霍乱という訳では無いのだけれど、祐二は珍しく割と重篤な風邪を引いてしまった。
喉や鼻に来る風邪で、医者に行って薬は貰って来はしているのだけれども、それでもくしゃみやら咳やらで結構騒々しい。
雨子様本人は「我が風邪を引くこと無い」などと断言しているのだけれども、節子の厳命により寝室は別にさせられた。一家の健康に気を配る者としては当然の配慮だろう。
幸い葉子が居ないこともあり、雨子様が寝室と定める場所に事欠くことは無かった。
だがたまたま父拓也が数日出張と言うことも有って、節子が葉子の部屋に布団を運んで、一緒に休むことにしていた。
雨子様に自分たちの寝室に来てもらい、自分が拓也のベッドで、雨子様には自分のベッドを使って貰うという選択肢もあった。
しかしいくら何でも夫婦の寝室というのは居心地が悪かろうと言うことで、先に述べたような形になったのだ。
葉子の部屋に布団を運び入れ、シーツを掛けるなどしていると、祐二の部屋から雨子様が戻ってきた。
「祐ちゃんはどんな感じ?」
ここ暫く病知らずだっただけに、ちょっと気がかりではあったが、雨子様の顔色を見る分にはどうやら心配せずに済みそうだった。
「うん、咳の方は治まりつつあるが、まだ洟が激しくゴミ箱にティッシュの山を拵えて居った。じゃから今ほどそれを空にしてきたところじゃ」
雨子様はそのことを当たり前のように言う。
節子は雨子様の言動を嬉しいと思いつつも少し心配した。何故なら雨子様が神様で有ると言うことを節子自身しっかりと知っているからだ。
「ねえ雨子さん、そうやって祐ちゃんのことを甲斐甲斐しく世話してくれるのは嬉しいのだけれども、神様である雨子さんがその、汚れとか大丈夫なの?」
節子は雨子様のことを神様で有るとか無いとか、そんなことは別にして殆ど自分の娘のように大切にしているところがある。だからこそそのような心配をするのだったが。
問われた雨子様はにこりと笑いながら言う。
「母御…いや節子よ。そなたの気遣いは深く感謝する。じゃが心配は要らぬぞえ。我のこの身はもうほとんど人の身と言っても良いくらいなのじゃ。故に我自身も同様の物を内包して居る」
雨子様の説明に理解が届かなかった節子がこてんと首を傾げる。
その様を見ながら雨子様は心中思わず感心する。節子は既に孫も居る年齢の婦人ながら、何時までも可愛らしさを忘れぬものじゃなと。
そして彼女は節子の不足を補うべく言葉を足した。
「その、何じゃ…我も時折、不浄なるものに通うて居るじゃろう?」
そう言うと雨子様は顔を赤くしてぷいっとそっぽを向いてしまった。
ああなるほどと思った節子だったが、それを口にしてしまっては雨子様の心の平安をかき乱すことになると思い、ただ首肯するに留めた。
「まあ一つには、学校で普通に暮らしていく為にも必要じゃしの」
「学校で?」
節子はまた新たなる謎を抱えたように思ったが、それは直ぐに雨子様によって解消された。
「のう節子よ、どうしてそなたら人間の女子達は、不浄に通うのにあのように群れたがるのじゃ?」
ああなるほどと瞬時に理解した節子だったが、思わず吹き出してしまった。
「本当にどうしてなんでしょうね?生憎と私はそういう習慣が無かったから、何故と言われても分からないのですけれど。あくまで想像での話ですが…」
節子はそう話しながら最後の布団にシーツを掛け終え、枕をセットするとその面をぽんぽんと叩いて整えた。
「もしかすると彼女達は不安なのかも知れませんね?」
その言葉に雨子様がきょとんとした顔をする。
「不安?あのように安全な学校内にて何の不安を感じるというのじゃ?」
雨子様にそう聞かれてさてと、暫く考えを巡らせてみる節子。やがてゆっくりと口を開く。
「思うにこれって太古の昔の出来事に根ざす思い、なんじゃ無いかなって思います」
「太古の昔とな?」
雨子様はこういう風に節子と話をする機会が楽しくて仕方ないらしく、にこにこしながら言葉を紡いでいく。
「ええ、私達がまだ獣たちの影に怯えていたような時代の名残、そう言うのじゃ無いのかなって思うのですよ」
「なるほどの、確かにそういう時というのは、その…人は無防備になるものじゃからな」
ふむふむと言いながら雨子様自身納得したようだった。そしてもそもそとベッドの布団に潜り込んでいく。目を細めているところを見ると、布団のありがたみが次第に発揮されつつあるようだ。
「思うのですが私達人は、不安を起点として動く事が多い様に思います」
「ほう、そうなのかえ?」
そう言いつつ雨子様は節子が言葉を継ぐのを待っているようである。
節子はふぁさりと布団をめくるとその中に潜り込み、体温が身体からしみ出していく感覚を味わった。
「例えば、昔オイルショックとか言う経済的不安があったそうなんですが、その時、オイルショックとは関係無いはずのトイレットペーパーなんかが買い占められたそうです」
「トイレットペーパーであるかの?」
そう言う雨子様は目を丸くしていた。
「それ以外にも私達人間は、不安になると色々な物をついつい買い溜めてしまうようですね」
「成るほどの、不安がそのような作用を及ぼすのか…」
そう言う雨子様はどこか上の空のようなところが有った。
「ある意味それだけ私達人間が無知なんだって言うことなのかも知れません」
そう言うと節子は自ら自嘲するように笑った。
「電気そろそろ消しましょうか?」
節子はそう言うと手元の照明スイッチを雨子様に振ってみせる。
「うむ、そうじゃの…じゃがその…」
「何かありまして?雨子さん?」
そう問いかける節子に雨子様は恥ずかしそうにはにかみながら言う。
「少しそちらに行ってもいいかの?」
思わぬ雨子様の言葉に、心中驚いた節子だったが、即座に了承の返事を返すことにした。
「勿論ですとも、いらっしゃいな、雨子さん」
「うむ」
そう言うと雨子様は実に嬉しそうにしながら自分の枕を抱え、節子が持ち上げた布団の中へと潜り込んできた。
その様子がまだ小さかった頃の葉子を思い出させたので、思わず可愛いと思ってしまった節子は、ぎゅうっと雨子様のことを抱きしめてしまった。
「うふふ、こうしていると昔の葉子のことを思い出してしまうわ」
そう言う節子に雨子様はきゅっとしがみ付きながら言う。
「子は母に抱かれて不安を癒やすと言うが、真じゃの」
腕の中から幸せそうに見上げてくる雨子様のことを見つめながら節子が言う。
「あら、雨子さん、何か不安に思うことでもあるのですか?」
そう言いながら節子は無意識に雨子様の頭を撫で付ける。さらさらの髪の毛が心地よく指の隙間を零れていく。
「うむ、その相談をと思うたのじゃ」
「話してみて下さいな」
そう言うと節子はぎゅっと抱きしめていたその身を離した。
雨子様は少し名残惜しそうな表情をしながら、意を決したように口を開く。
そして夜が更けるまで二人の女性の会話が、静かに繰り広げられていくのだった。
冬、寒ければ寒いほどに鍋が美味しく、布団の中が幸せですよねえ




