月夜語り
時間かかりました。
大騒ぎで楽しい時が流れ、あっという間に夜が更けたところで、和香様達には迎えが来た。宇気田神社の宮司である榊さんが、大型のワゴン車で迎えに来たのだ。
上機嫌の八重垣様と和香様を車の中に送り込んだ後、家族の面々と雨子様に丁寧に頭を下げ、感謝の言葉を述べてきた。
僕達家族は何とも恐縮しきっていたが、雨子様は鷹揚に頷いてみせるのみ。その後速やかに車を出し、静かに我が家から去って行くのを見送った。
中天近くにはまん丸の月が昇り、冴え冴えとして凄絶なほど美しい。寒さがつのることもあって、皆が早々に暖かな家の中に退散する中、雨子様だけは少し後に残り、暫く月を見た後戻ってきた。
「雨子様、何か有ったのですか?」
だがそれに応える雨子様は口数少なかった。
「いや、特に何も無い…」
何か有ったのかな?一瞬そんな思いが心の内に流れたのだが、余りに微かな物だったので直ぐに雑事に紛れて忘れてしまった。
「なんだか今日は疲れちゃったから、お風呂先に頂くわね」
母さんが僕達にそう声がけをする。
「父さんは?」
「風呂を進言するまもなくさっさと寝に行っちゃったわ」
「そりゃあ、あんなに騒いでいたらなあ」
父さんは八重垣様と余程ウマが合ったのか、普段羽目を外すところなど見たことが無い人だったのに、お仕舞いの方では肩を組んではわいわいと歌を歌ったりするほどだった。
母さんは母さんで、和香様とウマが合うのか、色々な話をしては笑ったり驚いたり、かつて無いくらいに楽しそうにしていた。
あれを見ていれば二人が疲れたというのも大いに頷けるという物だ。
シンクを見ると明日片付けるつもりなのだろう、そのまま食器なんかが置いてある。
でもこう言うのって朝見るとうんざりするんだよな。
そう思った僕は、どうせ自分に風呂の順番が回ってくるまでには間があるんだし、今の内にこいつらを片付けてしまうことにした。
カチャカチャと音をさせながら、おおざっぱに食器の汚れを拭い落としていきながら、次々と食洗機の中に放り込んでいく。
この時期の食器の類いには食洗機が使えない物も沢山あるので、そう言った物は別に丁寧に手洗いしていく。洗った後に布巾で水気を拭って所定の場所へとしまうのだが、黙ってやって来た雨子様がその役目を引き受けてくれていた。
「すみません、雨子様」
僕のその言葉に雨子様がにこりと笑う。
「何、世話になって居るのじゃ、この程度のこと容易いことじゃ」
そう言うとその後は黙って黙々と食器を拭い、片付けていく。
今日のあの騒動を考えると、さすがの雨子様も疲れが出ているのかな?僕は雨子様の沈黙をそう解釈していた。
そうこうするうちに母さんが風呂を上がり、次を雨子様に勧めてきた。
「すまぬの」
そう言う雨子様に笑顔でどうぞと指し示した。
「あら、片付けてくれたのね?ありがとう」
母さんは綺麗になったキッチンを見ると嬉しそうに言った。
「今日はもうとてもじゃないけれど、片付ける元気が無かったんだけど、こう言うのって朝起き立て一番に見ちゃうとげんなりするのよね。だから助かっちゃったわ」
そう言うと母さんは手を伸ばして僕の頭を撫でようとする。
僕がその手をひょいと避けると不満顔になる。
「何で避けちゃうのよ?」
「母さん、もう小学生じゃ無いんだからそろそろ勘弁してよね」
「それでも私の可愛い子供には違いないじゃ無い?」
「可愛い子供って、子供には違いはしないけど…」
もうこうなってくると論理では無いのだろうな?母親の思いというのは全ての論理を乗り超え貫き通されてしまうことがある。
「本当に男の子って直ぐこれなんだから、つまらないったらありゃしないわ」
ぶつぶつとそんなことを言っているのだが、これが葉子ねえだとしたって、やっぱりこう言う場面で頭を撫でられるとしたらきっと嫌がるに違いない。
「でもほんと、ありがとうね。そろそろ冷えてきてるからもう寝るわね、おやすみ」
母さんはそう言うと寝室の方へを引き上げていった。
途端に静まりかえる部屋の中、物音一つしない。普段なら外からなにがしかの物音が聞こえてきたりもするのだが、さすがにお正月期間である。
街そのものが非常に静かになっている証左だった。
時折浴室の方からざざっと言う湯を流す音がする、雨子様だ。
僕はその雨子様が上がってくるのを待ちながら、リビングのソファに座って雑誌に目を通す。
そうそう、八重垣様が帰られる時、うっかり袋から家具を戻すことを忘れられていた。もう少しでそのままになるところを雨子様が指摘して戻して貰ったのだが、危機一髪だった。
あの大柄で迫力満点の八重垣様が、すっかりと恐縮しながら母さんにぺこぺこと頭を下げて謝る姿、今も目の奥に焼き付いて忘れられなかった。いや、忘れようが無いだろう。
もっとも、頭を下げられている母さんは母さんで、威容を誇るような大神である八重垣様に頭を下げられることで目を白黒、こちらもまた頭を下げ返していたのだが、いやはや。
和香様が声を出さないように下を向いて必死になって笑いをこらえている、そしてその和香様の横ではその有様を見ている雨子様が呆れ果てている。
なんと言うか、正月早々希有な光景を目にしていた僕は、不思議な気分だった。
本当にこの世の現実の中で起こっていることなのか?余りにぶっ飛んでいてちっとも現実感が無い、そのように感じていたのだった。
そんなことを思い起こしていたり、雑誌の記事に興味を引かれたり、うだうだしているうちに何時しか僕は、意識を手放していた。
暫くすると僕は静かに肩を揺らされているのに気がついた。
「祐二、祐二、起きよ祐二。この様なところで眠って居ては風邪を引くぞ?」
見るとそれは風呂上がりの雨子様だった。
ほかほかと湯気が上がりそうで、ちょっぴり心配そうな顔が、ほんのりと上気していた。
「ほれ、冷えて居るでは無いか?早う風呂に行ってくるが良い」
僕は雨子様に勧められるがまま風呂に向かい、一日の汚れと共に疲れを綺麗さっぱり洗い流すのだった。
国によっては湯に浸かる習慣が無いところもあると言うが、僕自身の好みとしては、風呂桶の無い生活はあり得ないかなと思う。
どっぷりと温かな湯に肩まで浸かるこの幸せ。他に類を見ない高揚感もある。日本人にとって気持ちをリセットし、心を安定させる為にも無くては成らないだろう、そんなことを思った。
あ?もしかしてこれはハグの代わりになっている?そんなことも考えたのだが、さてどうなんだろうね?
のんびり、それこそ心ゆくまで湯を堪能した僕は、そのままで居ると間違い無く茹で上がってしまうので、ほどほどのところで上がることにする。
バスタオルで丁寧に水気を拭い、洗濯し立てのパジャマに手を通すとそのままキッチンに行き、我が家では一年中ある麦茶で喉を潤す。
心も体もさっぱりとした僕は足取りも軽やかにととと、と階段を上り、部屋の扉を開けた。
真っ暗な部屋の中、いや真っ暗では無いな、窓から部屋に煌々と月の光が入ってきている。
その光の中、雨子様が一人ぽつねんと僕のベッドに座って月を見上げていた。
「雨子様?」
なんだかその様に不安になった僕は雨子様にそっと声を掛けた。
「…」
静かに僕の方へと振り返った雨子様の両の目には、溢れんばかりの銀の涙が湛えられていた。
「雨子様、一体どうされたんです?」
驚いた僕がそう問うと、雨子様は一言ぽつりと言う。
「のう祐二、我は一体誰なのであろうな?」
僕は一気に血の気が下がる思いを感じていた。体中の血が逆流し、冷え切って行くのを肌を持って知る。もしかして和香様とのあの話、雨子様に聞かれていたのか?
僕はからからになった喉から、嗄れた声で雨子様に問うた。
「雨子様…和香様のお話、聞かれていたのですか?」
雨子様が静かに頷く、涙が光りの糸となって流れ落ちていく。
「外の空気を吸いに行くと言って余りに長いので、そなたに上着を届けようと思ったのじゃ、そしたらの…」
そう言う雨子様の語尾は小さく小さく消え、丸で雨子様そのものの存在すらも消えてしまうのではと思ってしまう。
「雨子様…」
そのまま消えてしまうのでは無いかと不安になった僕は、思わず雨子様のことを抱きしめてしまった。
普段目にしている雨子様よりもその身は小さく感じられ、微かに震え、氷のように冷え切っている。
「今までもの、時折では有るが己の存在に対する不安はあったのじゃ。以前我ら神の一族がこの地球に来たのは、百万年程前じゃと言って居ったことがあるじゃろ?」
僕に抱きしめられた中、くぐもった声で雨子様が話し始める。
「そして我が生まれたのが十万年前じゃと」
「はい、覚えています」
「我ら神族も時に応じては子を成すことはある、じゃがそれは親となる者達から様々な要素を少しずつ切り取り、与え合って作り上げた枝が育ってそうなるのじゃ。それらの枝は生まれたその時から意思を持ち、親たちの記憶をも持つ物なのじゃ。じゃがの、我は違うのじゃ。群れから与えられた凡その記憶こそあるものの、十万年前のと有る時、ひょっこり無より生まれ出た鬼子のような存在なのじゃ。」
「鬼子って…」
「それでも我は、そのようなことも希にはあるのかと自らを納得させて居った、じゃがそなたに助けられた時に、自身を成す自我の奥に更に何かの気配を感じたのじゃ。下手をするとそれは今の我よりも遙かに大きな物の気配じゃった。ただそれを感じたのは一瞬のことで、そなたの身を案ずることに忙殺されて、その不安な思いはいつの間にか意識下に押し込められて居たのじゃった」
そう言うと雨子様は身を震わした。
「じゃが我は和香の話を聞いて思い出してしまった、その忘れてしまった、いや、忘れようと無理矢理意識下に押し込めた物のことを。そしてそれが我の夢や思い込みでは無く現実のものなのじゃと知ってしもうた…」
僕は心の中で八重垣様のことを恨んでしまった。なんの為に和香様が雨子様を引き離しておくべく八重垣様に依頼したのか?これじゃあ意味が無いじゃ無いかと。
だが、その一方で、和香様がこれらのことを、僕を信頼して全て話していてくれたことに感謝した。
「祐二、我は一体誰なんじゃろうな?一体何なのじゃろうな?」
そう言うと雨子様は身を捩るようにして僕にしがみつき、声を殺して泣いていた。
人の価値観も思いも、自尊心も愛も憎しみもその他全ての物が、己という存在があって初めてなり立つ物なのだ。その根源が何も無いと思い知らされた時、一体誰が安穏として生きていられることだろう…。
僕は必死になって雨子様のことを抱きしめながら言う。
「雨子様、雨子様、僕が居ます、僕が雨子様を知っています、僕は雨子様に救われたからこそこうして生きています。ならば今度は雨子様が僕を頼っても良いじゃないですか?」
「祐二よ、我は居ても良いのか?」
「当たり前です、もちろんです、むしろ僕自身が雨子様が居なかったら生きていけない…」
そう言う僕に、腕の中から見上げる雨子様が泣き笑う。
「愚か者、折角救われた命、生きていけないなどと言うでは無い…」
僕はそんなことを言う雨子様に、自分の中にあった思いをそのままに、熱情を込めて言葉にした。
「だって雨子様、本当のことなんです。雨子様が居てくれて、いつも微笑んでくれるのが、それが何よりも嬉しいんです。雨子様こそ居なくならないで下さい」
「本当に、本当に我で良いのかえ?」
雨子様はかろうじて絞り出すかのようにそう言うと、僕を見つめた。
「もちろんです…」
僕のその言葉を聞いた雨子様はほっとしたのか、急に身体の固さが抜けた。
「嬉しい…」
そう言うと雨子様は涙で顔をぐしょぐしょにしながら、嬉しそうに笑った。
その様を見た僕もまたほっとして安心出来たのか、どっと身体の力が抜けてきた。
「雨子様、こちらを向いて下さい」
唐突にそう言う僕にきょとんとする雨子様。
僕は風呂上がりに首に掛けていたタオルを手に取ると、涙まみれになっている雨子様の顔をそっと拭った。
雨子様は恥ずかしそうに顔を赤くする。
「これで大丈夫、すっかり元通りですよ?」
僕がそう言うと雨子様が小声で何か言っている。
「…」
余りに小さな声だったので僕には雨子様が何を言っているのか聞こえなかった。
「雨子様?なんでしょう?声が小さすぎて…」
僕がそう言うと雨子様は、意を決したかのように声を大きくして言った。
「お願いじゃ、我を呼ぶ時に様を付けるのはもう止めて賜れ」
雨子様からそんな願いを受けた僕だったのだが、しかしこればっかりはそう言われたからと言ってはいそうですかと、いきなり出来るものでは無い。なんだか物凄く動揺しながら、必死になってなんとか口を動かそうとした。
「あ、雨子さささ…」
僕の吐き出した言葉を聞いて雨子様がくすくすと笑い始める。
「さささとは何なのじゃ?さささとは?我が名はさささなぞでは無いぞえ?」
いや雨子様、僕だってちゃんと言おうと思うんですよ?でもどうやっても口が回らない。
僕はごくりとつばを飲むと改めて腹に力を入れた。
「雨子さん…これで良いですか?」
すると雨子様の口元が少し不満げに歪む。
「なんじゃ、雨子とは言ってくれぬのかえ?」
「すいません、今はこれで精一杯なんです」
僕がそう言うと雨子様は仕方なさそうな顔をした後、僕の胸に顔を埋めて言う。
「仕方ない、今は許してやる」
そう言うと雨子様は僕の身体に手を回してぎゅうっと抱きしめてきた。
「暖かいの」
冷え切っていた雨子様の身体が、いつの間にかすっかりと暖まっていた。
あれほど冷たく冷え切っていたと言うのに、今は本当にほかほかとしている。
「祐二のお陰じゃの、ありがとう…」
そう言いながらも雨子様は尚もきゅうっと僕の身体にしがみついている。
僕は初めて我が家に来た時の雨子様のことを思い出しながら、そっとその頭を撫でていた。
撫でている内にやがて瞼が重くなり、何時しか僕は夢の中の人となっていた。
その夢の中でも雨子様が側に居る。その雨子様はとても嬉しそうに微笑んでいる。
うん、雨子様はこうやって微笑んでいるのが一番良い。
そんなことを思っていたら雨子様から物言いが入る、様は要らないと。
そうしたら夢の中でもやっぱり僕は真っ赤になって、上手く名前を呼べずに居た。
すると雨子様が泣きそうな顔になる。
これはいけないとなんとしてもその名を呼ぼうとする、だが言えない。それはもう必死に必死に呼ぼうとする。
「雨子…」
なんとか僕はようやっとのことでその言葉を口にして、はっと目を覚ます。
すると目の前にと言うか、僕の腕の中に居る雨子様が僕を見つめている。
「祐二、魘されて居ったぞ?そしていきなり我が名を呼んで目を覚まし居った」
僕は夢の中でも名前をなかなかそのまま呼べずに、千一夜物語の中の王様と大臣のように、うんうんと言っていたとは言えず、すっ惚けることにした。
「なんだろう?何か怖い夢を見ていたような…」
すると雨子様が優しく言う。(頭の中で考える時くらいは様付けでも良いよね?)
「夢の中であろうがどこであろうが、何時いかなる時も我は一緒じゃ、我が助くる故、安心するが良い」
いや、魘されたのはその雨子様が原因なんですとは口が裂けても言えず、僕はもう一度だけ雨子様をぎゅっとすると起きることにした。
雨子様も僕に続いて起きるのだが、起きるなりまた僕に抱きついてくる。
「もう一度我を抱きしめるのじゃ…」
仕方が無いのでむぎゅっと抱きしめると嬉しそうに笑いながら言う。
「うむ、これで一日がんばれるのじゃ」
ともあれお陰でなんとか無事今日という日は始められそうだ。
今日は七瀨やそのほかのクラスメイト達と一緒に初詣に行く約束になっている。
だからこの後雨子様は、母さんに着物を着付けて貰うらしい。
「おはよう母さん」
起きていくとそこには既に母さんが朝ご飯となる料理を並べている。
雨子様は未だ身支度に暇が掛かって洗面所に居る。
母さんが問う。
「お雑煮なんだけれどもお餅いくつにする?」
暫し考えて僕は言う。
「四つかな?」
「ん、分かった、雨子さんはいくつか聞いてきてくれる?」
「了解」
僕はそう言うと
「雨子さ~ん、母さんがお雑煮、餅いくつにするって聞いてるよ~?」
と言いながら洗面所に向かった。
その台詞を聞いてはっと気がついた母さん。
「雨子さん?」
僕のその呼び方を聞いた母さんは、くいっと眉を上げたかと思うと背を向け、嬉しそうに微笑むのだった。
また一歩近づく祐二と雨子様。




