雨子様と七瀬
クラスメイトにもみくちゃにされる雨子様。でも何だか楽しそうです。
「そなたも大変じゃの?」
急に声をかけられて僕は苦笑した。机を並べて一緒に教科書を見ている雨子様には、すべての事情はお見通しだったようだ。
「雨子様」
僕は小声で彼女に話しかけた。
「その言葉は何とかなりませんか?」
そなたとかなんとか、いくら何でも一般生活の中では大時代じみている。
「むぅ」
「ほら、それもですよ」
「む…」
僕に指摘された雨子様は、しばしの間色々と考え込んでいるようだった。だがすぐにひょいと肩をすくめると言った。
「じゃがまあこれが我じゃ、我自身を偽るまでも無いじゃろう」
どうやら雨子様は今のスタイルをそのまま貫き通すつもりらしい。もちろん彼女がそれで良いというのなら、僕にはそれ以上異論を挟むべきものはなかった。
ただ将来いつかこのことが何かもめ事を起こすことになりはしないか?そう言う漠然とした不安感を押さえ込んでおきたいと思うのは我が儘だろうか?
「今日のところは試験に出すからなあ」
桑原のがなる声がチャイムの音と重なる。どうやら今回の僕の英語の成績は、普段に比べてかなり落ちることになりそうだ。
雨子様のことや七瀬のことを考えていて、今日の授業はまるで上の空だった。
だがそんなことをしみじみ思って嘆息する間もなかった。
授業が終わるやいなや、クラスのほとんどの女子がわらわらと雨子様の周りに集まってきたのだ。
男子達はと言うと、彼らも近づきたいのではあるが女子達の勢いに押されて一歩前に出ることが出来ない状況だった。だがそれでもしっかりと聞き耳を立てている。
「ねえねえ帰国子女なんだって?」
「一体どこの国だったの?」
「何で祐二君の家に厄介になることになったの?」
等々、騒々しいったらありゃしない。
だが僕にとってそんなことは当面どうでも良いことだった。むしろそんなことよりも雨子様がそう言った問いに対してどう答えていくかが問題だった。
ちゃんと整合性のとれた返答が出来たならいいのだが、そう言う受け答えが今の雨子様に出来るのだろうか?
嵐のように押し寄せる質問の山に、さすがの雨子様はあっけにとられた顔をしている。おそらく雨子様のような存在にとってこの様に乱雑な状態というのはあまり経験のないことなのではないか?
そう思ったのも束の間、その表情を見ていると決してただ戸惑っているばかりでは無いことに気が付かされた。
最初の呆れ返った表情が収まったかと思うと、急に生き生きとした顔つきになり、目をきらきらさせ始めた。
だがそれと質問に答えると言うことは全く別のことだった。
雨子様は数有る質問の中でもっとも多いものから答え始めた。
「我が両親と居ったのは…」
ああ、心配していたままの口調で話し始めている。だが僕の思惑とは別にクラスの連中はあっさっりとその口調を受け入れてしまった。
「何それ?」
「きっといいとこのお嬢様なんだよ」
「わぁー凄い。そう言うの憧れちゃうなあ」
とかとか。結局自分達で問いかけておきながら自分でまたその答えを出しているのだ。
もちろん合間合間に雨子様から出されるいくつかの情報があった。だがそれよりも問いかけている本人達が自分から答えを出していることの方が多いのだ。
一体これはどうなっているのやら?僕がしきりの首を傾げているのを見た雨子様は、皆から寄せられている質問の山をこなしながら、一瞬僕の方に向かって微笑んで見せた。
すべての疑問が僕の中で氷解する。間違いない、雨子様は今ここぞとばかりに自身の能力を使って居るに違いなかった。そしておそらく今はこの状況を楽しんでいる。
『なるほどね』
僕はそう心の中でつぶやいた。きっと雨子様はここにいる者達の望んでいる答えをそのまま引き出しているに違いない。
その答えが少々整合性にかけていたとしても、質問をした側が自ら期待している答えなのだから、誰もその答えに不信感を持つものはいないだろう。
だがそんな輪に入りあぐねて悶々としている人間が一人居た。七瀬だ。彼女の取り巻きさえも今は雨子様の周りにいる。だが彼女はそのことについては気にしている風でもなかった。
しかし雨子様とその周囲の間で繰り広げられている様々な会話にしっかりと聞き耳を立てている様だった。
今彼女は席が近いことを最大限に活用している。自分では無関心を装っているけれども、僕の目から見ていると何とも不自然なまでに表情を押さえているのが逆に目立っていた。
それはさておき、隣の席に雨子様が居る僕の耳には、聞き耳を立てる必要など全くなしに、最新?の雨子様情報が次から次へと伝わってきた。
何でも雨子様は良家の子女で両親と彼女の三人家族、幼少の頃からつい先日に至るまでヨーロッパのと有る小国にて暮らしていたそうな。
いずれ家族全員で帰国するに当たって、少しでも早く日本の風俗習慣になれるため、先に雨子様だけが親戚である我が吉村家の世話になることにした。
…とか言うのが周りでワイワイ話されていた話の大筋だった。大時代じみた彼女の話しぶりは、彼女が旧家の出であったからだと言うが、なんだかそれでも話しに無理がないか?
色々突っ込みどころ満載の話だったけれども、自分達が納得しているのならそれ以上のことはない。
僕は人間と言うものがいかに自身の希望に添った情報に毒されているのか、まさに驚きの思いで知ることになった。
何とも本当の嵐以上に騒々しい時間は瞬く間に過ぎ、次の授業へとスケジュールはなだれ込んでいく。
怒濤のごとく押し寄せ騒いでいた面々が、潮のようにすっと引いていったかと思うといきなりまた日常がやってきた。
「すまぬの」
耳元で雨子様がぽつりと言う。
「それで?」
僕が聞く。
「それでとは?」
微かに小首を傾げながら雨子様は問い返す。
「いやあ、なんだかずいぶん楽しそうだったから」
「なんじゃ、そのことか」
そう言うと雨子様はにっこりと笑った。
「長き間、絶えて衆生の間に入ることがなかったからの。新鮮、そうじゃな、非常に新鮮じゃった」
するとそれを聞きつけた七瀬が、僕越しに雨子様に話しかけた。
「天宮さんは向こうではお一人だったの?」
雨子様もまた僕越しに七瀬の問いに答える。
「むぅ、そうじゃな。考えてみたら長い間ずっと一人じゃったな。付き合いがあったのは祐二とだけじゃな」
雨子様は祐二と言うのに合わせるかのように僕の頬を指でそっとついた。それを目敏く見つけた七瀬は何を思ったのか自分も僕の頬を突っつきながら言った。
「こんなのでも役に立ったのかしら?」
「こんなのって…」
こんなの呼ばわりされた僕は思わず絶句してしまった。
だが雨子様はいたくその言い様が気に入ったらしい。さすがに既に授業中に入っているのでおおっぴらに笑うことは避けてはいるが、そうでなかったら大笑いしているに違いない。
僕としては何とも居心地の悪い思いをさせられてしまったのだが、逆に彼女たち二人は阿吽の呼吸のようなものを感じ取ったらしい。もしかすると七瀬にだけは、雨子様の素性を明した方が良いのかもしれない。
いずれにしても今この場にて決められることではない。後ほど雨子様と十分に相談してから決めても遅くはないだろう。
ともあれ今は授業に集中することにする。そうでなくとも笹本の声は小さく解の説明などはっきり聞こえないことが多いのだ。
ただこの先生、よほど数学って言う奴が好きなのだろう。声は小さくともその解を説明する様は実にうれしそうだった。
時々思うのだけれども、彼はこういう教職に就くよりも、大学などに残って研究職に就いた方が良かったのではないだろうか?
だがそんなことは他人の都合だ、僕がとやかく言うことではない。雨子様のクラス入りという突発事項はあったけれども、そんなこんなも日々の喧噪の中に薄らぎ、日常の中に溶け込んでいくのも時間の問題だった。
もちろん雨子自身はお昼休みと言う洗礼を受けなくてはならなかった。ただそれも端から見ている限りでは、実に楽しそうにそつ無くこなしていた。
僕としてはありがたいことのはずなのだったけれど、色々案じて思い悩んだことが多かっただけに、なんだか拍子抜けと言った感もあった。
だが本当のところは何もないのが良いのだ。そうでなくとも今の僕には十分過ぎるほどの珍事が起こっているのだから。
ともあれ雨子様は、多少のさざ波を起こしながらも、静かに着実にクラスの中に溶け込んでいった。取り立てて自分の方から何かしたり、話しかけたりしているわけではないのに、気が付くといつも人の輪の中心部に近いところにいる。何ともそれが不思議で仕方がない。彼女が唯一口にしている単語は例によって
「うむ」
とか
「むぅ」
とか、せいぜいこの二つの返事をしているだけなのだった。
だが見ていると周りにいる者達は、その彼女の相づちを何度か聞いているだけでほっとしたり、安心した顔になっている。
もしかするとその返事の仕方には、僕には分からない絶妙のタイミングか何かあるのかもしれない。あるいは曖昧なその答え方であるが故に、聞き手の想像力が働くのかもしれない。
いずれにしても雨子様がこのクラスに馴染むのに、僕の手助けなどほとんど必要では無さそうだった。
だがそう思って手放しに近い状態で見ていると、時折ちらちらと僕の方を見てくる。一体何を思ってのことなのかは分からない。帰宅してから聞いてみることにしよう。
有る意味長い長い時の経過の末に、で有りながらも振り返ると一瞬とも思える時間の内にその日の授業は過ぎていった。
部活動があるものは部室へ、帰宅組は校外へ向けて三々五々散っていく。無事一日を終えたことに内心ほっとしながら僕は雨子様の方へ視線を送った。
「むぅ」
満面の笑みを浮かべながら雨子様の発したのはその一言。
思うに学校生活がよほど性に合っているのだろう。楽しくて仕方が無いというのがその笑みのすべてだろう。
案の定と言うべきか、むしろ当然と言った方が良いのかもしれない。七瀬が僕らと一緒に教室に残っている。
「天宮さん、一緒に帰ろうか?」
おいおい、僕のことは丸で無視なのか?思わず愚痴りたくなったが、ふと見ると七瀬の取り巻きが一人も居ない。
「?」
一体どういう事になっているのか、僕が目顔で問いかけると彼女はふっと肩をすくめた。
「いつもの連中はどうした?」
僕があえて聞くと彼女はぷくっと頬を膨らませながら言った。
「いつもって…、あんな連中居て欲しくて居てもらっているんじゃないのだから」
僕は思わず辺りを見回した。そんな言葉を彼らが聞きつけようものなら、どんな仕打ちがこちらの身の上に降り懸かってくるか知れたものではない。だが七瀬はしゃあしゃあと言って除けて動じる風でない。
まあさもありなん、何かあったとしてもその帳尻は彼女にではなく僕のところにやってくるのだから。しかしそれにしても誰も取り巻きが居ないと言うのはどうにも変だった。雨子様に群がっていた者たちも然りである。
ふと気が付くと雨子様が実に興味深そうにそんな僕たちのことを見守っていた。
その時の僕はこの不思議な現象の元は雨子様なのではないか?そんな風に感じていた。だが確証になる物は何もない。
やれやれ、ともあれことの次第はなるようになるだろう。そう思った僕は鞄を抱えあげて肩からかけた。雨子様も潮時かと思ったのか同じように鞄を肩からかけた。七瀬に至っては言うまでもない。
まだ幾人か人が残っている教室を後にして、僕たちは帰宅することにした。。
校門を出て住宅街を抜ける通学路。僕達が通っている学校は割と閑静な区画にある。
お陰であまり車が行き交うこともなく、通学路は三人が横に並んでぶらぶらと歩いて帰ることが出来るような所だった。
だが普段ならのんびり歩けるよなその道も、今日はなんだか落ち着かなかった。一時波長が合っているように見えた二人の女性達は、今は僕の両側に分かれて互いに相手の出方を待ち受けている。間に挟まれた僕は何とも落ち着かない。
一体どちらと話を始めるべきか、僕はそのきっかけを求めて左右の二人におろおろと視線を走らせていた。
しかし以外にもそのきっかけは雨子様の方からやって来た。
「むぅ、七瀬とやら、聞きたいことがあるのではないか?」
なんともはや単刀直入な…。雨子様らしいと言えばそうなのかも知れないが、少しはこちらの蚤の心臓についても考えてもらいたいものだ。
急に七瀬の手が僕の手を握る。このあたりは昔からちっとも変わっていない。僕自身に対して不安や不満があると手が出るのだけれど、僕以外のこととなると今度は僕の手を握ってくるのだ。もっとも最近は周りの目もあって、絶えてなかったのだけれども。
その手がじんわりと汗ばんでいる。何も言わずとも七瀬の緊張感が伝わってくる。
ぎゅうっと一際強くその手が握られる。
「祐二の…祐二の従姉妹って嘘でしょ?」
多分この三人の中で僕の心臓が一番早く打っていたことだと思う。だがそんなことはこの場に何の影響力も持ちはしない。僕はどうすれば良いか分からず雨子様の方を見た。
だが当の本人はきわめてのんびりとしていた。
「むぅ、七瀬とやら、そなただけは自らの信じたいことではなく、知りたいことの答えを求めて居ったからの」
そう言いながら雨子様はにこにこしていた。
対する七瀬はますます強く手を握りしめてきていた。表情こそ平静を保っているけれども、その内心は決して穏やかならざるはずだった。
「やっぱり嘘なんだ」
その言葉は雨子様に向かうのではなく、むしろ自分自身に言い聞かせるものだった。
「うむ」
雨子様は素直にそう返事をした。にこやかに微笑んでいるけれども、その目の語るものは極めて真剣だった。
僕は少しかすれた声で提案した。
「いずれにしてもこんな往来の真ん中で話すことじゃないだろう。二人ともって…雨子様…さんは元より我が家に住まっているわけだけれども、とにかく一端みんなで家にいこう」
さっきから握りっぱなしの手から七瀬の思いが微妙に伝わってくる。雨子様に様をつけた一瞬、その手がぴくりと動いた。やれやれ、一体どう説明したものか。
とにもかくにも僕たちは我が家へ、そして僕の部屋へと向かった。
七瀬だけが雨子様の真実に近づいている…




