日常へ
次第に人としての生活になじんでいく雨子様。
それから僕がどのように眠れない夜を過ごしたか?なんて言うことは全く書くに値しない。だがいつもの時間に重い頭を抱えて何とかようやく夢の世界から抜け出してみれば、既に雨子様の姿はなかった。
雨子様の眠っていた布団も既に無く、彼女の居た痕跡すらなかった。
お陰で昨夜のことは夢だったのではないかと思い始めていた。だがその幻想はたちまちにして破られる。
パジャマ姿のまま階下の洗面所に行くと、そこには既に先客が居た。そこにある鏡を覗き込みながら長い髪を左右二つの三つ編みに結っているところだった。
「おはようございます」
僕が枯れた声でそう挨拶すると、雨子様は苦笑しながら返事を返してくれた。
「むぅ、祐二か。あまり早くはないがおはようではあるな」
見ると昨夜のスエット姿ではなく、既に葉子ねえのお古の制服に着替えていた。それが良く似合っているので、とてもお古を着ているとは見えなかった。
「母御が朝食の準備が整っていると言っておられたぞ」
雨子様は色々と角度を変えながら何度も髪の形をチェックしている。こう言うところは神様でもやっぱり女の子なんだなと思う。
しかし待てよ?本来の雨子様は純粋思念体なのだよな?そんな存在にそもそも男女の区別はあるのだろうか?
僕はもしかしてとんでもないことに気がついてしまったのか?
そんなどぎまぎと心乱れる様を雨子様はしっかりと見ていた。今までにこにこしていたのに、急に目を細めてまじまじと僕のことを見つめている。
「祐二、そなたまた何やら詰まらぬ事を思いついて泡を食っているのであろ?」
まあ、たまたまその時歯を磨いていたから、泡を食っているというのは間違いではない。だがそれはともかく、雨子様はしっかりと僕の心の状態を言い当てていた。
「ともあれ何を言うても怒りはせぬ故、正直に話してみるが良い」
そこで僕は今思ったまあ間のことを素直に話したんだ、雨子様の性別の疑惑を。
すると雨子様は確約した通り怒りはしなかった。だがそれ以上にしっかりと呆れ果てていた。
「う…だから言いたくなかったんだ」
とは言っても後の祭り。気まずい沈黙が流れる。だがそれも二呼吸ほどの間で、その後雨子様は立っていられないほど笑い転げていた。
おそらくその笑い声が台所にいた母のところまで聞こえたのだろう。廊下の向こうで顔をのぞかせてこちらを伺っている。そして目顔が僕に問う、大丈夫?と。それに対して僕は限りなく情けない顔つきをしたままうなずいて見せた。
だが母はそれで納得したらしい、すぐに顔を引っ込めた。
ともあれその時の僕に出来るのは、ただ雨子様の笑いが収まるのを待つことだけだった。しかし涙を流すほどわらわなくっても良いだろうに…。
結局雨子様の笑いの衝動が収まったのは、僕が洗面を済ませ、食卓に座って少し経った頃だった。それで問題の雨子様の性別はって?あれだけ笑われたら更に問い直すまでもなく、女性であることは明々白々だろう。
僕は少々ふてくされながら軽くトーストしてあるパンをほおばった。雨子様もそれを見よう見まねで口にする。
きっと雨子様にとっては生まれて初めてのパンなんだろう。パンの端っこをかじる瞬間から、飲み込み終えるその時まで全てを味わい尽くしている感があった。
端から見ているだけでも、トーストされているパンのサクサク感がいたくお気に入りであることが見て取れた。
そこで僕は苺ジャムを雨子様に勧め、自分もまたかじりかけのパンにたっぷりと塗って見せた。
「おおっ!」
雨子様の口から感嘆の声が漏れる。昨夜の食事の時も、新たな物を口にする度に色々と母に聞いていたのだけれど、案外雨子様は美味しい物に目がないのかもしれない。
「祐二よ」
雨子様が僕の名前を口にする。
「なんですか雨子様?」
僕が聞き返すと、雨子様は僕とパンの交互を見ていた。
「このような物を口にしていると、ほとんど不死である我らと定命であるそなたら人と、本当のところどちらが幸せなのか分からなくなるの」
僕は半ば呆気にとられ、半ば苦笑しながら雨子様の対比について考えた。
「雨子様たちは肉体をもたれていた頃、食べ物を食べることを楽しまれなかったのですか?」
雨子様は少し首を傾げると答えた。
「確かにその頃は食事をとっていたようじゃ。しかしそれはあくまでエネルギーの摂取と言うことで、このように様々な物を楽しみながら食べると言うことはしておらなかったようじゃ。もしかするとかつての我らの肉体には、食べ物の味や感触を楽しむ仕組みがなかったのかもしれん」
なるほど、神様だからと言ってなにもかも万能かと思っていたら、必ずしもそうではないと言うことらしい。
もっとも神様とは言ってもキリスト教のような宗教的な物の神様とは違って、お互いの関わり合いの中で神様の地位を獲得していったのだから、少し意味合いが異なるのかもしれない。しかし僕の苦しみを癒してくれたことを考えれば、雨子様はまごう事なき神様だった。
ただ、トーストに苺ジャムを山の様に塗って嬉しそうにしている神様なんて、ちょっと想像出来ないんじゃないかな?それが雨子様であるからこそ何となく有っても良いかなと思えてしまうのだけれども。
「祐ちゃん」
とは母。いつの間にやってきたのかすっかり出かける支度をしての登場だ。
「どこかに出かけるの?」
とは僕。すると母は呆れた顔をしながら言った。
「何言っているの、雨子様の転入の付き添いじゃないの」
僕は母から雨子様へぐるりと視線を動かした。
「転入…?手続きとか大丈夫なのですか雨子様?」
トーストを食べ終えた雨子様は、なお物欲しそうな顔をしながら苺ジャムの入った瓶を見つめている。だが雨子様は何とかそこから意識を引き離すことに成功した。
「むぅ、人は己が意識が正しいと思った事柄は、常に真実であると思い込むが故、一端何かを正しいと信じさせれば、もはやそれが事実となる。案外たやすいものじゃ」
僕は昨夜の雨子様との会話を思い出しながら聞いた。
「と言うことは、僕は雨子様にそういう力を使うことを許可しなくてはならないのですね?」
雨子様は嬉しそうに笑みを浮かべた。
「うむ、そなたはなかなか飲み込みが早いようじゃ。今の我らの間柄では、かように当意即妙のやりとりが出来ることがもっとも肝要となるじゃろ。もっともこの場合は、厳密に言うならば我自身に関わること故、そなたの許しなくとも実行できる物としたいがどうじゃ?」
「と言うと?」
雨子様が一体何を意図してそう聞いてきているのか分からなかった僕は聞き返した。
「むぅ、一番の問題はそなた等の使っている言語の精度にあるのじゃが、今ここで云々しても仕方がない。故にそなたから了解を得ることで問題の性格をはっきりとさせておるのじゃ」
僕は雨子様の言った言葉を何度も頭の中で反復した。
「つまりは雨子様自身に関わることには力が使えるけれども、そうでないことには僕の了解が必要となる。そこのところの考え方を整理するって言うことなのですね?」
「うむ、簡単に言うとそう言うことじゃな」
僕としてはいちいち細かいことまで雨子様に面倒な思いをさせるのも嫌だったので、全く異論はなかった。
「僕としては雨子様が自分のためだと解釈できることについて、ご自分の力を使われるのに何の異論もありません。むしろ全てのことについてもそんな了解は無用であると言いたいくらいですよ」
僕のその返事を聞いて雨子様は苦笑した。
「なんともはや、祐二の手に掛かっては我らのもっとも神聖なる掟も形無しじゃの?」
僕はふと疑問に思って聞いた。
「もしその掟を破ったらどうなるのです?」
すると雨子様は見たことも無いような難しい顔をした。
「むぅ、我も実際にそんな例を見たことは無いの詳しいことは何とも言えん。然れど知識としてだけは知っているのじゃが、違反した内容や、その程度にも寄る様じゃな。最悪の場合そのもの自身の命を代償として支払わねばならぬ事も有るようじゃ」
「命…」
僕は考えようによっては余りに重い対価であると考え、しばし言葉を失ってしまった。
「この掟は我らの存在そのものの中に、深く深く刻み込まれておる。ある意味そなた等のDNAとやらに似ておる」
しかしいくら精を得るための対価とは言え、その処置はいささか厳しすぎるように思うのは僕の甘さなのだろうか?
雨子様には僕のそんな思いが手に取るように見えるのかもしれない。真っ直ぐと核心を突いた話をしてくれた。
「それほど重大な定めを自らの中に刻み込むとは一体どういうことかと思っておるのじゃろ?」
正にその通りだったので僕は素直に答えた。
「はい、正にその通りです」
雨子様は僕の答えを聞くと嬉しそうに目を細めた。
「むぅ、祐二らしいと言えば祐二らしいか」
僕には何故そのことが僕らしいのか?理解することが出来なかった。ただ雨子様が更に話し始めるのを待った。
「祐二よ、考えてみるが良い。我らのような存在がその生存本能のままに、周りの存在から無制限に精を吸い上げている様を。我自身そのような存在のことを想像するだけでも震えがくる」
なるほどそう言うことか。ようやく僕は雨子様の属する神族の人たちが何を恐れていたのか理解した。
全ての人の命を食らいつくしてしまう暗黒の闇のような存在。ある意味雨子様のような存在とは真反対のような気がするのだが、蓋を開けてみれば紙一重の存在だというのだから何とも言いようがない。
だが待てよ、そう言う存在が他にも居たのではなかったっけ?
「雨子様…」
「なんじゃ?」
雨子様はほんの少しだけ首を傾げながら僕が言葉を継ぐのを待った。
「前に言われていた付喪神、彼らにはその縛りは無いのですよね?」
「うむ、確かにその通りじゃ。しかし付喪神の発生率はそなたの心配するほど高いものではない。それに人の精をその意志に逆らって吸い取ることが出来るほど強力な物は滅多に生まれん。更に付け加えるなら、人間に恨みを持って悪を成そうとして生まれる付喪神はもっともっと少ない」
僕は雨子様の説明を聞いてほっと安心した。少なくとも雨子様の言う悪魔みたいな存在がこの世に生まれるのはまず持ってないことらしい。だがそれでもゼロではないはずだ。気になった僕はそのことを雨子様に聞いた。
「今までにそう言う悪魔のようなの付喪神が生まれたことはなかったのですか?」
雨子様はほんの少しの間耳を澄ますような顔をした。
「むぅ、そうじゃな。今まで千年に一度くらいはそう言う存在が生まれてきておるな」
「千年に一度?」
それが多いのか少ないのか、それはその化け物に巡り会った人間と、そうでない人間の間で大きく意見が分かれるところだろう。だがそう言う存在との遭遇など、決して考えたくないことだった。
「それでその悪意の固まりみたいな付喪神はどうなったのですか?」
「うむ、そのほとんどが我らの手によって滅ぼされた。我らは人の守護者であるからな」
雨子様の口元に宿る笑みがほんの少しだけ誇らしげなのは気のせいだろうか?
「ところで雨子様、どうしてほとんどなのですか?」
「中には改心して我らの縛りを受け入れ、付喪神から神になる選択をした者も居たのじゃ。もっとも、その能力は我らに比べてきわめて限定されたものじゃから、神とは言っても二級神じゃがな」
僕は驚き、そして納得した。雨子様たち神様の世界では、僕たち人間が作り出した宗教の神様の世界と極めて似たことが起こっているのだ。いや、実はそれすらも雨子様たちのことを元にして生まれたものかもしれない。
僕は多くの宗教に帰依した、土地々々の土着の神々のことを思い浮かべていた。
もっともこれらのことは全て憶測でしかない。いつか雨子様に話を聞いてみなくてはならない。僕はそう心の奥に思いを書き留めた。
「ところで祐ちゃん」
ふと気がつくと母が僕たち二人を見つめている。思えば先ほどからずっとそこにいたのだ。
「今何が一番大事か分かっている?」
僕と雨子様は二人で顔を見合わせた。だが二人とも答えに行き当たらない。母はそんな僕たちのことを呆れた顔で見つめている。
「あなたたちもしかして、学校があることを忘れておるのじゃないかしら?」
一気に現実に引き戻された僕は慌てて時計をみた。まずい、もう始業時間まで十五分と無い。それは我が家から学校間での道のりを走破するのにぎりぎりの時間だった。
僕は雨子様と母の両方に目をやった。
「雨子様のことなら心配いらないから、私に任せておきなさい」
母の一言が僕の逡巡を打ち破った。
「じゃあお先、行ってきます」
そう言った僕は雨子様は母に任せきることにして、鞄を抱え上げるなり脱兎の如く玄関を飛び出していった。
そろそろストックに追いついてきそうです。




