第二話 ふたつのきおくと
閲覧ありがとうございます。
地の文が重く、読みづらい点があると思いますので、休みながら読んでいただければ幸いです。
そして鏡に映った自分自身を見て、思わず頬が引き攣った。
「お、女の子? この娘が俺、なのか?
わけが分からない、どういうことだ、どうなっているんだ?」
男の角張った顔立ちとは違う、丸みのある顔。
歳は十代前半……いや、ギリギリか?
届いているかも怪しい。子供とあまり関わりがなかったから、
正直判断がつかない。
視界が揺らぎ、足を踏ん張って何とか持ち直す。
こめかみを手の平で押さえ、鏡の中にいる俺を見つめる。
宝石のように輝く紫色の瞳は、わなわなと動揺のあまり震えていた。
「もしや夢? 夢ならきっとそろそろ覚めるはずだ。
こういうのはアレだ、ゾッとしたり自覚した途端に
目を覚ましたりするもんだ。だからこれは夢で、俺は……お、れは……」
――喉が痛む。
俺は喉が渇いていたんだ。
そしてその痛みが現実逃避をする俺の意識を無理やり引っ張り、
蛇口に手を伸ばさせる。
小さく幼い身体では水道のセンサーを反応させるのにも手こずるが、
何とか水を出し、手を器代わりにして口元へ運んだ。
痛みが和らぎ、まさに生き返った感覚。
今着ている白いワンピースや、チョロチョロと頬をくすぐる赤い髪が
濡れるのも構わずに、水を顔へと押し当て、コシコシと洗った。
顔と指先から垂れた水滴が、白色の洗面台に水溜まりを作る。
行儀が悪いけれども、俺はそれを無視して再び鏡の中の自分と向き合った。
「……夢、じゃない。ははっ、ありえるんだな、こういうの」
男女逆転、性転換、TSF
頭が混乱する……ん、待てよ。
動転していた心は徐々に落ち着きを取り戻し、
ふと気になった箇所を確認する。もちろん、濡れた手を軽く振ってから。
「ふぅっ……。無い。まさに無だ。つるつるで割れ目はあるけど、
ブラブラとタプタプが無い」
自らの股を手早くまさぐり、決定的な違いを実感する。
一度も使ったことがない相棒だったが、いざ失うとどこか物寂しさを感じる。
二十数年間の付き合い。簡単には言い表せない悲しさだ。
「しかし、一体どうしてこんなことが……」
目を閉じ、記憶を巻き戻すように思い出す。
――夢の中、女性が俺に語りかけた。
生き返らせるとか、新しい身体とか、言っていた、気がする。
俺は、死んでいた?
なぜ、死んだ?
熱、血、悲鳴、アスファルトの感触。
ここに来るまでのあいだを振り返り、断片的な情景が浮かんでは消えていく。
思い返すほどに、いくつかの記憶は頭の片隅へと追いやられ、
何とか掴んだ記憶の残滓が徐々に明瞭になった。
眠っていた時の夢を思い出すのは難しい。
だが、ある程度は思い出せた。
「やっぱり、俺は死んだんだ。で、誰かがこの身体で生き返らせた……。
はっ、馬鹿らしいが、今はそれを信じよう」
じゃないと、頭がおかしくなる。
瞼を開き、一つ深く息を吸う。
あまり気にしていなかったが、口臭に少しだけ甘い香りがした。
元が男だから、そんな風に感じるのか?
それとも眠っていた際に、誰かの手によって食事をとっていたのか?
……さすがに喉を詰まらせるか?
改めて意識し始めると、身体の要素一つずつに違いを感じる。
そしてそれに自問自答で納得して、受け入れる。
どのみち当分はこの身体、もしくは一生このままの可能性だってある。
エロい方面も込みしてとりあえず理解していくべきだ。
「えっと……あーあー。なんか喋ってみるか?
ほ、本日は晴天なり、晴天なり? むぅ、少し違和感があるな。
俺の声じゃない、ってのもあるが、女の声って感じ。
まあ、落ち着いていて、淑やかな調子は嫌いじゃないし、
どちらかと言えば好きな部類だが」
女の子の声は好きな方だ。
いや、どうして好きなんだ? 心地が良いから?
そんな記憶があった、気がする。
そもそも、生前の記憶が曖昧だ。
身体の動かし方、物の扱い方、名称。
何をしたら何が起こるのか、諸々の知識はある程度は理解している。
言い換えれば、脳に直接刻まれたように、無意識の内に
言葉としても言い表せる。
頭で考える力は衰えた感じはしないし、
どこかルーティンワークのように身体が覚えている。
ここまで来るあいだ、目に映ったものが何なのかを
瞬時に理解できたのが、その証拠だ。
だが、妙だ。男として生きていた時の記憶、というか思い出がほぼ無い。
思い出そうとすれば、物で積み上げられてとっ散らかった机の上みたいに、
掘り返せば返すほどわけのわからない想像というか、妄想? が被せてくる。
思考の混濁。
意識があった際のことはある程度思い出せるが、昔の記憶が全部不明瞭。
そもそも、生前の俺は過去の出来事を思い返すことなんてあったのか?
つまらない人生、だった気がする。
記憶に残っていたとしても、嫌なことか、嫌なことを隠すための適当なこと。
動くためだけに課した、誰かとの約束事……。
「昨日や一昨日、何を食べたのかも思い出せない。
それくらい生前の俺は、空っぽのまま生きていたのかもな」
むなしさが胸でざわつく。ただ、悲しくは無い。
新しい身体でも、心は腐っているのか、もしくは死んでいるのか。
「……っと。落ち込んでいてもしょうがない。
とにかく、今がどんな状況なのか確認しないと」
洗面台の辺りを見渡し、ほぼ未使用と思えるほど、
いっぱいに入った手拭きペーパーの袋から紙を取り出し、
濡れている顔や手を拭く。
ゴミ箱に使用した紙を捨てるために覗き込むと、
すでにクシャクシャに丸められたいくつかのペーパー。
手洗い場が清潔さを保っていることや備品補充に交換作業。
何より水道と電気が通っていることを見れば、俺以外に誰かがいるのは確かだ。
眠っていた俺に危害が加えられていないことを考えれば、
穏便にことは運べる、はず。
あくまで予測だ。当然、最低限の警戒は必要だ。
「靴か何か、履く物が欲しい。一旦戻るか」
ずっと裸足ってわけにもいかない。
俺の身体……といっても、目線の高さや身体の重さ。
今ある感覚が別人みたいだ。
『借り物の身体』そんな風に思えてしまう。
男子トイレから再び廊下へと向かう。
通路が分かれている箇所に近づく度に、
耳を澄ませ、逐一顔を覗かせて左右確認。
ここまで来るあいだは特に意識していなかったが、
自分自身の状態が一つずつ理解していくほどに、
自然と慎重な振る舞いを無意識にしてしまう。
体格ってやっぱり重要だな。
歩幅の広さや視点の高さ、筋肉量に体力の有無。
前の身体の時と比べ、今は段違いに劣っているのがわかる。
「子供の体躯……。俺がショタコンかロリコンだったら、たぶん歓喜だな」
否定はしないが、あいにくそんな趣味は持ち合わせていない。
あれは成長を楽しみ、喜ぶものだ。少年少女の大人変身とか燃えるだろ?
壁に手を付きながら、俺が眠っていた二〇四室へ急ぎ足で進む。
ワンピース、というのだろうか?
女性物の服は詳しくないが、ズボンを履いていないので、
脚元の開放感がスゴい。
スカートで隠れているから羞恥はそこまでないが、
元男としてはイケない感じがする。
女装癖があるとは思っていなかったが、何だか目覚めそうだ。
「――頭の中が、ごちゃごちゃする。どうなってんだ?」
独り言も多くなっている。
無事に二〇四号室へと到着し、引き戸を開いて中に入った。
思考、思想、妄想。
過去の記憶。
見覚えがある記憶と全く心当たりが無い記憶が頭の中で湯水のように
湧き出しては交錯し続け、洪水を起こす。
フラッシュバック。
「思い出したくないようなことばっかが……『クソッ、死ね、消えろ……っ!』」
無意識の内に、咄嗟に口からこぼれ出す心情を否定する暴言。
ベッドへと倒れ込み、顔を埋めた。シーツを巻き込んで拳を作る。
怒りと悲しみが目頭を熱くさせた。
だが同時に、冷静な一面が脳裏にちらつく。
「これは、誰の記憶だ?」
拳でベッドを殴りつけて膝を着き、元の人格である俺が分析を始める。
ノイズが掛かるように誰かの記憶が割り込んでくるが、
それを押し退けるように強く息を吐き、今の状況を俯瞰する。
「記憶は誰のだ……? 暴力に……『くそ』
それに動物か? 虐待を、している? 開いた鳥の臓物……『死ね』
土、口の中の感触……『やめろっ!』」
強烈なストレスが襲いかかり、背筋に汗が滲んで着ている服が張り付いた。
それでも暴れることなく抑えているのは、俺自身の自我のおかげか、
非力な身体のおかげか。
ただ、長く持つかどうかわからない。
頭にある記憶を振り返るほど、連鎖的にそれらを深く掘り起こし、
段々とリアリティのある体験として蘇る。
大声で喚き散らかしたい。が、こらえる。まだ大丈夫だ。だいじょうぶ……。
「あぐっ……!」
強く、俺は自分の腕を噛んだ。
発作的に。
おかしい、そんなことは望んでいない。
しかし妙に落ち着いた。噛み付いた腕を離し、歯形が付いた腕を見下ろす。
……ああ、俺は見落としていた。
前のおれは、そんなことしない人間だった。
身体にある痣やシミに、過剰に反応しない。
そもそも、性別が男から女になったこと自体が衝撃だ。
正直、顔や声だって可愛くて、綺麗だったんだから。
だからこそ、すでにある腕の自傷の痕など、
些細な問題で、気にも留めていなかった。
「おれは、こんなことをしていたのか?
いや、していない。人づてで、ネットで見聞きした程度で、
おれ自身がそんなことをした覚えは無い。だったらどうして……」
腕を噛む。
ほとんどそれは意図的では無く、無意識に。
ニュースやドラマ、ネット記事で見聞きした。
幼い子供が考え事や退屈さ、不安を紛らわすために、
爪を噛んだり毟ったりする。
この小さい身体は、おれのじゃない。
おれ以外に、誰かがいた身体だ。
――わたしのカラダは、だれのモノ?
心臓が跳ねた。
心臓を通る血がドッと不規則に鼓動を早め、堪らず胸を押さえる。
ひどい病気とかは無いと思っていたけど、違う。
わたしにはそんなわかりやすいものが宿っているわけじゃない。
別の誰かだ。
わたしの身体には、おれ以外の誰かがいる。
正体はわからない。
知らない記憶。覚えの無い癖。不可解な言動。
落ち着いて、冷静に記憶を手繰ろう。ここは、この場所は確か……。
トントン。
ノックの音。予想もしていなかったそれに全身が震え、
「ひゃいっ!」と上擦った声が漏れた。
「入るわよ」
凜とした女性の声。
こちらの返事を待たずに扉は開けられ、わたしは顔だけ振り返ると息を飲んだ。
白く質素な部屋では一際目立つ、黄金色の髪。
キャンバスに丁寧に描かれたのかと、見惚れてしまうほどに綺麗な髪を、
彼女は左右の側頭部で結い、ゆったりと肩で垂れ下げていた。
「あら、起きていたの。調子は……良くなさそうね」
入室した彼女はジトリとこちらの姿を一瞥し、
バツが悪そうにツインテールの結び目にある、
ゴシックなデザインのリボンを指でいじる。
「あ、あなたは?」
「……あら、面白い質問。あたしはクロエよ。クロエ・ラクロア」
お読みしていただき、ありがとうございましたm(_ _)m
本編では私があまりやらない、少し不器用な表現回しがありましたが、伝わっているのかどうか定かではないので、中々難しいものですね。
聞いた話では、物書きによっては思い描いた映像を文章として表現する人と、完成した文章がそのまま出力されて書き上げる人。
それに二極化しているそうですが、私はもっぱら前者ですので、表現に硬さが出てしまいますね。
筆が速い人は後者なので、精進しないといけない点です。
本編の完成している箇所は、物語の入りとなっているので、上手い具合に分けて投稿できればと考えています。
これからもどうぞよろしくお願いいたします。