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『因幡の白標準用字用例辞典』

作者: 成城速記部

 昔、因幡国の沖ノ島というところに、一冊の標準用字用例辞典が住んでいました。標準用字用例辞典は、一冊ぽっちでしたので、本土に渡りたいといつも思っていました。しかし、標準用字用例辞典は、泳ぐことができません。濡れてしまいますので。

 ある日、標準用字用例辞典が、本土のほうを眺めておりますと、大海原を一本のプレスマンが悠然と泳いでいました。標準用字用例辞典は、プレスマンに呼びかけます。

「おおい、プレスマン君、威風堂々たるものだね」

「誰かと思えば標準用字用例辞典君じゃないか。ひなたぼっことは優雅だね」

「何の何の。海の王者プレスマン君たちの泳ぎのほうが優雅だよ」

「海の王者かい。確かに海の中で、僕らにかなうものはあるまいね」

「そうともさ。さぞ、お仲間も多いのだろうね」

「確かに、数えたことはないけれど、赤いのやら青いのやら黄色いのやらを合わせると、結構な本数になるね」

「さすがは海の王者プレスマン君。実はさ、僕らは陸の王者と呼ばれているんだよ」

「へえ、そうかい。そいつは初耳だね」

「僕はこの島に一冊ぽっちだけれど、向こう岸に渡れば、それはもう、青い表紙のやつやら黄緑の表紙のやつやら、いろいろたくさんいるんだよ」

「そうなんだ。その話は今度またゆっくり聞かせてもらおうかな」

「ちょいと待った、プレスマン君。君の口ぶりだと、僕の言うことを信じていないね。海の王者プレスマン一族と、陸の王者標準用字用例辞典一族のどっちが繁栄を極めているのかを比べてみようじゃないか。プレスマン一族が上回ったら、標準用字用例辞典一族は、一族を上げてプレスマン一族に仕えよう。しかし標準用字用例辞典一族が上回ったら、プレスマン一族を上げて、標準用字用例辞典を陸の王者と認めてくれたまえ」

「いやいや失礼した。君たちの一族がどれだけ数が多いか、海から出られない僕らには、確認もできないし、確認できない以上、真偽のほどがわからないわけだから、半分に聞くしかなかったんだよ。気に触ったら許してくれたまえ」

「プレスマン君、僕はわびてほしいんじゃないよ。もう事態はそういう段階じゃなくなってしまったんだ。君たちプレスマン一族と、僕たち標準用字用例辞典一族のどちらが数が多いのか、雌雄を決しないとならないんだよ」

「そうかなあ。まあ、そういうことならそういうことでもいいけど、どうやって数えるんだい」

「そこだよ。君たちは海から出られないけど、僕は海には入れない。だから、君たち一族にずらっと並んでもらって、僕がその上を飛んで数を数えていくよ。向こう岸に着いたら、僕は、標準用字用例一族を集めて浜辺に並ばせるから、君たちが数を数えてくれ」

「なるほど。お互い、相手の数を数えるんだな。わかった。おおい、みんな集まれえ」

 プレスマンは、仲間を集めました。四方八方から、とんでもない数のプレスマンたちが集まってきました。いろんな色のプレスマンが集まってきたので、海が黒っぽく見えました。日本海ですから、割と毎日そうですけど。

 標準用字用例辞典は、笑い出したい気持ちでいっぱいでした。これから橋にされるのも知らず、きれいに同じ向きで横向きに並んでいるのです。しかも同じ色のプレスマンが同じところに集まってきて、虹の橋のようでした。黒エリアと白エリアを除いて。

 標準用字用例辞典は、プレスマンの背中を飛びながら、数を数え上げていきました。それに合わせて、数えられたプレスマンは、かちっと一回ノックしてくれて、とても楽しい気持ちになりました。最後の一本が、さっきのプレスマンでした。その最後の一本のプレスマンを跳ぶとき、標準用字用例辞典は言ってしまったのです。

「プレスマン君、おあいにくさま。君たちには僕の橋になってもらったんだよ。一族の数を比べるつもりなんか…」

 標準用字用例辞典が言い終わらないうちに、最後のプレスマンは標準用字用例辞典を刺しました。全てのプレスマンが集まってきて、次々と標準用字用例辞典を刺しました。後ろのキャップを外して消しゴムで字を消そうとするプレスマンもいましたが、さすがに消しゴムで印刷は消えませんでした。

 どのくらいの時間がたったでしょう。標準用字用例辞典は、各ページ穴だらけになって砂浜に倒れていました。ちぎれたページがなかったのが不思議なくらいです。あ、不思議ではありませんでした。プレスマンは刺すことはできても切ることはできないので、ページをちぎることはできないのです。

 そこへ、速記テキストの一冊目や二冊目たちが通りかかりました。多分、八十冊くらいの速記テキストが。

 八十冊くらいの速記テキストは、標準用字用例辞典に声をかけました。

「これ、大事ないか。何があったのじゃ。このままこんなところで寝ていてはいかんぞ」

 標準用字用例辞典は、ここまでのいきさつを話しました。

「なるほどそういうことか。ではな、海に入って砂浜に上がり、濡れたページを乾かすのじゃ。そうすれば、元の姿に戻れようぞ」

 八十冊くらいの速記テキストは、うそをつきました。いたずら心からくるうそです。しかし、標準用字用例辞典にとっては、致命的なうそでした。

 海水に浸かると、ページが破れそうになりました。砂浜に上がると、ページに変なよれができました。標準用字用例辞典は、明らかに、さっきまでより悪化してしまったのです。しかし、八十冊くらいの速記テキストは、もう立ち去った後でした。文句を言う相手もおらず、標準用字用例辞典は途方に暮れました。

 そのときです。一冊の速記マガジンが、通りかかりました。

「これ、どうしたのじゃ。随分傷んでおるな。ふむふむ、八十冊くらいの速記テキストが、なるほど。それは悪いことをした。それはわしの兄たちで、日本速記協会の蔵書にしてもらうため、旅をしておる途中だったのじゃが、緊張と退屈でいたずら心を起こしたのであろう。おわびのかわりに、わしが元に戻る方法を教えよう」

 標準用字用例辞典は、速記マガジンに教わったとおり、泉の水で体を洗い、何だかほわほわした草の穂綿にくるまってゆっくり乾かしますと、穴がきれいにふさがって、新品同様の標準用字用例辞典に戻りました。ただし、表紙だけは、塩がふいたのでしょうか、白っぽくなってしまいました。

「速記マガジン様、このたびは本当にありがとうございます。あなたのお兄様方は、ああいう心の持ち主ですから、決して、日本速記協会の蔵書になどおなりになれないでしょう。速記マガジン様こそ、日本速記協会の蔵書におなりになる方です」

 標準用字用例辞典からの感謝の言葉を背に、速記マガジンは、日本速記協会へ向かい、ようやく日本速記協会に到着すると、八十冊くらいの速記テキストが、ぷりぷり怒っています。どうやら、誰一人、日本速記協会の蔵書になるどころか、内容を読んでももらえなかったようです。

 すると、日本速記協会の扉が開きました。中から理事長…かどうかはわかりませんが、人があらわれ、

「日本速記協会蔵書になるべき方が到着されました」

と言うと、速記マガジンを手に取り、仲むつまじくエレベーターで4階に上がっていったのでした。



教訓:標準用字用例辞典は、日本速記協会が発行しているので、最初から蔵書である。

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