第六話
神崎忍という少年は私と同じ、美術部の大先輩であることが判明した。
先ほどのやり取りを見ていた、野上さんとゆかりのある定年間近の守衛・吉村には感謝をしなければならない。
彼は私とアイに野上さんのこと、神崎忍のことを話してくれた。
神崎忍はいつもクラスの中心で笑顔の耐えない子だった。ひょうきんな性格であったため、野上さんにはよく叱られることもあったが、同時に我が子のように可愛がられてもいた。
そんな神崎忍をある水泳の授業の日、悲劇が襲った。
私も知らなかったが、10年前まで我が学校では水泳の授業があったらしい。神崎を襲った事故が理由で、以後授業はなくなりプールも取り壊されたのだ。
その授業の担当が他でもない野上さんであった。
神崎は50メートルのタイム測定中、意識を失い心肺停止状態となってしまったのだ。
この事故は野上の管理不足により起きたのかというと、そう言うわけではない。
元々神崎は水泳の得意な生徒であった。彼は遊泳中、突如として原因不明の不整脈状態に陥ってしまったのだ。
当時、野上は様子がおかしいのをすぐさま察知し、救助・心肺蘇生措置と出来る限りの最善を尽くした。しかし、目が覚めることはなかった。
救急車で大病院へ搬送された神崎忍は、最先端の医療でどうにか心肺機能は蘇生したが、それから10年に渡り昏睡状態であるという。
明日ふと目が覚めるかもしれないし、死ぬまで目は覚めないかもしれない。仮に目を覚ましたとしても、もとの生活をおくれる可能性は限りなく低い。そんな状態が10年間続いたのだ。
野上さんは救急車で運ばれていく神崎をみながら自分が許せなかった。
そして彼は辞表を出した。
この出来事が10年たった今でも、彼の心を縛り続けている。
「統之介はなんで学校に来たのかな?」
守衛室でお茶と煎餅を摂食しながら聞いていたアイは話が一段落すると口を開いた。
「さあ、それは分からないけど。私の40年の守衛生活であの人以上の教師を見たことがないよ」
「よし、決めた」
何を決めたのだこの女は。
「統之介をもう一度、忍に合わせる」
この女はいつも唐突に、きまぐれで行動をするが、今回ばかりはこの提案に賛同出来た。
これは彼女と過ごす時間を重ねたことにより、私の性格が彼女に近づいて来ているのでは断じてない。
◇
私とアイは神崎邸の前に来ていた。この個人情報保護のうるさい現代において、いかにして住居を特定したかは定年間近の守衛を気遣い私とアイの秘密とする。
40年も学校の安全のために勤めてきたのに、万が一にも退職金が出ないような事態になっては、末代まで恨まれそうだ。
「で、アイさん」
「ん?」
「何かいいアイディアはありますか?」
「説得する」
と、アイはインターホンを押した。いつもながら信じられない行動だ。
家にまで訪ねたのだから、インターホンを押さなければ来た意味はないと言われれば確かではあるが、それにしてもアイは決断が早く。図太い。もう少し作戦を練ってからでも遅くはないだろうに。
夜の繁華街に出没する似合わないサングラスをかけたチンピラよりもよっぽど肝が据わっているのではないだろうかと時折考えてしまう。
だが、今はこんな下らないことを考えている場合ではない。
そもそもあの野上さんの土下座での言葉に、全く情を動かされていない面立ちであった神崎婦人がそう簡単に説得に応じるとは思えない。
しかし、もう押してしまった以上は仕方があるまい。大船に乗ったつもりで、相見えようではないか。
もっとも私の下には沈没しかけの泥舟の幻覚が広がっている。
インターホンに応じ玄関から顔を出したのは予想に反し神崎婦人ではなかった。
50歳前後の男性だ。
「君たちはもしかして、中北高校の」
制服を見て彼はいった。
「はじめまして。突然の訪問申し訳ありません。僕は……」
私の丁寧な挨拶をアイは遮った。
「ちょっと忍くんに合わせたい人がいるんだけど」
本当に信じられない行動をする。
その後の私の丁寧な弁明により、どうにか私たちは客人として神崎邸の居間に通され、ことのあらましを伝えた。
そして意外にも私の不安は杞憂で終わった。
彼は野上さんを忍に合わせることを快く思っているようだ。
説明が前後してしまったが、彼とは神崎忍の父で名を圭介さんと言う。幸か不幸か、神崎婦人はまだ帰ってきていないらしい。
「そうか、野上先生が……」
「統之介を知ってるの?」
「当然だよ。かくいう僕もあの人の授業で育ってきた人間だからね」
話を聞いた限り、「もう訪ねないでくれ」という決めごとは、野上さんと神崎婦人の間でのみ行われたようだ。
「野上先生が、忍さんに会いたがっているのですが」
「もちろん歓迎するよ」
絶望的だった予想とは裏腹に話が上手く進みそうなのは幸運であった。が、まだもう一つ大きな壁がある。
「だけど、奥さんは……」
「家内には僕の方から言っておく。出来れば、家内のいない日に来てもらったほうがいいかな」
「分かりました。ありがとうございます」
私は柄にもなく頭を深めに下げた。
「家内も本当は分かっているんだ。あの人が悪くないことを……」
「え? なにか」
「いや、なんでもないよ。じゃあよろしくね」
去り際に圭介さんがごく小さな声で言った言葉を聞こえないふりをした。
私には神崎婦人の気持ちが痛いほどにわかってしまうからだ。
◇
野上さんは肺を患っていた。それとこの度学校に姿を表したことの因果関係は本人にしかわからない。
わかることは残された時間はそう長くはないということだけだ。
翌日の放課後、私とアイは野上さんにアポイントが取れたことを伝えるべく病院を訪ねていた。
聞けばもう半年も病院での生活らしい。学校で出会ったときも無断で出歩いていたとのことだ。当然、厳重注意だ。
親切な看護師は知り合いだと言うとここまでは教えてくれた。
しかし、病状については何も教えてはくれなかった。きっと、親族以外へは無断で話してはいけない規則でもあるのだろう。
そんな状態の野上さんを外に連れ出すのは少々気が引けるが、今回の場合はお医者さんが許さなくても、神様がいたとしたらきっと許してくれるだろう。そう願いたい。
なにより、神崎忍に一目会うことが彼自身の最後の願いなのである。
自己正当化をしながら野中老人の病室をノックする。
中からは返事が帰って来ない。私はなんとなく胸騒ぎがし、一度声をかけた後、返事を待たずに無断で扉を開けた。
野上さんは大量の血を吐いて、ベッドに臥していた。
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