第五話
アイが学校に通うようになり三日が経った。
学校での勉強は基本的に不得意のようだ。特に家庭科と数学は壊滅的状況であった。
家庭科の裁縫をやらせると絆創膏の数が3枚増え、料理を作らせると辛いシフォンケーキが出来あがった。もはや芸術的といって言い。
数学に至っては、二次関数という言葉を聞くと眠りについてしまう。
アイの名誉のために多少擁護しておくと、今まで算数すらまともに勉強してこなかったものに、いきなり関数を理解しろと言うのは生後3ヶ月の赤ん坊が100メートルを11秒で走ることに等しいほど不可能な話だ。
が、そんなことは数学教師からしてみたらなんら関係のない話であるし、理解しようと努めることすらやめてしまっては教えがいなどあったものではない。
彼女は100メートルをスタートすることすら放棄して、今日も眠りについているのであった。時折本当にどうして学校に通っているのだろうという疑問をぶつけたくなる。
反面アイにも得意科目はある。体育だ。
それこそ100メートルを11秒台で走れるほど、身体能力は高い。
運動全般が得意なようで、いくつもの体育系の部活からオファーがかかっている。
しかし、なぜか私と一緒の美術部に所属している。
正確には入部届は提出していないので、無断で美術室に潜り込み、無断で美術室の紙や粘土を使い工作活動をしている部外者ということになる。
アイが体育系の部活にでも入部してくれれば、少しは私の心身の負担も軽減されるのではないか、という希望的観測をしない訳ではないが、叶わぬ夢である。
そんなことを考えながら今日も彼女と共に美術室に向かうべく、廊下を歩いている。
美術室は教室から遠く離れた我が中北高校の旧校舎にある。
戦前からある旧校舎はいたるところにガタが来ているが、今夏にようやく特殊教室棟として立て直されることが決まった。もう少しの辛抱である。それまで贅沢は言うまい。
「あれ? あの人なにやってるんだろう」
ようやく旧校舎に着こうかというとき、隣を歩いていたアイが歩みをとめる。
アイの視線を追うと白髪の老人がたっていた。校舎を眺めるようにして立っているので、嫌でも目の前を横切らなければならない。接触は免れないだろう。
私も初めてみる人物であった。校内で部外者に出会うことはそう多くない。記憶上、授業参観の時か、せいぜい設備の点検にきた業者くらいであったと思う。
最近では旧校舎の立て直しのための業者も時折見るが、彼は明らかにそのいずれとも異なる。
そのうえ、老人は見たところ、一般的な企業の定年の年齢はゆうに越えている。なかなかに不審だ。
「君たちは、ここの生徒かな?」
「あ、はい」
老人は背を向けて立っていたが、振り返らずとも私たちの存在には気付いていたようだ。
「申し遅れたね。私は、野上統之助。10年ほど前まで、ここで教師をしていたものだよ」
老人はこちらに向き直りながら、自己紹介をした。
私の不審感はようやく拭えた。過去の教師だから、校門付近に常駐している守衛にも止められずに敷地内に入ってこられたというわけか。
あの定年目前の守衛が、日頃役に立っているのかという、かねてよりあった私の中の疑問を心の中で詫びた。
「進藤と言います。こっちは友人のアイです」
「こんにちは。何してるの?」
敬語を使わないアイに、少しは歳上の人間を敬えと咎めようかと思ったが、こいつの方が何百歳も歳上だったことを思い出し、私は出掛かった訴えを飲み込んだ。
「ここが取り壊されるときいて、少しだけもう一度見てみたくなってね」
10年前というと、現在主として使われている新校舎はまだ出来ていなかった頃だ。この旧校舎で教本を握っていたのだろう。学校の歴史を覗き見しているような感慨深さを感じる。
「君たちこそ、こんな所で何をしているんだい? いまだとたまにしか使われていないと聞いたけど」
「部活です。僕は美術部なんです」
無断で部活に参加しているアイへのせめてもの抵抗として、「僕は」というところを少し強調していった。
「ほう、美術室か……懐かしいな」
「美術室も見て行けば?」
退屈そうにしていたアイがあくびをしながら口をはさんで来た。
「いいのかい? 邪魔にならないかい?」
「大丈夫大丈夫。どうせいつも誰もいないし」
授業終わりから完全下校時間である18時までの間、美術室の使用権利を持つのは我が美術部である。
美術部員であるか否かどころか、本当にうちの生徒であるかすら疑わしい存在であるこの女には当然その権利はない。
にもかかわらず、無断で室内にあげようとは実に横暴な奴だ。せめて隣にいる私に一言くらい許可をとってくれてもよいではないか。
「ええ、元々教師だった方なら問題ないと思いますよ」
不満を抱えつつもアイの意見を補完した。
◇
美術室の扉を開くと、案の定中には誰もいなかった。
キャンバスの前に腰掛ける私の横でアイは粘土をこねていた。少々飽きやすい性格のようで、絵を少し描いては粘土を。粘土に飽きたら今度は謎の工作をして部活動の時間を過ごしているようだ。
今は昨日私が購入したリンゴを粘土で表現しようとしている。
美術部の活動のため、ということで買ってやった品であったが粘土をこねながらたまに唾を飲む音が聞こえてくるのが恐ろしい。まさか単に食べたかっただけではあるまいな。
そもそも何故この女は律儀に美術部に顔を出しているのだろう。一時のことだと考えていたが思ったより長く続いている。暇なら恵まれた身体能力を活かし運動部に貢献すればいいのに。
野上さんは教室内を歩き回り、時折窓の外の景色を懐かしむように眺めたりしていた。
「ありがとう。進藤くん。アイくん。本当に懐かしいよ」
「いえ。野上さんは美術の教師だったのですか?」
「いや、私は体育教師だったよ」
なるほど、高齢なのに体格がいいと思ったら元体育教師であったか。比べるまでもなく、私より10センチ以上背が高いのは分かっていたが、最初に遠くから見た背中は何故だか小さく見えた。姿勢の問題であろうか。
しばらく時間が経った頃、野上さんは言った。
「さて、私はそろそろ帰るとするよ」
時刻はいつのまにか17時半を回っていた。
「あ、なら僕たちも」
アイもすでにリンゴを平らげ、少々眠そうにしていた。丁度言いタイミングであったので、私たちも野上さんと共に帰ることとした。
三人で校門まで行き守衛室の前を横切るとき、中から声がかかった。
「あ、野上先生。また」
案の定二人は知り合いであったようだ。野上さんは守衛に会釈をした後、こちらにも軽く頭を下げてきた。
「では、ありがとう二人とも」
「野上さん。またよければ」
「いや、私にはもう来る権利はないよ。最後に一目だけ、昔に戻れてよかった」
「そうですか……」
とっさに出した提案はすぐに却下されてしまった。私は野上さんが学校にまた来たがっているように感じた。
「野上先生?」
簡単な挨拶をすませ、野上さんと別れようというときに後ろから女性の声がかかった。
振り返ると声の主は、声色から推測した通りの見慣れない50歳前後の女性であった。買い物帰りか。スーパーのレジ袋を持っている。
野上さんの知り合いであるのは確かなようだが、今日は知らない人によく会う日だ。
「神崎さん……お久しぶりです」
「お久しぶりです」
女性の顔を見たとき、野上さんを包み込む空気が少し変わった気がした。
と、次の瞬間彼は今この場が道路であることを全く気にせずに、深々と土下座をした。
「神崎さんお願いします! もう一度、もう一度だけ忍に会わせてください!」
「今更あの子に会ってどうするつもりですか? それにもう二度と顔を見せないでと頼みましたよね」
「手前勝手なお願いであることはわかっています。しかし、このままでは私は…… ゴホッ!」
野上さんが途中で大きく咳き込む。
「大丈夫か! 統之介!」
アイがとっさに間に入った。私とアイにははっきりと見えた。口を押さえた野上さんの手が血で汚れているのを。
神崎、と呼ばれる女は非情にも続ける。
「あなたの自己満足でこれ以上私たちを苦しめないでください」
神崎は咳音が鳴り響くなか、その場を立ち去った。
「統之介……」
アイが不安そうに話しかける。
しばらく待った後、咳が少し落ち着くとようやく野上さんは口をひらいた。
「悪かったね。変なところを見せてしまって……」
「救急車をよんだ方が」
野上さんは私の問いかけには答えずに続けた。
「私の昔の教え子の母親でね。私が、幸せを奪ってしまった家族だよ」
それ以上は何も話してくれなかった。
今日出会ったばかりの私が、気軽に触れていい領域ではないと本能的に感じた。
彼は私とアイにもう一度お礼を言い、静かにそこを立ち去った。やはりその背中は小さく見える。
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