第四話
おそらく今日平穏な学生生活というものが少し壊れた。
私は高校ではなるべく目立たないように生きてきた。人間みな無駄なトラブルや、下手なことで反感を買うのは出来る限り避けたいのが性である。
例えば、深夜の繁華街でアルコールの過剰摂取により今にも嘔吐しそうな人を見つけた場合、まず7割の人は避けて通るのではないだろうか。残りの心優しい3割でも、万が一自分に不利益が被ることを予想出来たら、ほとんどの人は介抱をしないのでは。
私は言わずもがな最初に避ける7割の人間である。
アイのルックスは悪くない。普段の惰眠を貪るような生活を知らなければ、世の男性のうち好意的に思う人間は少なくはないだろう。
もしそんな転校生と同棲している男子生徒がいたら、それは話題の中心となることは想像に難くない。その男子生徒とはもちろん私のことであり、同棲していることがクラス中にバレたのも言うまでもないかと。
バレたというより正確には、アイが皆に暴露したと言った方が正しい。
そもそも何故アイが健全なる学び舎で、私と供に学問に励んでいるのかは少し話をさかのぼらなければならない。さかのぼったところで、彼女の気まぐれとしか言いようがないが。
◇
本当に気まぐれなのだろう。アイがどこからか引きずり出してきた漫画の一冊に、学校をテーマにしたものがあった。
それを読んで高校に通ってみたいと考えたのだろう。制服を着てはしゃいでる姿を目の当たりにすると、そんなことは容易に推測出来た。
現にリビングにはその漫画が乱雑に置かれていた。しかし、あれは学校内に大量のゾンビが現れる内容だったと思ったが、そんな漫画を読んで学校に通ってみたいと思うアイの感性は信じがたい。
「その制服どうやって手に入れた?」
「もらった」
鏡の前でモデルのようにポーズを決めているアイは私の問いかけを酷く適当に返した。
「お前……それどうするつもりだよ」
私は恐る恐る聞いた。9割9分9厘私が最も恐れる答えが帰ってくることは分かりきっていたが、残り1厘の望みにかけて。薄氷を履むどころか薄氷に5メートルの高さから飛び込むような心持ちで。
「明日から、学校行く!」
現実は非情である。
◇
そんなこんなで私は昨夜、『学校内でのお約束講義』なるものをアイに対し眠気をこらえながら開くことを余儀なくされたのだが、今日の活躍ぶりをみる限り、あまり意味はなかったようだ。
なかなか成績の上がらない生徒に教える塾講師の気持ちというものはこんな感じなのだろうか。
しかし、よりにもよって『学校内でのお約束講義』パンドラの箱を初日から一歩も躊躇せず開いていったのはさすがと言うべきか。
そして同棲がバレた。というか、そもそもあんな身分不明のアイがどうやって都立高校に入学したのだろうか。
恐らく何かしら力を使ったのだろう。普通の人間には到底出来ないことを平然とやってのけるあたり、やはり異能の存在であることを改めて認識させられる。
そこに憧れることは断じてないが。
今は帰りのホームルームの最中だが、何故だか隣の小林を始めとした数人からの視線が痛いように感じる。時折かすかに「裏切りもの」という声が聞こえてくるのも気のせいではないだろう。
なんという風評被害であろうか。
アイは別に私の恋人でもないし、仮に恋人であったとしても、私は小林くんと高校三年間の純潔を約束した覚えはない。そして可能であれば、この少女を引き取ってもらいたいくらいだ。
今日は部活動のある日だ。目を背けたい現実からの逃避を兼ねて創作活動に精を出したい。
私は鐘がなった瞬間、脱兎のごとく教室を飛び出し美術室へと向かった。
部活動とは言ったものの、我が校の美術部は堅苦しい上下関係もなければ、人によっては煩わしいと感じる親睦会といった類も一切ない。
気が向いたら部室に行き、偶然顔を会わせた部員との会話に花を咲かせることもなく、各々が好きに創作活動をするのだ。部室内でのコミュニケーションと言えば軽い会釈程度のものだ。
華々しい部活動ライフを目的としている多くの新入生にとっては、いささかストイック過ぎる環境であることは重々承知しているが、今更そこが変わることは間違ってもない。
なにより私を含む残された数名の部員は皆、今のこの部活環境を気にいっているのだ。
そのため新規の部員が入ることもなく、まことしやかに廃部の噂をささやく声が日に日に大きくなってきている。
私は絵を描くことが好きだ。故に美術部に所属している。特に今日のような精神的に苦悩を極めた日には落ち着いた空間で、ゆっくりと絵を描くのは素晴らしいことではないか。
そんな私にとって、美術部員という合法的に美術室の備品を借り受けることが出来る立場がなくなるのは困る。せめて卒業するまでは部が存続してくれることを切に願う。
今日も先客が一人いればいい方である美術室兼部室の扉を開く。しかしそこにはなぜかアイがいた。
「准、遅いぞ!」
まるで悪い夢でも見ているような気分だ。
話はそれるが、この少女は私の名前が判明するや否や、姓ではなく名で呼ぶようになっていた。そして私も福原というあからさまなふざけた偽名を呼ぶ気になれず、学校でもアイと呼ぶことにした。
それが一層、今日の誤解に繋がったようにも思う。本来であれば校内では姓で呼ぶように矯正するべきだとは思うが、今更そんな提案をする気力もない。
「なにしてんの?」
「何って部活でしょ。一度やってみたかったんだよね」
アイはどこで用意したか、ベレー帽を被りながら筆を構えている。なかなか様になっているように見えなくもないが技術は全く追いついていない。画用紙の上のミミズのような物体が、彼女の手により一匹ずつ、領地を拡大していっている。
絵を描いてある間はどうやら一時的におとなしくしているようなので、私は今が好機とばかりに芸術活動に身を投じることにした。
キャンバスを持ち、花が生けられた花瓶を前に腰を下ろすと、アイが話しかけてきた。
この女はどうやら、5分と静かにしていることは出来ないらしい。
「ミヤコワスレ?」
私は少し驚いた。花に詳しいアイというのは、今までの印象と少々食い違うからである。ミヤコワスレの姿を知るものが多くとも、名前と一致させるのはそこそこ草花に関心がある証拠だ。
「そうだけど、知ってるの?」
「うん。うちにもあるでしょ」
うちとは言うまでもなく我が家のことだ。
「花が好きなのか?」
「好きだよ。特にそれは」
まさか私とアイの一番好きな花が被るとは思ってもいなかった。なんとなく昼間の精神的苦痛が、少し軽減された気がした。
ふと花瓶に目を戻すと、薄い紫色のミヤコワスレがいつもよりも華やかに見えた。
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