エピローグⅡ(その7)
「それは!」
それは絶対誰かに見られてはいけないもの。39歳の私の誕生日に光夜がプレゼントしてくれた記入済みの婚姻届だった。それを光夜にもらって自宅に持ち帰ったあと、私は自分が書くべき欄も全部記載しておいた。二人の証人欄も光夜の方で探して書いてもらってあった。そのまま役場に提出できる形に仕上がっていた。
「小百合さん、あなたと光夜が結婚を前提に交際していたことはもちろん知ってます。だからこういうものが過去に存在していても驚かない。でもおれと結婚しておれとの子どもが三人も生まれたあともこれを捨てなかったのはどういうわけですか? おれと結婚はしたけど、まだ恋人は光夜のままなんですか? あなたはこれをおれに見つからないように封筒に入れて、子供部屋の本棚と天井のあいだの隙間にそれを隠した。まだ幼かった仁美が脚立を上ってこんなものを見つけたと言っておれにそれを差し出してきたときのおれの絶望をあなたは想像できますか? 不貞行為がなくたってこれは立派な不倫なんじゃないんですか?」
娘たちや光夜夫妻の目を気にしてる場合ではないと悟った。言い訳できることが何一つないから、私はその場で土下座して流星に謝罪した。
「けして許されないことをしました。なんでも言うことを聞きます。どんな罰でも受けるので、あなたや娘たちのそばにこれからもいさせて下さい」
「初めて会ったときからあなたはおれの憧れでした。あなたのそんな姿をおれは見たくなかったですよ」
私は流星の優しさに甘えていたのだと思う。流星と交際を始めたとき、
〈主幹はまだ光夜を愛していて、これから少しずつおれのことを好きになってくれるんですよね。それでいいです〉
と彼は言ってくれたが、これは結婚後も光夜を愛していてもいいという免罪符を私に与えたものではない。当たり前のことなのに私はどうして思い違いをしてしまったのだろう?
光夜を忘れようとしたが、忘れられなかった。実際に肌を触れ合ったわけではないし、心の中で思い続けるくらいのことはきっと許されると思い込んでしまった。流星の反応を見て今やっと思い知った。私のしたことは軽い気持ちで数回体の関係を持ってしまうことよりよほど許されないことだったと――
「お父さんと光夜先生の問題だと思ってた。まさか昔お母さんと光夜先生が恋人同士だったなんて……」
放心状態になった和泉に妹たちが噛みついた。
「今さら何を取り乱してるのさ? お姉ちゃんが掻き回してくれたせいで離婚の危機じゃん! どうしてくれるの? お父さんとお母さんが離婚したら、私はどっちについてけばいいの?」
「離婚したら私はお父さんについてくよ。お父さんとは結婚しただけで、本当に好きな人は別の男だなんて、そんなふざけた人といっしょにいたくない。少なくとも二度とお母さんなんて呼びたくない!」
咲彩の罵倒を聞きながら死んで許されるなら自殺しようと顔を地面にこすりつけながら考えていた。
「相思相愛だったって知ってうれしかった? 今までずっとあなたを縛りつけていてごめんなさい。私と離婚して小百合さんといっしょになってもいいよ」
「詩、君まで何を言い出すんだ? 僕は何もやましいことなんて――」
「だから証拠があると言ってるのに。あなたは結婚後結婚指輪を左手に、これを右手にはめていた。何のリングだろうとずっと思ってた」
もしかしてと思って顔を上げて詩の手元を見た。やはりそれは私がプレゼントしたピンクゴールドのペアリングだった。
「悪いと思ったけど、あなたに薬を飲ませて眠らせてからリングを外して見てみた。リングの内側に〈to Koya from Sayuri〉って刻んであったのを見て私は涙が枯れるまで泣いた。それからリングが見つからなくてずっと探してたよね? ごめんなさい。私がずっと持ってました。でももう持っていたくないのであなたに返します」
詩からリングを受け取るなり、光夜も詩の前で土下座した。並んで立つ流星と詩の前で並んで土下座する私たち。仁美が私の両手を手に取って何かをチェックした。
「よかった。お母さんはさっきのリングしてないよ」
でもごまかしきれない相手が私の目の前でしゃがんで催促してきた。
「ペンダントを渡して下さい」
私はそれをお守りだと言って、服で隠して見えないように身につけていた。さっき何でも言うことを聞きますと言ったばかりだ。素直にペンダントを首から外して流星に手渡した。チェーンの先にキラリと光るペンダントトップはピンクゴールドのペアリング。咲彩が流星の手から引ったくってリングの内側の文字列を読み上げた。
「to Sayuri from Koya」
「お母さん!」
断末魔のような和泉の絶叫が響き渡る。終わったと思った。私は再び顔を地面にこすりつけた。
「おれが出ていきますよ。あの家はあなたが買ったものですからね。慰謝料はいりません。あなたとの結婚生活、おれにとっては最高に幸せでしたから」
「そんなこと言わないで! あなたは何も悪くない。私がどうかしていたんです。お願いだから私を捨てないで!」
私は立ち去ろうとする流星の足元に必死にすがりついた。振り返った流星が泣いていたことまでは覚えている――




