なぜ彼女は
緊急事態です。
そう言って立ち上がった桐花は、迷うことなく取り残された弟くんの元へと向かった。
「おい、桐花!」
今まで見つからないように慎重に行動してきた。その全てを無駄にするような迂闊な行動に思わず声を上げるが、桐花は構わず弟くんに近寄り声をかけた。
「大丈夫ですか?」
「え?」
「さっきゲーセンで会った者です。すみません、同じ喫茶店にいたので先程のやりとりを見てしまいまして」
「あ、はい。そうですか」
突然現れた桐花にやや驚きながらも弟くんの反応は鈍い。上の空というか、まだ状況がうまく飲み込めていないのか呆然としている。
「あー、ごめんな。弟……違った、みの……えー彼氏くん」
もうここまできたら俺も腹を括る。今日ストーキングしていた事実を隠しつつ情報を聞き出すしかない。
「えっと、どうしたんですか?」
「いやな、こいつが言った通りたまたま同じ喫茶店に君達がいたからちょっとだけ見てたんだ。そしたら急に彼女さんの方がどっか行っちまったから、どうしたんだろうって気になってな」
「ええ、ですから彼氏さん。私たちに何があったのか話してくれませんか?」
かなり苦しい言い訳をしているのはわかっている。普通に考えてゲーセンでちょっと話しただけの人間がこうやって話かけてきて、その上何があったのか教えてくれだなんて怪しすぎる。
だが弟くんはまともな判断ができる状態ではなかった。ともすればフラれたと考えられる先程のやりとりがよほどショックだったのか、俺たちを疑うことなくポツポツと話し始めた。
「わからないです。何が起きたのか、本当に」
その声は気の毒に思えるほど弱々しかった。
「今日初デートで。もう今日は終わりにしようか、楽しかったね、なんて話してたのに。いきなりで」
なんで。
そんな言葉にならないほど小さな呟きが漏れる。
「平さん……えっと彼女です。平睦月さんは先週、5月末が誕生日で、僕プレゼント用意してたんです。それをさっき渡そうとしたら、平さん……ごめんなさいって」
口にしてやっとこの状況が現実だと実感し始めてきたのか、弟くんは声を震わせる。
「あー、何か喧嘩したとかは?」
先程のやりとりを見ていたからそんなはずないとわかっていながら、可能性のありそうな理由を質問する。
当然、弟君は首を横に振る。
「喧嘩なんてそんな……でも、僕が何か知らないうちに平さんを怒らせていたのかも」
自信なさげに俯いた。
そんな弟くんの言葉を桐花が否定した。
「いえ、そんなはずありません。怒って出て行ったのなら去り際のセリフがごめんなさいはおかしいです。それにさっきこの店から出て行く彼女さんの顔を見ましたが、泣いているように見えました」
「平さんが、泣いて?」
状況がますますわからなくなる。
今日一日彼らを見てきたが、本当に楽しそうだったのだ。
理想的なデートだったんだと思う。デートなんてしたことのない俺ですらそう思えた。
「どうやらただならぬ事情がありそうです。彼氏さん、よかったら彼女さんのことを詳しく教えてくれませんか?」
「え?」
「こいつは高校で探偵まがいのことをやってんだ。彼女がなんであんな風に出ていったのか、こいつならわかるかも知れねえ」
どうだ?
そう問いかけると弟くんは少し悩んだ後頷き、話し始めた。
「平さんは中学の同級生です。でもクラスが違うから最近まで平さんのことを知らなかったんですけど……」
「付き合ったきっかけは?」
「僕がやってるSNSのフォロワーが偶然平さんだったんです。それで向こうから話しかけてくれて。元々SNSでよく話す仲だったので、すぐ仲良くなれて、それで、その、お付き合いすることに」
少し恥ずかしそうな弟くん。
ごめんな。その話姉ちゃんに聞いててもう知ってんだ。
そんなそぶりをおくびにも出さず、桐花はさらに情報を引き出そうとする。
「SNSですか、よかったらどのアカウントか教えてくれませんか?」
「はい。別に鍵アカウントにもしてませんし」
弟くんから聞いたアカウントを桐花はスマホに打ち込み始める。
「……お前、SNSとかやってたんだな」
「自分から何か呟いたりとかはしませんけどね。情報収集用です……っと、ありました」
桐花の手元を覗き込めば、秋野実と本名が書かれたアカウントと多数のつぶやきがあった。
「話題のほとんどがミステリー小説の感想がほとんどですね。フォロワーも多い」
「元々好きなミステリー小説の感想を誰かに見てほしいと思って始めたんです。最初はクラスメイトのフォロワーしかいなかったんですけど、今はミステリー好きが集まって色々感想を言い合う場になってます」
「なかなかそれは面白そうな……」
ミステリー好きの血が騒いだのか桐花の目が怪しく光ったが、今はそれどころではないと言わんばかりに首を振る。
「彼氏さんのつぶやきに毎回真っ先に反応してくれている方がいますね」
「はい。そのポアロさんというアカウントが平さんだったんです」
「彼女さんの方は実名じゃないんですね」
「ええ、前に聞いたらネットと現実は完全に分けてるって。同じ中学の同級生だなんて知りませんでした。そもそも僕ポアロさんは男性だと思っていましたよ」
桐花はそのポアロさんのアカウントページに向かい、最近のつぶやきをチェックし始める。
『最近の図書館の充実具合は素晴らしい。昔の名作から話題の新作まであらゆるミステリーがそろってる』
『実家の本棚がとうとう埋まった。新しいものを買わなければ』
『叙述トリックは個人的に好きだけど、アクロイド殺しの衝撃を超える作品は今後も生まれないと思う』
『ホームズに憧れて彼の悪癖を真似してみたけど、結局推理力は上がらなかった。やはり生まれ持った才能か』
『古典ミステリー好きを公言しているけど、最近のミステリーも結構読む。ただそれが映像化された時に変に改変するのはやめてほしい』
「ミステリーの話題ばっかだな」
知らない単語がちょいちょい出てくる。
「ええ、自分の身元がバレるようつぶやきはほぼありません。唯一プライベートな話題といえばーー」
ページをスクロールし、1週間ほど前の一つのつぶやきに注目する。
『今日、両親に誕生日プレゼントでシャーロックホームズの原語版をもらった。前々から欲しかったけど手が出せなかったのでとても嬉しい』
そんなつぶやきと共に、英語で書かれたハードカバーが複数写った写真が挙げられていた。
「そのつぶやきを見て、平さんに誕生日プレゼントを渡そうと思ったんです」
「彼女さんは誕生日プレゼントの件は知らなかったんですか?」
「ええ。サプライズのつもりだったので」
そう言って弟くんは机の上に置かれたままのプレゼントを悲しげに見る。
ふと、嫌な仮説が頭に浮かんだ。
「なあ、彼女さんがそのアクセサリーが気に入らなかったから出て行ったって可能性はないか?」
「……彼女さんが出て行った時、まだ袋を開けてもいませんでしたよ?」
「いやだからさ、袋にブランドのロゴが書かれてるだろ? そのブランドがめちゃくちゃ嫌いで、そんなのプレゼントされてカッとなって出て行ったとかさ」
「まさかそんなこと。いや、人には好みがあるし……可能性はなくないのでしょうか……」
桐花は顔を顰めながらも、俺の仮説を完全には否定しなかった。
そんな桐花の様子を見て弟くんは自嘲気味に笑った。
「ダメですね、僕。背伸びしてサプライズをしようとして失敗するなんて。やっぱり僕はシャーロックホームズにはなれませんね」
「ホームズ?」
「前に平さん言ってたんです。シャーロックホームズみたいに紳士的な完璧超人が理想的だって。僕は彼女の理想には程遠い存在なんです」
「そんなこと……」
泣きそうな表情を浮かべながら悲しげに笑う弟くんになんて声をかけていいのかわからなかった。
「……ちょっと待ってください。彼女さんがそんなことを言ったのですか?」
「はい。あれは確かお付き合いする前だっと思うんですけど」
「そんな……まさか!」
目の色を変えた桐花は、スマホを操作してSNSの書き込みを恐ろしい速度で読み込んでいく。
「き、桐花。何かわかったのか?
彼女のこの反応は見覚えがある。
俺が声をかけると、桐花はふうとため息をつき、顔を上げた。
「わかりました。なぜ彼女が去ったのか。あのごめんなさいの意味が」
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