042. 生きてください
イラリアはバルトロメオに何度も刺され、たくさんの血を流して死んでしまった。ボロボロになった体の傷は私の拙い魔法でも癒やせたけれど、失われた血は戻らなかった。間に合わなかった。
人間は皆、血中魔素が尽きると死ぬ。
病気になった時や怪我をした時、過度なストレスがかかったときには、体内で自動的に魔素を消費して、それらを癒そうとする力がはたらく。
その自己修復で病や怪我が治れば、消費した魔素は心臓から作り出されるぶんで、いずれ補われる。慢性的な病だとしても、重篤でなければ自然と調和がとれるようになる。
人が死ぬのは、どんなに自己修復しても、追いつかなくなった時。心臓の中にある魔素までも使い果たして、心臓が止まったとき。イラリアも他の人間同様、魔素を使い果たして死んだ。
普通の人よりも著しく多くの魔素を体内に保有しているのが、いわゆる聖女や勇者である。彼らは自らの意思で魔素を魔力に変換して魔法を発現させることができ、また、自己修復のための魔素の消費を自らの意思で抑えることもできる。
イラリアは、おそらく自己修復を抑えて、ただでさえ血を失って減りつつあった魔素を、すべて私の傷を癒やすことに使ってくれてしまった。彼女が魔法をかけてくれていなければ、私が死んでいた可能性は高い。
バルトロメオが、クーデターなんて起こさなければ。私があの時、油断せずに、イラリアを助けにいこうとする前に、バルトロメオを殺していれば。
バルトロメオが私を殺そうとしなければ。イラリアが私を庇わなければ。イラリアが魔法なんて使わなければ。私がもっとちゃんと魔法を使えたら。
そうしたら、イラリアは、今も生きていたかもしれないのに。
死体は放っておけば朽ちてしまう。私は癒やしの魔法と薬を駆使して、慎重に遺体を管理して、どうにか彼女が壊れないようにしていた。
イラリアを目覚めさせるには、彼女の心臓がもう一度動くようにすればいい。
私は学院の薬学実験室や彼女の私室にあったホムンクルス研究の資料を、ごっそりと拝借した。私が二度目の人生で調べたこと――先人たちの「死者の復活」を目指した研究のことも参考に、彼女の研究を応用すれば、本当に死者を蘇らせることもできるはずだ。信じている。
昨年の誕生日に国王陛下からお手紙をいただいた通りに、私は学院卒業を機に、かつて母が持っていた侯爵領地をいただいた。家名は新しく〝リスノワーリュ〟というものをいただき、幼い頃に私に協力的だった女たちを含む何人かの使用人も、王城から引き抜いていただいた。
イラリアの死体とドラコと一緒に、私はリスノワーリュ侯爵領の屋敷に引きこもりはじめた。大学院は一年間の休学手続きを取った。
彼女を蘇らせるための研究に励むとともに、使用人たちと一緒にドラコの子育てもする。そういう生活を始めた。
卒業パーティーから一ヶ月ほどが経った日のこと、私は牢屋に面会に来ていた。
投獄されているのは、ハイエレクタム伯爵――今では爵位を剥奪されたので、元伯爵――である父と、バルトロメオだ。
バルトロメオがクーデターを計画したきっかけは、私への暴行の後の謹慎生活中に、王太子の座を異母兄弟である第二王子殿下に移されるかもしれないという話を聞いたことだったらしい。すでにおかしかった彼は、自分の地位が脅かされることを知ったために、さらにおかしくなった。
過去にイラリアとの婚約を認めてもらえなかったことへの恨みもあったのだろう、彼は筋違いにも国王陛下と王妃殿下を恨み、おふたりを殺して国を乗っ取ることを思いついた。そこで彼はイラリアの父であり野心家でもあるハイエレクタム伯爵に声を掛け、彼と一緒に計画を進めたのだ。
あの魔獣遣いの民たちには、自分が国を乗っとれたら、彼らの独立を支援すると約束したらしい。そこで話に出されたのが、イラリアだ。聖女の力を持つ彼女を王妃にするつもりだから、そうなればベガリュタル国は盤石。支援も手厚くできると、交渉の際に伝えたのだとか。世界的に認められる聖女の価値は魔獣遣いたちにも響き、彼らはバルトロメオに協力することにした。
そうして起きたのが、あの卒業パーティーでのクーデターだったのだ。
父とバルトロメオに下される処分が決まり、今日は私が彼らと話せる最後の日だった。だから重い腰を上げ、彼らに会いに来た。
ドラコの世話は使用人に任せているが、私が家を出る時は寂しそうにしていたので、帰ったらいっぱい遊んでやろうと思う。
「……父さま」
「お前か」
久しぶりにまともに見る父は、見る影もないくらいにやつれていた。私が知っていた、一番の臣下として国王陛下から厚く信頼されていた、公爵だった頃とは程遠い姿だ。
かつてと比べると覇気のない目で、彼は私を睨みつけた。私は冷たい声で、彼に問いかける。
「父さまは……なぜ、こんなに私を嫌うのですか。幼き頃にも毒を盛り、子を生めない体にし、また私を亡き者にしようとしたのは、なぜですか」
「お前が、あの女の子どもだからだ。俺はあの女が大嫌いだった」
「なぜ、母をそんなにも嫌うのですか。政略結婚だったからですか。……最後なので、教えてください」
母が父に殺された証拠は、私が信頼していた下女によって、国王陛下の御前に上げられた。私は父があんなことをした理由を、今までしっかりとは知らなかった。父は私を睨みつけたまま、唾を飛ばしながら語りはじめる。
「ああ、教えてやろう。陛下に言われて仕方なく妻にしたが、あの女と来たら面倒くさいことこのうえない! 俺が仕事の息抜きに行く娼館にも文句を言い、『私だけを愛してくれないなら死んでやる』などとぬかしてナイフを振り回したりな! 頭のおかしい女だったんだ。
そんな女の血をひくお前が子どもを生むなど、許せるはずがなかった。だから奪ったんだ! あの女の子どもがこれ以上増えるのも嫌だったし、俺はカミラと幸せになりたかった。だからあいつを殺した。愛を知らぬお前には、わからないだろう。あの女に疲弊させられていた俺を、カミラがどれだけ癒やしてくれたか! 彼女は今どうしている?!」
私の前では凛としていた母だったけれど、夫である彼の前では違ったらしい。現国王陛下以外のきょうだいから蔑ろにされていた母は、きっと愛に飢えていたのだ。だから彼に依存したのだ。
なんにせよ、私を害し、母とそのお腹の子を殺した父を、許せる日は絶対に来ないけれど。母に何か原因があったとしても、彼女を殺した父の方が悪い。
私が直接父に手をかけて復讐することは、結局できないままだった。母の仇を自らの手で討つことはできなかった。でも、もうそれでも良いと思う。
母のことは愛していたけれど、父に復讐したって、どうにもならない。
比べられる愛ではないけれど、今の私が愛している人のために、これから私は生きていきたいと思った。イラリアが復讐を望まないから、私は復讐をしない。
代わりに、天国にいる母が喜んで笑ってくれるくらい、幸せになってやるのだ。そのために、私はイラリアを蘇らせる。
「カミラ夫人は、今は娼館におります」
私は、カミラ夫人が現在どうしているかを告げる。教えなくても良かったのだが、最後の慈悲として、伝えておいてやろうと思った。
私の言葉に、父は数秒間ポカンという顔になったあと、憤怒の形相へと様変わりした。
「は……? 貴様、カミラを売ったのか!?」
「いいえ、違います。彼女が希望しました。イラリアの母親ですし、リスノワーリュ侯爵領で養おうかとも私は申し上げたのです。ですが彼女は、娘が目覚めず、夫も帰ってこないなら、わざわざ血の繋がりのない継子である私と一緒に暮らすのは嫌だとおっしゃいました。
愛してくれる男がいないと、彼女は駄目になってしまうのでしょうね。高官たちを客とするような、しっかりとした高級娼館に行かせました。良い熟女を揃えていると評判のところなので、それ目当てで来るお客様と、楽しく過ごしているかと思いますよ。彼女から預かった手紙を持ってきたので、どうかお読みください。……あと、お言葉ですが。私は愛を知っておりますわ」
私はカミラ夫人から託された手紙を鉄格子の隙間から向こうへと入れ、父の牢屋の前を後にした。
次いで、隣の牢屋にいるバルトロメオの前に立つ。
彼もすっかりとやつれていて、かつての麗しさはこれっぽっちも残っていなかった。
淀んだ黄緑色の瞳がこちらに向くが、私が見えているのかはわからない。彼はずっとイラリアの幻覚を見ているようだと、看守から聞いているから。
「こんにちは、バルトロメオ殿下」
「……」
「貴方の愛するイラリアのことは、私が幸せにしてみせますわ。どうかご安心ください」
「……」
バルトロメオは返事をしない。無視をしているのか、聞こえていないのか。
どうせ返事は来ないだろうと思いながら、私は呟く。
「遠い昔の、ことですが。私は、貴方をお慕いしていた頃が、ありました。こんなことになって、残念でなりません」
私は今は、イラリアを愛しているけれど。
もし何かが違っていたら、私と彼が結ばれることもあったのだろうか。私でなくとも、イラリアが彼と結ばれる未来もあったのだろうか。
彼女も死なず、私も死なずに、みんなが幸せになれる世界は、どこかにあったのだろうか。
恋は人を狂わせる。
私がバルトロメオ殿下に抱いた淡い恋心は、嫉妬と憎悪を募らせてイラリアを殺し、私自身も破滅させた。
バルトロメオがイラリアに抱いた恋心は、嫉妬に燃えて私を殺し、イラリアが私に抱いた重い恋心は、私を追うように彼女自身を死に至らしめた。
これらは単に、それだけの因果関係の死とは言い切れないだろう。私たちの恋心は複雑に絡み合って、いつも誰かを殺したのだ。
今度は、誰の命も落とさせやしない。
けれど、私とイラリアを殺そうとした恋心には、消えていただく。母を殺した恋心にも、消滅することを言い渡す。
彼らに下される処分。これは国王陛下が何人もの官僚と話し合いをなさって、私の意見もお聞きくださったうえで、決められたことだ。
この国で――重要かつ危険な人体実験の被験体になることは、刑罰の一種にあたる。
「殿下が王立研究所に開発させていた、忘却の薬。それを明日の日没後、おふたりに服用させることが決まりました」
私は父にも聞こえるように、高らかに告げる。
彼らに下されるのは、死刑判決ではない。死んで罪を償わせても良かったのだが、今回は別の形の罰を与えることとなった。
「おふたりには、今までのすべてを忘れていただきます。誰かを愛した思い出も、誰かを殺そうとした罪深い心も、何もかも。そして遠い島で、労働に励んでください。畑を耕し、作物を育て、鉱山で金属や宝石を採掘して。人の役に立つ人に、おなりください。……それが、今の貴方たちに下される罰です」
忘却の薬によって罪悪感を失うことはいただけないが、彼らが罪を犯したのは、これで二度目。反省する心がないなら、罪悪感がなくなっても、そう大きな違いにはならない。
愛した人のことも、大事なこともすべて忘れる。同じ企みをし、罪を繰り返そうとする心も消す。ただ人のために生きる人になる。
人のために励めば、神様もきっと、罪を犯した彼らへの怒りを多少は鎮めてくださるだろう。
「次の春までにイラリアが目覚めず、彼女の遺体が埋葬され――それから先の世界で、神の怒りらしき天災がこの国を襲ったならば。おふたりは聖女殺しの罪を贖うべく〝明星の贄〟にされます。イラリアが目覚めれば、死刑にはなりません。……どうか、その命の灯火が燃え尽きる日まで。必死に、全力で、生きてください」
私は深く、淑女の礼をして、ここから立ち去ろうとした。しかし数歩歩いたところで「オフィーリア」と私を呼ぶ声が聞こえ、立ち止まる。バルトロメオの声だった。
彼のことは、もう振り返らない。私は彼に背を向けたまま答える。
「なんですか、バルトロメオ殿下」
「髪が、また伸びたな」
「ええ、そうですね」
「そなたの髪を、美しいと思っていた。色の話ではなく……美しくあろうとするそなたの心が、見えるようで」
「……そうですか」
バルトロメオ殿下が私のことを褒めてくれたのは、これが初めてだった。
こんな男の言葉に、なぜか目頭が熱くなる。いまさら言われたって、何でもないのに。彼の得意な嘘かもしれないのに。最後まで嫌なやつだ。最後まで悪いやつだ。
今の私は、彼をまったく愛していない。でも、そうだ。過去の私は、一度目の私は。
こんな言葉が、欲しかったんだ。
「貴方をお慕いしていた頃の私が聞いたら、どんなに喜んだことでしょう。でも、生憎と。今の私には、髪以外も褒めてくれる人がいます。私の何もかもすべてを愛そうとしてくれる、愛しい人がいます。彼女の言葉の方が、何百倍も私を嬉しくさせられるのです。
ただ、ありがとうございます。とは言っておきますわ。……さようなら。バルトロメオ殿下。父さまも、さようなら。おふたりとも、私のことを忘れても、どうかお元気で」
私は、そう言って牢屋から出た。バルトロメオの声は聞こえない。父が泣きわめく声は、遠くに聞こえる。
早く家に帰って、ドラコと遊んでやろう。今日は、めいいっぱい遊んでやろう。夜に彼を寝かしつけてから、また研究をしよう。イラリアを、目覚めさせるために。
私は、足早に馬車へと乗り込んだ。
やっぱり終わりというのは、悲しいものなのだ。声を殺して、私は泣いた。
翌日、無事に彼らには、忘却の薬を与えられたと聞いた。彼らはすべてを忘れて、孤島へと連れて行かれた。
そうして私と彼らとの関係は、完全に終わった。もう彼らは私のことを知らない、赤の他人となったのだ。
あの牢屋での会話も、覚えているのは私だけ。そんな、過去になった。




