10.朝の光と虚しい抵抗
朝の光はとても残酷で、全ての人間に公平に降り注ぐ。それはずっと部屋の中で頭を悩ませていた秦にも届く。
一睡もできないままリビングに降りると、慶太は目を覚ましていた。足元には大きな旅行鞄が置かれている。
秦は何も言えず、慶太と少し離れた椅子に座る。
「その様子じゃあ、眠れなかったようだな」
目の下に隈を作った秦を見て慶太はいう。秦は何も答えない。
「嫌でも寝ておくべきだ。これから色々とやることがある」
慶太の小言が癪に障るが、秦は何も言わずに部屋の片隅を見つめる。
しばらく沈黙が続く。外からは鳥のさえずりが響く。
「本当だったら、みんな起きて、朝食の準備をしていたな……」
俯いた慶太がボソリと呟く。
昨日からこのリビングに響くあの楽しげな声はない。
「なぜだろう、今日はなんだか喋りたい。昨日の事なのに、瑠璃さんが居たのがどこか遠くに感じるんだ」
顔を上げ、遠い目で天井を見つめて慶太がいう。
秦は足元のフローリングを見つめ、口を開く。
「もう、俺達は出ていくんだぞ」
秦がそういうと、今度は慶太が黙った。
「俺達は、失敗したんだ」
それは昨日からずっと胸の中で響く言葉。自分を責め立て続ける呪いの言葉。
秦の言葉を最後に、二人は会話をなくした。健太も起きてくることはなく、登校時間を過ぎても降りてくる気配はなかった。
― ― ― ―
時刻は9時を過ぎた頃。
さくらえんの寮の前に一台の黒いファミリーカーが止まった。窓から覗くと運転席にはサングラスを掛けた裕子が乗っている。相変わらず顔にはでかい絆創膏が張られていた。
裕子が降り、玄関まで歩く。その様子を見た慶太と秦も鞄を持ち上げ、玄関へ歩く。
玄関のチャイムが鳴るのと同時に、慶太が玄関のドアを開ける。
「おはようございます。もう、準備は出来ていますか?」
いつもの抑揚のない裕子の声が玄関に響く。秦にとって、まるで死刑執行人の声に聞こえた。慶太は黙って頷く。
「波喜名様は?」
裕子の問いかけに顔を斜め下に向け、少し間を空けて黙って頷いた。
「わかりました。その他の荷物は私の方にお任せください」
そう告げると裕子は踵を返し、エンジンの掛かったままの車へと歩いて行く。
慶太と秦は鞄を持ち、裕子の後を追うように車へ向かう。
後ろのハッチバックに荷物を載せていると、不意に視線を感じ、寮の二階に目をやる。
そこは秦と慶太の部屋の窓で、こちらを見つめて立ち尽くしている健太の姿があった。秦は何もできず、無視するかのように視線を逸らした。
「では、出発します。よろしいでしょうか?」
裕子の問いかけに二人は黙って頷き、後部座席に乗り込んだ。
車はハザードを消し、ゆっくりと進み出す。
住宅街の角を曲がり、ゆっくりと大通りへと入って行く。通りにはまばらだがに人がおり、これからパート先に向かう人たちだろう、少し急ぎ気味である主婦などが見えた。
ふと、よく瑠璃と買い物に行っていたスーパーの前を通り過ぎる。
たった一か月間の中で、数回しか訪れなかった場所だが、秦の中では鮮明に覚えている。今では、それすらも見るだけで心が痛む。
「現在、警察の捜査はまだ公開しておりません。英造さまが掛け合ったようです。それと学校の方へは私が連絡しております。」
運転席で裕子がいう。後部座席の二人は返事もしなかった。
やがて車は大通りを過ぎ、桜陽島の橋を渡る。桜陽島を囲う日本海は何も変わらず、白波を浮かべて岸へと寄せている。
裕子の車は橋を渡り、新潟空港に向かう為に左折していく。
― ― ― ―
しばらく走り、襲撃のあった旧道を結ぶ交差点に差し掛かった
慶太が襲撃のあった旧道を鋭く睨む。だが、そんな光景もあっという間に通り過ぎた。
秦からだと、慶太の横顔しか見えないが、その目は怒りに満ちているのがわかる。そうだ。自分だけではない。慶太だって悔しいのだ。
また同じような光景が車窓から流れる。もうこの景色は見れないのだろうか?秦の胸の中で後悔と憎悪のような怒りが渦巻く。
― ― ― ―
やがて遠くに新潟空港が見え始めた。
秦の中で焦りが生まれる。このままでいいのか…?そんな考えが頭の中を埋め尽くす。
裕子の車はロータリーを通り過ぎ、初めて来たときと同様に関係者専用のゲートへと進む。
秦の鼓動が早まる。このまま黙って帰りたくない。その焦燥で手に汗が滲む。
寝不足気味の思考の中で、秦は考える。このまま終わりたくない。絶対に、諦めない。
車は裕子が手配したであろうプライベートジェット機の横に付けられた。小型のジェット飛行機で、よく海外のセレブが自家用で購入するような大きさのものだ。タラップは既に降ろされている。
ジェット機の横に停車すると裕子はエンジンを停止し、運転席を降りるなり後部座席を開ける。慶太が降り、続いて秦も降りる。
慶太はハッチバックを開け、自分の荷物を持ち、さっさとジェット機に歩いて行く。
荷物を持ち上げ、晴れ渡った青空を見上げる。そういえば、初めて来たときもこんな空だった。隣には瑠璃がいた。秦はいない瑠璃の姿を思い出す。
だめだ。
そう思った瞬間に鞄を置き、秦は立ち止まった。
先にタラップへ向かう慶太と裕子が気付き、秦に振り返る。
「俺は……行けない」
秦が呟く。
「今更何を言ってる?もう、遅いんだ」
「このまま、何もしないまま、帰れない」
降ろした手で拳を作り、力を込めて震わせる。
慶太がうんざりした顔を浮かべ、自分の荷物をタラップに置く。
「否が応でも連れて行く。来い」
慶太がゆっくりと近寄る。その歩き方から力づくでも連れて行くことに秦は気付き、すぐに構えた。拳を胸の前に上げ、戦闘態勢に入る。慶太は両手を下げたまま歩き続ける。
間合いに入った瞬間、秦が手刀を突き出す。が、慶太は素早い足さばきで秦の手刀を回避する。
慶太はそのまま懐まで飛び込むと、秦の両足の間に自分の右足を入れ、襟首を掴んで地面に倒す。
寝不足で身体全体の神経が鈍っている秦はあっさり慶太に伸された。加減されたとはいえ、秦はすぐに体勢を立て直せなかった。
すぐに秦の首に腕が回され、力いっぱい締め付けられる。
「悪く思うな、秦」
慶太の渾身の力で気道が潰され、情けない声と共に肺の中の空気がなくなっていく。
薄れていく意識の中で悪態を吐く。
(くそ、嫌だ。俺は絶対に瑠璃ちゃんを……)
数秒という時間で、あっという間に秦は意識を失った。