6.瑠璃という少女
4/25 大幅な加筆を行いました。
一週間後。
片側五車線のハイウェイを二台のSUVが走る。黒塗りのボディに防弾製で遮光用の黒いガラス張りが、ただの車でない事は分かる。
車内には二人の女性が居た。運転席には八木裕子。後部座席には少女が座る。歳は十七歳。大きなシートに居心地が悪いのか、時折身体を動かす。その度に衣擦れの音と肩まで伸びた黒い髪がさらさらと靡く。
「裕子さん……いえ、八木さん」
少女の大きな瞳が動き、ルームミラー越しに裕子を見据える。
「なんでしょう、お嬢様」
「八木さんは、施設の人ではないん……ですね」
「今まで身分を偽っていて申し訳ありません。これも全てはお嬢様の為なのです」
そう述べる裕子からはあまり悪びれた様子は感じられない。
「お父さんの言いつけ、ですか?」
とげのある言葉を吐く。裕子はそれを否定するように声音を張る。
「いえ、英造様の考えは御懸命です。あなたの今後は、この私と志摩がお世話致します。それと護衛者を付ける事に致しました」
「そうなると……私の生活は…」
「ご心配には要りません。今まで通り送って頂きます。ですが、今まで通りにという訳にはいきません」
戸惑う少女に裕子は言葉を継ぐ。
「あなたは、谷田凪瑠璃という新たな名前になります。公的書類に関しては既に手配しております。そして、谷田凪グループの一族となります」
谷田凪瑠璃。彼女の新しい名前だ。
瑠璃はひと月前まで小泉という苗字で日本の孤児院で暮らしていた。両親は既に他界していると聞かされ、自分と同じような境遇の妹分と弟分の三人で生活している。
目の前にいる八木裕子はその施設の世話係の人間だった。五年前、瑠璃が十二歳の頃に来た女性だ。口数は少ないが分け隔てなく接してくれるので、瑠璃は自分の姉のように頼っていた。
ひと月前。春休みに入る直前で心地よく晴れの日に施設に見慣れない人間が訪ねてきた。彼らは孤児院の支援企業であるヤダナギコーポレーショングループの社員と名乗り、瑠璃が代表取締役である谷田凪英造の隠し子であり、養子として迎えたいという趣旨を説明してきた。当然であるが、突拍子のない話に瑠璃は困惑した。
そして二週間前。瑠璃は英造の招待を受けてアメリカを訪ねた。
淡い期待と不安を胸に旅行バッグを持ち、九時間近いフライトと時差ボケに疲れたが、手配されたホテルで一晩休んだ翌日には裕子の車に乗せられて英造が住む家へと向かった。
英造の暮らす家は大きな街の郊外にある裕福な層が暮らす住宅街にあり、家々には立派な白い塀にこれまたガーデニングが行き届いた立派な大きな庭があり、テレビで見るようなセレブたちが優雅に過ごしていた。施設でおさがりの服を着回したり、食事を分担して作っている瑠璃には程遠い世界だった。
裕子が運転する車はその中でも厳重なセキリュティを構えた大きな家の前で停車した。トラックが突っ込んでもびくともしなさそうな門に、腰にガンホルスターをぶら下げた屈強なガードマンが門の前に直立不動している。
ガードマンがゆっくりと運転席に近寄り、窓を開けた裕子と英語で一言二言喋るとガードマンは頷いて車からゆっくりと離れた。一秒ほどの間が空いて重々しい門が自動で開くと、車はレンガの敷き詰められた邸内へと進む。
綺麗にガーデニングされた庭を横目にしながら、清潔感があって豪華な作りの玄関の前に車が回ると、玄関の前では二人のメイドが出迎えた。停車した車の後部ドアを開けてくれた。急に自分が担ぎ上げられたような気分で落ち着かなかった。
メイドに案内されてたいそう立派な玄関を通り抜けて家の中を案内される。視界に飛び込んでくるのはホテルのような広いホール。馴染みのないホールを歩き、柔らかなカーペットの上を歩き、価値のわからない絵画が掲げられた廊下を抜けていくと一枚の扉の前に辿り着く。メイドは二回ノックし、扉を開けると瑠璃に入るように促す。
踏み込んだ部屋は書斎と応接間が兼ね備えられたような部屋で、手前には柔らかそうなカジュアルなソファと背の低いテーブルが置かれ、奥には対照的に大きな書斎机があった。書斎机には椅子に座っていてもわかる程の少し背の低い、綺麗なカジュアルスーツを着た中年の日本人男性がこちらを見ている。年の瀬からしておおよそ五十代手前か四十後半ぐらい。少し険しい顔つきとポマードで固めた髪が風格を現しているようだ。
中年の男の隣には瑠璃と同年代の女の子と中年の女が居た。こちらを見る二人の顔は英造以上に険しかった。睨み付けるかのような瞳からは、憎悪に近い禍々しさを感じる。二人の目力に瑠璃はたじろきそうになった時だった。
「久しぶり……。いや、初めまして、かな」
険しい顔付きの男は頬を少し緩ませて言う。”久しぶり”そんな言葉を使うのだから、この男が私の父なのだろう。瑠璃はどぎまぎしながら唇をゆっくりと開く。
「あ、初めまして……。おとう……さん」
緊張から籠りがちな声音が喉から出る。『おとうさん』という言葉に、英造の隣に立つ少女の視線が更にきつくなるのが分かった。なんとなくだが目元や頬付きなどが自分に似ていると感じた瑠璃は、彼女が英造と隣にいる中年女性との間に生まれた実子などだと推測した。
「久しぶりに会ったのだ、少し話をしたい。二人とも、少しの間外してくれないか?」
英造は隣の二人に言う。促された二人はコツコツとカーペットのひかれた床に音を立てて、瑠璃の横を通り抜ける。少女に至っては瑠璃の横を通り抜ける一瞬、足を止めて英造と瑠璃を交互に睨み付けて出ていく。瑠璃は居心地の悪さを感じる。
英造は二人が出ていくのを確認すると、書斎机から立ち上がって「座りなさい」と手前のソファに手を差し出して促す。このあたりから瑠璃の期待していた想いは消え、不安ばかりが胸の中を支配していた。
一見して良質で柔らかなソファにぎこちない動きで座ると、英造も対面に腰掛ける。その振る舞いからも、自分とは遠い世界の人間に感じた。
「瑠璃、突然の事で色々と君に迷惑をかけた。本当に申し訳ない。君には長いこと辛い思いをさせたね」
謝罪する英造。初めて会う瑠璃にとって、違和感を覚えずにはいられなかった。
「なぜ、謝るんですか?」
英造からの返事はない。穏やかな表情を浮かべているが、その瞳は安心しているようには感じない。その正体はわからないが、瑠璃は続ける。
「あなたが、私の父で……間違いないのですね」
瑠璃の問いに黙って頷く。父に使うべき言葉ではないはずなのに、どうして私はこんな言葉を使っているのだろう?、と自問しながら自ら言葉を継ぐ。
「久しぶり、と言うことは以前にもお会いしたことが?」
「まだお前が随分と小さかった頃だ。きっと覚えていないだろう」
瑠璃が物心ついたのは十一歳と遅かった。その時から両親の記憶はない。それ以前の記憶はどう頭を巡らせてみても断片的な写真のように一瞬しか見えなく、すぐに消えてしまう。瑠璃は英造の言葉に頷いた。
「そうだろう。そして本題に入りたいのだが……。瑠璃、聞いてはいるだろうがお前を養子として迎えようと思う」
瑠璃は再度黙ってゆっくりと頭を小さく振る。だが素直に受け入れるには疑問が多すぎる。そんな瑠璃の胸中を察したのか、また口を開いた。
「だがお前も十七歳だ。すでに向こうでの生活もある。急にこちらに来てもかわいそうだ。お前の望むようにしなさい」
“一緒に暮らそう”。そんな台詞を予想していた瑠璃には意外だった。この人は本当に私の父親なのだろうか? 妙な猜疑心が働く。
返事をせずに父の顔を見遣る。谷田凪英造。大手企業の社長。突然、父親と名乗り出てきた。そして、ただ父というだけで一緒に暮らそうとも言わない。何故、私はここに呼ばれたのだろう? 意図も、理由もわからない。
「お父さんは……私がこれまでどんな生活をしてきたか、聞かれないんですか?」
「お前の生活は裕子君から聞いている。どうやら園ではリーダーシップを発揮しているようだ」
「裕子さんから?」
首を傾げる瑠璃。
「そうだ。裕子君はうちの社員だからね。聞いていないのか? 裕子君にはずっと前からお前の世話を頼んでいたのだよ」
瑠璃は複雑な気持ちになった。つまり、裕子さんは父の命令で私のそばにいた。考えるだけで裕子に裏切られた気分になる。気を取り直し、平静を装う。
「なるほど。それで、私はこの家に……」
「お前が望むなら、ここで暮らせばいい。何一つ不自由はさせないつもりだ」
するとドアをノックする音が部屋に響いた。英造の返事もないままドアが開き、先ほどの中年の女性が現れる。
「失礼致します。あなた、もう会議に行く時間です」
ふぅ、と息を吐き、英造は「わかった」と静かに返事すると立ち上がる。
「瑠璃、今日はここまでのようだ。また返事を聞かせて欲しい」
父との再会は僅か十分にも満たない時間で終わった。呆気なさすぎる。もう少し引き伸ばせないものかと、口を開こうとした時。
「さぁ、あなたも出なさい」
女性の少しキツイ声音に促され、瑠璃は少し開いた唇を一度閉じ、「それでは失礼します」と告げて渋々部屋を後にした。部屋を出ると、女性は早く出ろと言わんばかりの冷たい視線を送りつけてくる。瑠璃は不快に思いながらも、何も言えずにその場を後にした。
廊下を出て、広い玄関ホールまで辿り着く。ふと、妙な視線を感じて頭上へ視線を向ける。ホールの上は吹き抜けになっており、二階のホールと連なっていた。その二階ホールの柵には先ほどの少女が居た。
目が合った瞬間に思わず瑠璃はたじろく。少女は先ほど以上に憎しみを交えた鋭い視線でこちらを見下ろしていた。眉間まで皺を寄せ、まるで“二度と来るな”と言いたげな顔だ。瑠璃はすぐに顔を下ろし、見なかった事にして足早にホールを抜けて、メイドが開けておいてくれた玄関を通り抜けた。
瑠璃の心の中はぐしゃぐしゃだった。本当はもっと聞きたい事がたくさんあった。聞いて欲しいことがたくさんあったはずなのに……。色んな思いが錯綜する。ただ一つ分かることは、瑠璃はあの家で決して歓迎されることはないということだ。
瑠璃が出てくるなり、車の横で待機していた裕子が後部座席のドアを開けてくれたが、瑠璃は顔を合わせるどころから、礼も言わずに後部座席に滑りこむ。
裕子が運転席に乗り込み、静かに走り出す。瑠璃は家を出るまで、決して顔を伏せ、しばらく顔を上げることはなかった。とにかく一刻も早く離れたかった。裕子が何も言葉を掛けてこなかったことが唯一の救いだ。
父の家が完全に見えなくなったのを確認した瑠璃は声を押し殺し、悔しさと悲しさと寂しさが入り混じった涙を流した。
自分は置かれた状況が分からない。自分が想像していた家族とは違うし、父も本当の父親なのかわからない。まるでみんなして自分をからかっているような気分だった。
そして一週間後、瑠璃は裕子を通して英造の誘いを断ったのだ。