11.淡い夢と現実
瑠璃は足音を立てない様にそっと廊下を歩き、自分の部屋に戻っていく。音を立てないように気を付けて扉を閉め、扉に背中をもたれて俯く。
少しして背を離し、机の前まで歩くと引き出しを開ける。
ノートの下に隠しているようにしまった一枚の古びた写真を取り出す。写真には海を背景に若い女性が赤ん坊を抱えて微笑んでいる。瑠璃の母親だ。
そのまま後ろに下がり、ベッドに腰掛け、倒れるように背中を預ける。掛け布団の上に後ろ髪がばさりと広がる。
「お母さん……」
寂しくなったり、何か悩んだとき、瑠璃はいつも母の写真を見る。
答えの出ない悩みに悩まされた時、いつだって母の写真が励みになっていた。裏をめくると、鉛筆で『L』とだけ書かれている。
瑠璃は母の記憶がない。物心がついたのは12歳と遅い時だ。それよりも前は何も覚えてない。
ベッドの上で腰掛けて考え、そして思い出そうとする。だが、いくら頭を回しても、何も思い出せない上に瑠璃の中に渦巻く答えのない悩みは止まらない。
こういうとき、瑠璃は日記を書く。それは日記というよりは母へ宛てた手紙にも近い。
瑠璃はベッドから立ち上がり、机に向かう。
机の引き出しを開けると、そこにはもう何冊にもなった日記用のノートが溜っている。一番上の日記を開き、そしてペンを握って走らせる。
『お母さんへ。
お父さんにも会ってきたよ。そして、お父さんの新しい家族にも。
初めて会ったお父さんは正直に言えば実感が湧きません。
向こうのお母さんとその娘さんにも会いました。こっちはもっとひどいです。いきなり睨まれました。
それとこのさくらえんに新しい仲間が二人も増えました。
波喜名秦くんに横山慶太くん。
秦くんは私と同い年の17歳で、慶太くんは15歳です。
秦くんは今どきの同年代の男の子で、慶太くんは年下なのにすっごくしっかり者で頭もいいです。
そして彼らはなんと私のボディーガードなんです』
書き始めるとスラスラと書ける。瑠璃はその調子でシャープペンシルを走らせる。
『色んな事情があって、私はなぜか追われる身です。もちろん、悪いことなんてしてません。
お父さんが大企業の社長だからだそうで……。
アメリカでお父さんに会った後、悪い奴らに襲われました。
でも、秦くんと慶太くんのお陰で助かりました。たのもしい二人です。
そして今日、さくらえんの寮で美咲と健ちゃんとも顔合わせをしました。
まだギクシャクしてるけど、いつも見たいに打ち解けられるようにしていきます。
これからも大変なことが起こりそうです。
私もこれから……』
思わずそこでペンが止まる。言葉が出て来ない。『これから』なんて、この数日間で価値観が変わってしまった。
「私は、どうしたらいいのかな……?」
散々悩み、思い浮かばない言葉に疲れて瑠璃は机の上に突っ伏して呟く。
横を見ると母の写真。
「お母さん、本当は聞きたい事も、相談したい事も、たくさんあるんだよ……」
たった一週間そこらで瑠璃の世界はがらんと変わってしまった。
簡単に命が奪い、奪われる様を見せつけられ、人のむき出しになった欲望の怖さを知った。
そして、自分の身が狙われる理由も未だに明確ではない。
怖い。
こうして一人で考えるのも、一人でいるのも怖い。でも、誰に縋ればいいのか分からない。
瑠璃の瞳から一筋の涙が零れる。
(このままじゃいけない)
涙を手の甲で拭い、途中だったノートになげやりに『頑張ります』と書きなぐった。
そう、私はこの寮の最年長なんだ。つまり寮長でもある。弱気になっちゃいけないんだ。いつだって前を向かなきゃ。
自分をそう奮い立たせ、引き出しの中にノートを放り込み、写真もしまった。
そのまま部屋の電気を消し、ベッドに寝転がると無理矢理眠りについた。
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翌朝、誰かが廊下を歩く音で目が覚めた。
寝ぼけ眼で枕元の目覚まし時計を見る。時刻は5時ほどだ。瑠璃がいつも起きる時間の一時間は早い。
目覚めきらぬままの身体を無理に起こし、あくびをしながら部屋のドアを開ける。
階段を降りていく紺色のジャージに身を包んだ秦の後ろ姿が一瞬見えた。冷える廊下の空気に身を震わせながら、おぼつかない足取りでその後を追う。
階段の上からそっと覗くと、秦はランニングシューズを履き、そのまま外へ出ていく。瑠璃もそのまま階段を降りていく。
階段を降り切るとリビングに明かりが灯っているのに気付いた。玄関を一瞥したあと、目をこすりながらリビングの扉を開ける。
リビングにはダイニングチェアに腰掛け、見慣れない携帯端末を操作する慶太がいた。
「おはよう慶太くん」
「おはようございます、瑠璃様」
淡々とした声で挨拶する慶太。リビングには暖房がかかっており、それがかなり早くに起床していた事がわかる。
「勝手ではありますが、暖房をつけさせて頂きました」
「ううん、大丈夫。それよりも、二人とも朝早いね…」
瑠璃はリビングの窓から外を覗く。遠くの方で、朝の陽ざしもまだ登りきらぬ道路に走る姿が見える。間違いなく秦だろう。
「これが日課であり、私たちの仕事ですから」
「そうなんだ……。あ、温かいお茶淹れるね」
瑠璃は台所へ進む。慶太は「お気遣い、ありがとうございます」と返す。
蛇口を捻り、やかんに水を入れてコンロに火をつける。その間に慶太を見る。見慣れない機械だ。ケータイ電話にも似ているが、どこか違う。
しばらく凝視していると、視線に気付いた慶太がこちらに目を向ける。
「慶太くん、それは……」
「これは八木さんから渡された非常用の端末です。平たく言えば、防犯ブザーのようなものです」
慶太がその端末を見せる。手のひら程サイズの端末で、真っ黒な画面に数個のボタンしかついていない。
「へぇー」
「もし、何か緊急の問題が起きた時に、八木さんに連絡がいくようになっているようです。それと、瑠璃様にも携帯して頂く端末もございます。これは……」
「慶太くん」
慶太の言葉をつい遮ってしまう。慶太が瑠璃に目をやる。その視線はどこか鋭く、思わず委縮してしまう。
「あ、ごめんね。その……『様』はやめて、ほしいなぁって……」
そういわれた慶太はゴホン、と咳払いして「これは失礼しました」という。その返事はどこか不機嫌だ。
「それでですね、瑠璃さんに持っていただきたい端末の方には私と秦に連絡がいくようになっております」
さん、という部分を強調して続ける。それがどこか嫌味にも聞こえた。きっと他の誰かが聴いたら嫌な思いをするだろうが、瑠璃はなぜか不快にはなれなかった。
「そうなんだ。わかった」
瑠璃がそう返すと、慶太はそれ以上なにも言わなかった。
やかんのお湯が沸騰するまで、無言が続いた。空気が重い、どこか嫌な沈黙。