0.焦り
第二章・プロローグです。
アメリカ・とあるホテルの一室。
真っ白な壁紙に綺麗にベッドメイキングされたその部屋で男は電話越しに唸った。
もうすぐ初老に入るぐらいの男は部屋の真ん中ほどで落ち着かず、うろうろ歩きながら通話を続ける。
「悪かった。確かに私にも落ち度はあったかもしれない。だが、傭兵も雇ったんだぞ。まさか、失敗するとは思わないだろう」
通話先の相手は御立腹だ。男は何度も何度も身振り手振りを交えながら弁明を続ける。
「次は必ず失敗しない。……あぁ、奴らは日本に行くのだろう?日本ならばそこまでドンパチは出来ないはずだ。頼む、だから援助を断らないでくれ」
脂汗が額から落ちる。手のひらにも汗を搔き、今にもケータイを落としそうだ。
「あぁ……あぁ……。確かに奴には恨みもある。だが、それ以上に新しい事業を始めるのに金が必要なんだ。頼む、あんたの援助がないと、俺は死んでしまう。あんたの言われた事は必ずやり遂げる。だから、頼む……!」
声が枯れそうなほど懇願する。しばらく沈黙が続く。あまりの緊張にごくりと生唾を飲んだ頃、向こうから返事が返ってきた。ホッと安堵し、胸を撫で下ろす。
男は椅子にへたれるように座り込み、丸いガラステーブルの上に置かれたスコッチ入りのグラスを掴むと、喉の奥に一気に流し込んだ。
少し前まで男は医療設備系企業の社長であった。父親の代から受け継いだその会社で、男は何不自由なく仕事をしていた。男は決して有能ではないが、それでも自分は役立っていると思っていた。
ちょうど一年前、一部の役員から新たな事業計画の提案が持ち込まれた。その企画は最先端のAIやロボット技術を応用した遠隔操作による医療の実現だった。社長で自分と他の役員は反対した。
長い議論の後、企画を通した。正直に言えば、成功するとは思えなかった。予想通り失敗したら、企画した役員の報酬を下げればいい。それだけの事だと、安易に考えていた。
だが半年後、会社に見知らぬ連中がやって来た。彼らはヤダナギコーポレーションと名乗り、事業提携を願い出た。もちろん、断った。そして役員会議を行った。
役員会議に出た男は驚いた。今まで自分になびいてきた役員が手のひらを返したようにヤダナギコーポレーションと手を組むことに賛成したのだ。次に行った株主総会でも同様の意見だった。
謀られた。そう思った頃には遅い。そして以前自分が反対した新事業は波に乗る寸前であることも知った。
気が付けば、以前から自分に付いて来てくれた古参の役員数人と共に会社を去っていた。そうせざろう得なかった。
現在は前職のコネで人材派遣会社を設立した。だが、資金繰りが上手くいかず、経営が危ういところであった。そこで電話の主が現れたのだ。
電話の主の要求はこうだった。エイゾウ・ヤダナギの隠し子、ルリ・ヤダナギを誘拐して欲しい。そして提示させてきた金額は会社の経営を立て直すには多すぎるほどの額であった。
男にはすぐに了承した。不幸にされた身だ。誰かを犠牲にし、自分が成功しようが心は痛まない。それに幸いにも人材に関してはすぐに手配できる。
男は窓辺に映る高層ビルの夜景を見ながら、もう一度スコッチを喉に流し込む。
男の名前はリチャルド・マッケンガー。
リチャルドは呟く。
「小娘が。今に見ていろ」