真夜中の少女・前編
深夜11時。
まだそこまで使い込んでいないランニングウェアを揺らし、使い古したスポーツシューズでアスファルトの上を跳ねていく。額から頬に掛けて落ちる汗も気にせず、息を切らしながら、ただ前へと足を動かす。
毎晩この時間は慶太のランニングの時間だ。この時は秦にさくらえんの寮を任せ、自身の望むがままに島の中を駆ける。
人影の少ない住宅街を走るのは爽快だ。汗を流して身体を動かしている時だけは余計な事を考えずに済む。慶太は島の中で過ごす時間の中で、この時間が一番好きであった。
慶太にはスタートしてから三十分後には必ず寮に戻るという独自ルールで走っている。なので、ルートはその場その場で決め、敢えて自分に負荷のかかるルートを探していた。
そして昨日、慶太は島の橋付近まで走っている時、偶然に橋桁の下へ続く道を見つけた。島と本島を繋ぐ橋の下には過去の戦争で中国軍が作ったトーチカ跡が残っているのは知っていた。恐らくはそこに続く道だろう。
この日、慶太はその道へと進もうと決めていた。トーチカ跡に興味はなく、寧ろトーチカに降りていく坂の勾配と距離が走るのに丁度よさそうだと感じたからだ。
慶太は走りながら腕時計で常に時間をチェックし、例の道へと進んでいく。
さくらえんの寮を出て、島の外周際を走るように進む事十分足らず、例の道への入り口を見つけた。街灯もなく、ただひっそりと佇むようにその道はある。入り口には『桜陽島トーチカ跡』という立て看板だけが寂しく立っていた。
暗闇に目が慣れており、慶太は迷いなくその道へ入って行く。緩やかに下る坂に足の動きが早まり、周囲に響く漣の音が心地よい。
坂道を徐々におり、やがて本島へと結ぶ橋が見えてくる。慶太は速度を一定に取り、橋が頭上まで来るのを視界で捉える。
橋の下まで降りると、そこには古びたコンクリートの壁と崖からせり出すように飛び出たコンクリートのトーチカが現れる。トーチカは天辺がなくなっており、潮風と長年野晒しにされたボロボロの壁だけが残されていた。転落防止用の柵などはなく、トーチカの先には暗い闇が広がり、ザザーと波が砕ける音が響いている。
一方の道の正面は行き止まりになっており、鉄柵が設けられている。
慶太は足を止めず、そのまま鉄柵の所まで走っていく。鉄柵に辿り着いたら折り返して寮に戻ろう。そう考えていた。
古びたトーチカを横目に走っていると、途中でトーチカの壁とは違うシルエットが視界の隅に移った。思わず首を動かして確認する。
暗闇の中でもそれが人影だと気付いた。人影はせり出したコンクリートの壁のギリギリに立っている。そして、向こうもこちらの存在に気付いて、慶太の事を伺っているようだ。
さすがの慶太も足を止め、人影の動向を伺う。人影はどうも自分よりも少し背の低い子供のようだ。
人影も慶太の顔を伺うようにゆっくりとした足取りでこちらに近づいていくる。
「誰、ですか?」
向こうから警戒した声音が届く。声音から判断すると、どうやら同年代くらいの女の子ぐらいだ。
慶太は警戒しながらも、静かな声で返す。
「ただランニングをしていた者です。えぇと……つかぬ事をお伺いしますが、ここで何をされているのですか?」
声の主は逡巡したのか、返答は少しの間が空いてから返ってきた。
「えっと……青海学園の人ですか?」
慶太の質問には答えず、代わりに別の質問が返ってきた。慶太は自分が信用されていないと理解した。同時にこんな状況下では仕方ないか、という事も自負もあった。
「そうですが……。あなたは?」
「私は、笹辺 結衣といいます。私も青海学園の二年生です」
ササナベという言葉が引っ掛かる。どこかで聞いたことがある名前だ。思考を巡らせるとすぐにピンと来た。島の東側にあるスカイモールの近くの病院の名前だ。確か三階建てで、真っ白な外壁のそこそこ大きい病院だったはずだ。
「僕は三年生の横山慶太といいます」
結衣は慶太の質問には答えないままであったが、相手が名乗ったのだ。こちらも名乗るのが筋だろう。
暗闇の中でまた数歩、結衣が近づく。
「あの……もしかして転校してきたっていう、ボディガードの人?」
慶太は思わずズッコケそうになる。どうやら、秦が以前に広めた噂は知らない下級生の女の子にまで広まっているのか。
気が滅入るが、それを顔に出さないように努めて「えぇ」と相槌を打つ。
「そうなんですね。えぇ……と横山先輩はいつもここを走るんですか?」
どうも結衣は無理やり話題を逸らしている気がした。慶太は「いえ、今日が初めてです」と返す。
慶太は結衣の警戒を解くために背後の橋桁の冷たいコンクリートに寄りかかった。その辺りから結衣がなぜここにいるのかを考え始める。
「そうなんですか。じゃあ、今日は偶然?」
「えぇ、本当に偶然です。たまたま、面白そうな道だと思いまして……。それよりも、そちらには柵のようなものが見えないですから、危ないですよ」
慶太に注意され、「あ、はい」と返事をしながら結衣はゆっくりとした足取りでこちらへと歩いてくる。
トーチカから道まで出てきて、初めて結衣の顔が確認出来た。
短く切ったショートヘアに猫のように丸みを帯びた目、輪郭は少しエラを張っているが小顔で綺麗な顔立ちのようだ。その目はどこか赤く充血しており、つい先程まで泣いていたのが見てとれる。
それに加え、結衣の恰好は寝間着であろう灰色のスウェットに白地のTシャツ。その上に赤いフード付きのパーカーを羽織っている。靴も素足でスリッパタイプのサンダルを履いている。
結衣はまだ猫のような目をどこか細めてこちらを伺っているようだ。
「ここって静かでいい所ですよね。私も少し前まではあまり来なかったんですが、来てみたら落ち着くので……」
「そうですか。それは知りませんでした。」
「そうなんですよ。それにですね、島の北側にある青海学園の森を……」
どうにもこちらの会話を遮ろうとしているのは分かる。どうやら、ここにいる理由を知られたくないようだ。
どこか早口の結衣の会話に適当に相槌を打つ慶太の頭の中では、なぜ彼女がこんな時間に、こんなひと気のない場所にいるのかを推理し続けていた。
考えうるは、安直であるが自殺。恰好からしてみて衝動自殺の線だろうが、どうにも今の様子の彼女を見ると納得いかない部分があるのでその線はないはないだろう。
次に恋人と密会。もしそうならば、逆にこんな不用意に出てくる事はないだろうし、服装からしても、その可能性は薄い。そうなると……。
ここまでの思考を短い時間で終えた慶太は、すでに自分の中で答えを出していた。だが、敢えて結衣に尋ねる。
「それで、笹辺さん。あなたはここで何をしているんですか?」
結衣の取り繕った会話を遮る。結衣は途端に「あの……その…」と言葉を詰まらせる。彼女の返答を待たず、慶太はさらに踏み込む。
「これは僕の予想ですが……笹辺さん、あなた、家出したのではないですか?」
低い声音で慶太はいう。途端に結衣は口を噤んで俯く。その仕草で確信した。
「気を悪くするような事を言って申し訳ありません。ですが、このままここにいるのは御家族に迷惑と心配を掛けます。家に戻られた方がいいですよ」
「家には……」
薄く開いた唇から蚊の鳴くような小さな声で結衣が呟く。
「家には帰りたくないんです……。だから、ここに居たんです」
結衣の言葉に慶太は納得する。確かにそうだ。家出をするのは家に居るのが苦痛だからだ。だが、このままここに居るのも良くない。
慶太は腕時計に目を落とす。蛍光塗料が塗られた腕時計の針は、寮から出て既に二十分以上経っている事を伝えている。本来ならばもう戻らなければいけないのだが、このまま彼女を放置するわけにもいかなくなってしまった。
少し逡巡し、慶太は「失礼」と告げて、結衣に背を向けてポケットからケータイ電話を取り出し、手慣れた手つきで秦にメールを打つ。文面はこうだ。
『悪い、少し遅くなる。大したことないから心配するな。頼んだ』
すぐに送信ボタンを押してケータイ電話を閉じて結衣に向き直る。
「先輩、私の事になんて気にしなくてもいいんですよ。これ以上、誰かに迷惑をかけられないですし…」
先暗い声音で結衣が囁くが、慶太は首を横に振る。
「そんな事は出来ません。いくらなんでもあなたをここに見捨てるわけにはいきません」
「そう、ですか……」
結衣は慶太の横二メートル離れたところで並ぶように冷たいコンクリートの壁に背を預け、そのまま膝を抱える様に座り込む。慶太は少し距離を置いて、結衣と同じように胡坐を掻く。まだ冷えるアスファルトがウェア越しに尻に伝わる。
「何か事情があるのでしょう? 差し支えなければ、お伺いします」
丁寧な言葉を選んで話す慶太に、結衣は一度クスリと笑みを漏らす。
「そんな風に言われたら、お話するしかないですよ」
結衣は語り始めた。