理髪店店主の悩み・前編
「君、波喜名くんっ! 二年三組の波喜名秦くんっ!」
昼の陽射しが差し、生徒たちで賑やかな高等部の廊下で、その声は彼らの賑やかさを掻き消す様に背後から浴びせられた。
秦はうんざりした顔を浮かべた後、とぼけた顔で振り向いてやる。案の定、そこには総合事務長の長谷部がいた。今日は珍しく眼鏡を掛けており、眼鏡の向こうから苛立ち混じりの視線を突き刺してくる。
「はい?」
「『はい?』、じゃないでしょう波喜名くんっ! こんなに呼んでいるのにっ!」
ツカツカと肩を怒らせて歩み寄ってくる長谷部。“はい”以外にどう返事していいものか? 秦は内心うんざりしながら長谷部に「はぁ」と返してやる。隣を歩いていた瑠璃やクラスメイト達は少し下がり、二人と距離を取った。
「君、この間転入した時に言ったでしょう?」
「はあ……。ですけど、言われた通りきちんとした身なりをしてますけど?」
うんざりした顔を浮かべる秦。それでもブレザーの前のボタンは全て開け、ワイシャツの第一ボタンは外して、それを誤魔化すようにネクタイを締めている。だが、その結びは甘く、結び目の向こうから開いたワイシャツが覗いているのだが。
周囲で二人のやりとりを見ていた生徒たちが好奇の目で見つめ、クスクスと笑い出している。
「あのねぇ……。私が言っているのは髪だよ、カ・ミ!」
「髪ぃ?」
「そう、その女学生みたいに長い髪ですよっ! いいですか、そんなみっともない髪をしていたら、あなた笑われますよっ!? それに今どきの子はそんなうっとうしく伸ばした髪を……」
耳元で長谷部がガミガミと説教を始める。よく喋るナナフシだ。うっとうしいのは憎ったらしく掛けている眼鏡だけにして貰いたいものだ。秦は不快な気分を隠しながら適当に相槌を打つ。
確かに言われてみれば、自分でも少しうっとうしいとは思っていた。
BGCスクールの時はよくトキオに切って貰ったが、生憎こちらに来てからはそんな器用な知り合いはいない。
「波喜名くんっ! ちゃんと聞いているんですかっ!?」
長谷部の怒声が思考を掻き消す。
秦はうんざりしながら、やる気のない相槌を続ける。
― ― ― ― ― ― ―
放課後、さくらえんの寮に戻った秦はリビングで椅子に腰かけ、ダルそうな顔を浮かべる。
「しっかし、あのナナフシには腹立つなー」
「なにかあったのか?」と慶太。
瑠璃が隣で「あはは…」と今日の昼休みの事を思い出し、苦笑する。
秦が今日の昼休みに起きた事を慶太に愚痴交じりに説明する。
「なるほどな。だが、確かに長谷部の言う事に同意するわけじゃないが、髪は切っておいた方がいい。その様子じゃあ、ヘアバンドを取った時に目元まで隠れてしまうだろう」
慶太の小言は今日ばかりはまともだ。秦も納得しているので素直に頷く。
「あぁ。いい加減に切ろうとは思っていた所だが、いつも髪を切っていたのはタキオだったしなぁ……」
そんな二人のやりとりを聞いていた健太がいう。
「そういえば、島の外れに床屋が出来たって聞いたよ」
「とこや?」
あまり聞き慣れない言葉のようで秦が聞き返す。慶太も同じようで、健太に顔を向ける。今度は健太の隣にいた美咲がいう。
「髪を切ってくれるとこだよ。言い方を変えれば美容室でいいのかな?」
秦と慶太が納得したように同時に頷く。
「なるほどなぁ。試しに行ってみるかぁ」
「なるほど。秦が行ったのなら、俺も後で行ってみようと思う」
秦はリビングの壁に掛けられた時計を見る。時刻はまだ十七時を過ぎたばかり。まだ間に合うだろう。
「今から行ってきてもいいか?」
秦の問いかけに慶太と瑠璃はほぼ同じく頷く。
― ― ― ― ― ―
健太の話を聞いて秦が向かったのは島の北東だ。
『スカイモール』や大きな病院の裏側で、そこは島が出来てからすぐに移り住んだ人たちが住む古い商店街や住宅が並んでいる。そんな老舗が並ぶ店の細い通りを歩いて行くとその一角にその床屋はあった。
外装は少し古く、所々にひび割れを補修した後のペンキが目立っている。開店営業を祝う小さい鉢植えがドアの近くに二つ並んでいる。その一つには『篠埼家一同』という文字があった。珍しいものがあるもんだと秦は思う。
それから店先にはよく理容室で見かける赤、白、青の三色のストライプのポールがクルクルと回っている。残念だが、秦はこのコミカルなポールの正しい名前を知らない。
しばらくじっと眺めていると、背後で妙な視線を感じて秦は振り返る。
少し離れた古い呉服屋の入り口で、怪訝そうにこちらを伺う中年の女性が目に入った。敵意はないが、眉間に皺を寄せてこちらを睨みつけていた。
秦と目が合ってすぐに女性は身を店の中に引っ込めた。
「なんだ、あれ?」
ぼそりと呟いた後、秦も同じように怪訝な目をした後、すぐに気を取り直して目の前の少しくすんだすりガラスのドアを開けて、店内に入る。
カランカランとドアの上部についた鈴が鳴り響き、まず秦の視界に飛び込んできたのは、古びた外装からは想像できない程、綺麗な内装であった。部屋の壁紙は真っ白に塗装されており、頭を洗うシンクや鏡、利用者が座るシートもピカピカの新品であった。
「やあ、いらっしゃい」
店の奥から店主と思われる穏やかな男の声が響き、秦の前に現れる。
現れたのは白髪交じりの中年の男性だ。秦より身長が高く、痩せた頬に少し細い目からはどこか穏やかな性格を感じさせる。
「こんちはっ! 髪切りたいんだけど、いい?」
気さくな声で尋ねる。店主はややどぎまぎした様子で「あぁ、じゃあそこに掛けて」と秦を椅子に誘導する。
柔らかな茶色のシートに腰掛け、目の前の壁に設置された大きな鏡に目をやる。ヘアバンドを取ると、そこにはボサボサに髪が伸びた自分と、どこか顔色の悪い店主が映る。
「それで、どのようにしますか?」
秦は鏡に映る自分の前髪を指先でいじり、「うーん」と考える。
「とりあえず、軽くすいて貰っていいかな?」
「あ、あぁ。分かったよ」
返事をする店主の声がどこか震えているのを聞き逃さなかった。店主はそのまま背中を向け、散髪用のハサミなどを乗っけた小さなストレッチャーにこちらに運んでいる。
秦は接客慣れしていないのかと思い、あまり気にも留めず鏡に映る自分を見た。目元が前髪で隠れている自分は、まるで最近のJロックバンドのボーカルのようで中々気に入った。
しばらく自分の顔ばかり見ていた秦だが、一向に髪を切る様子がない。不審に思った秦は鏡に映る店主の背中を見つめる。そこにはストレッチャーに身を屈めたまま微動だにしない店主がいた。
様子が気になって秦が振り向くと、まず目に入ったのはストレッチャー台のすぐ上でハサミをブルブルと震わせる店主を指、続いて額から脂汗を流してそれを見つめる店主の鬼気迫る顔だ。
一瞬、警戒したがどうも様子が違う。しばらく肩に力を入れて見つめていた秦に気付いたのか、店主はハッと顔を上げ、入店した時と同じような穏やかな顔を作って秦を見返す。
「ご、ごめんね……。どうやら今日は、体調が良くないみたいなんだ。申し訳ないんだけど、後日にでもいいかな……?」
秦は思わず「あ、あぁ」と声を濁した。
まだ脂汗が引いていない店主を横目に、秦は椅子から立ち上がって店の出口へと向かう。
背後でどこか複雑そうな表情を浮かべる店主を背後に秦はドアを開けて外に出た。まだ明るいオレンジが周囲を照らし、家々の影が小さな通りを包み込もうとしている。
「ありがとうございました」
どこか声音が低い店主の声に押されて、秦は細い通りの中ほどに出ると、また美容室を振り返った。
古びた外観に終わりかけた太陽の陽射しがオレンジ色に染めている。秦は先ほどの店主の様子と振舞いが気掛かりだったが、これ以上は何も出来ない。
しばらく思考を巡らせたが、詮索するのをやめて、そのまま帰路へと着いた。
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明くる日の朝。
秦は学校の廊下でまた長谷部に捕まり、髪を切ってこなかった事を咎められ、ねちねちとした説教を食らわされた。長谷部の隣では偶然目撃してしまった担任である六葉も申し訳なさそうな顔で大人しく聞いていた。
長谷部は秦への説教の後、六葉にも釘を刺して不機嫌な肩を揺らして去っていた。まるで自分以外は無能みたいに思っているようなその背中に腹を立て、中指をこっそり立てる秦。
教室に戻り、疲れと不愉快な顔を浮かべて自分の席に着く。すると朝の一部始終を見ていた文太がニヤニヤと嫌味な顔を浮かべてやってくる。
「なぁーんだ秦。また怒られたのかぁ?」
秦はうんざりした顔を浮かべ、文太に頷く。
「またお前も学習しないなあ。昨日あんだけねちっこく言われたら、誰だって髪を切ってくるだろう」
「それがよぉ……。昨日島の中で新しく出来た美容室に行ったら、『体調が悪い』って言われて帰らされちまってよぉ」
少しダルそうな声音でいう秦。文太は驚いた表情を作り、目を丸くする
「新しい美容室って……。お前、あそこの美容室に行ったの?」
怪訝な顔を浮かべる文太に秦は頷いて見せる。
「あぁ、知ってるのか?」
「知らないのか? あそこの床屋はその昔、中国人と戦ったおっさんなんだぞ」
「なんだそれ?」
秦の怪訝な声に気付いたのか、近くを通り掛かった浩輔が立ち止まる。文太は続ける。
「そりゃあ、ここは昔中国軍だかが作った島だってのは知ってるだろ? あそこのおっさんはそん時に戦ったレジスタンスなんだぜ?」
島の経緯は以前に慶太からも訊いたし、自身でもざっくり調べたりもした。当然、その中にレジスタンスがいたという話も触りだけだが知った。
「なんでそんな事を文太が知ってんだよ?」
聞き耳を立てていた浩輔がすかさず突っ込む。
「そりゃあ、俺はここの島の住人だし、親父も母ちゃんもこの島の住人だからだよ」
そういうなり、文太はニヤニヤと嫌らしい笑みを二人に向ける。
「なんでも、噂によればハサミで中国兵の首を切り裂いたってよ」
文太が面白おかしく首に二本指を当て、それを突き刺す。思わず浩介が「うぇー」と低い声を挙げる。
「なんかの映画であったよな、そんな話。そんな床屋行きたくねぇー」
舌を出し、いーっとワザとらしく嫌な顔をする浩輔。
秦はあまり興味なさそうに「ふーん」と適当な相槌を打つ。だが、その心中はどこか複雑だった。
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その日の昼休み。いつも瑠璃と秦は教室でクラスメイト達と囲って昼食を摂るのだが、その日の秦は少しうわの空であった。周囲で文太や浩輔が瑠璃や美緒たちを楽しく話している中、秦はどこか遠くを見つめていた。
何度か話し掛けられてやっと返事が返ってくるばかりだ。皆は不思議そうに秦を見つめる。
やがて秦は「わりぃ、ちょっとトイレ行ってくるわ」と告げ、一人でそそくさと教室を出て行く。
皆はその背中を不思議そうに見送り、秦が去った後に浩輔が口を開いた。
「なんだかあいつ、朝から元気ねーなー」
「瑠璃達が少しの間休んでから、急に様子変わったって感じ」と美緒。
「ねえ、もしかしてさ……。休んでいる間に何かあったの?」
心配そうにいう純に瑠璃は「う、ううん。別に大した事はないよ」と首を横に振る。
「もしかして小泉と秦、付き合ってるのか?」
鼻息を荒くしながら瑠璃に問いかける文太。
「そんなわけないじゃん。まさかー」と瑠璃は全力で否定した。
小さな笑いが起きた後、皆の話題が逸れると、瑠璃は少し黙って考えた。
あの事件の後、様子が変わらない筈はない。ここにいるクラスメイト達は知らないが、僅か数日で瑠璃自身の生活は変わったのだ。むしろ、こうして笑っていられる方がどこかおかしく思えるほど。
当然であるが、そんなことをクラスメイト達に話せるわけもないのだが。