30.蘇生
それからはずっと長い闇の中を彷徨っていた気分だ。
闇の中を漂う間、薄暗い灯りの中で夢を見ていた。
アフガニスタンでサリューとコーヒーを飲んでいたあの日だ。
彼女は何かを言って微笑んでいた。だけど、何と言っていたか思い出せない。
やがて景色がフェードアウトしていく。
瞼が動き、目に飛び込んできたのは目が眩むような眩しい蛍光灯の明かり。
夢? いや、違う。これは、現実だ。
全身が痺れたように動かない。
しばらく俺は病院にいるもんだと勝手に決め込んでいたよ。
必死に首や身体を動かそうと脳から全身に命令を出すが、身体が言う事を聞かない。
その日、俺は覚醒しただけでまた眠りに付いた。
― ― ― ― ―
明くる日、また俺は覚醒した。
瞼が上がり、同じ蛍光灯が真上で俺を照らしている。
脳が命令する。
首がやっと動き、周囲を見回す事が出来た。
俺の顔の横には生命維持装置なのか、見慣れない機械が並んでいる。
まだ力が入りきらない首をなんとか起こし、頭を上げてつま先の方に目を向ける。
身体には入院患者が着る緑色のガウンが着せられている。何か違和感を覚えるが、首が疲れてまた頭を戻す。
頭を固い枕に押し付け、少し休んだ後、周囲に目をやる。よく見れば部屋の周囲はガラス張りになっており、そこでは白いマスクに同じく防菌頭巾を被った男とも女とも区別のつかない人間が歩いている。
声を出そうと口を開け、舌を動かす。だがどうにも上手く動かない。
ひゅーひゅーと声にならない声を出し、ガラスの向こうの奴らに必死に懇願する。だが、俺の必死の懇願は届かず、彼らは俺の前から離れていった。
俺は諦め、また瞼を閉じる。
― ― ― ― ― ― ―
「私の声が聞こえるかね?」
ぼんやりとした闇の中で静かな男の声が聞こえてくる。
ゆっくり瞼を開ける。あのうんざりする蛍光灯を遮るように、白衣にマスクをした男のシルエットがぼんやりと見える。
「そうだ、聞こえるか?」
俺はまだ霞む視界を瞬きで何度も擦る。
滲んでいた景色がクリアになっていく。白衣にマスク、そして防菌頭巾を被っている。僅かに見える目元の皺から見るとかなり年を重ねた男のようだ。
男は目を見つめながら興味深そうに俺の顔を覗き込んでくる。
必死に唇と舌を動かす。
「お…え…のぉ…」
微かに出た声。男は顔を近づけ、口元に耳を向ける。
「お…れ…は……マ……シュ……ジェ……ソン…」
息を吹きかければ飛んで消えてしまいそうな声でやっと言えた。
男は聞き終えると、満足したかのように何度か頷き、身体を起こし、また俺を見下ろす。
「そうか、記憶もきちんと戻っているのか。だが、君に辛い話をしなければならない」
喋りながらそばのストレッチャーに置いてあったバインダーに何か書き込んでいる。
書き終えた後、俺からの見えない所からA4の真っ白なコピー用紙の束を掴み取り、パラパラと数枚ほどめくっている。
「第75レンジャー連隊第2大隊所属、マシュー・ジェンソン少尉。トーチ3に所属し、アフガニスタン、トリチェスタンに従軍し、名誉勲章を二つ受賞している」
二つ? 俺は耳を疑った。
男は目を細め、書かれてるであろう文章に目を通しながら読み上げていく。
「一つは名誉勲章。トリチェスタン、首都バグラム解放『デザートキャッスル作戦』において、脅威ある敵に対抗し、逮捕に貢献した。そしてもう一つはパープルハート勲章」
パープルハート勲章。その勲章はどんなものか知っている。そして、それが何を意味するのかを。
「8月24日、第75レンジャー連隊第2大隊はライジングローチ作戦中に行動不能になったアメリカ海軍特殊作戦コマンドチーム3の救出作戦中に被弾。16発の弾丸を受けて意識不明の重体。そして11月14日、死亡となっている。それに対してパープルハート勲章と二階級特進を受けている」
意味がわからなかった。俺はここでこうして生きている。
11月? じゃあ今日はいつだ?この男は何を言っている? 俺が死んだだと? じゃあ、ここは一体何なんだ? こいつは誰なんだ?
俺の呼吸が荒くなる。必死に身体を動かそうともがくが、まだ身体がいう事を聞かない。もぞもぞと肩を揺らす俺に、男は顔色を変えずに言う。
「君はもう死んだ。だが、それは昔の話なんだ。今、ここにいる君は新しい人間として生まれ変わった君だ。ここでの名前はプロトだ。」
まるで新しく飼った犬に名前を付けてやるような言い草だ。その言葉に怒りが沸き出す。混乱する中、俺はこの男の首根っこを捕まえてやろうと必死に身体に命令する。
次の瞬間、身体が一気に起き上がり、俺は上体だけを起こして男の首根っこを捕まえようと右手を振りかぶった。男は驚きの表情を見せるが反応は遅い。
だが、俺の振りかざした手は男の前で虚しく空を切り、勢いを付けた為にベッドから下の真っ白い床に崩れ落ちる。
すぐさま室内に複数の足音が聞こえ、無様に倒れた俺の両脇を屈強な男が持ち上げる。見れば青い制服を着た
ガードマンだった。
また違和感を覚える。先ほど男を狙った時もそうだが、今ここで両脇を抱えられている自分もそうだ。
なぜこの男二人はこんなにも簡単に俺を持ち上げる事が出来る? そして、なぜ地面に足が届かない?
男はすぐに気を取り直し、俺の顔を覗き込む。
「どうやら、すぐにでも君は新しい自分を見つめる必要があるようだね」
ガードマン二人に促し、俺をガラス張りの壁に向けるように指示する。
情けない恰好で俺は2人のガードマンに引き摺られ、俺はガラスの前に半ば無理矢理立たせられた。ガラスの向こう側が暗くなっており、鏡のように俺と部屋中が反射して映っている。
頭にグルグル巻きに包帯を巻かれた俺の顔は、知っている自分の顔ではなかった。やせ細った東洋人の少年。おまけに身体は異様に小さい。
これは俺じゃない。そう思っても、ガラスに映る自分は見知らぬこのやせ細ったガキ。
呼吸が乱れる。脈拍がおかしくなる。
それは、目の前のガキも同じだった。
動揺し、困惑する俺の背後であの男が言う。
「君は生まれ変わった。過去の自分は忘れたまえ。大丈夫だ、君の今後の生活は私が保証する」
男の言葉も、目の前に映るガキも、全て意味が分からなかった
口の中がカラカラになり、ヒューヒューと呼吸が乱れる。
叫びたい衝動に駆られ、俺は大きく口を開けた。だが、喉から出したい声が出ない。
目の前の視界が歪み始める。吐き気が込み上がり、手足が震え出す。
「まずい、発作だっ!」
意思とは無関係に身体が何度も弓のように撓る。
俺の腕を掴んでいた二人のガードマンが俺の身体を床に押し付ける。
遠退く意識の中で、微かに腕にチクリとした痛みが走る。
口に何か布を押し込まれ、余計に息苦しくなる。
やがて俺は意識を失い、また闇の中へと沈んでいった。
微かに遠退く意識の中で俺は願う。これは悪い夢だ。ひどい悪夢の一部の中なんだと。
― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ―
あれから数日後、俺の悪夢はやはり醒めなかった。いや、正確にいえば起きながら悪夢を見ているのだ。
意識を取り戻した俺に、例の男がまた声を掛ける。そこで俺はもう全て悟った。だが、開き直れるほどの元気もないし、馬鹿にはなれない。
男はベンダーと名乗り、奴はアメリカ政府の依頼で俺の命を助けたとぬけぬけという。
奴はこうもいった。
「なぜ君が選ばれたのか? それは君が誰よりも愛国心があるからだ。そしてその忠誠心に君は命を救われた。だからアメリカ政府は君の命の恩人でもある。私ではない、国が、君を救ったのだ」
クソ食らえと思った。俺があそこで命を懸けたのは国の為でも、大統領の為でも、国民の為でもない。
勲章なんてものもただのおまけ菓子みたいなもんだ。俺は、自分の為と仲間の為でしかない。それ以外は全ておまけなんだ。
当然、そんな事は言えない。ベンダーの後ろにいるMP5Kサブマシンガンを握ったガードマンを見た後では。
俺はベンダーの誇らしい言葉をただ黙って静かに聞き、やっと動かせる頭で頷くしかなかった。
「大丈夫、君は出来る人間だ。まずは人並みに動けるようにリハビリをしよう。」
何度も聞き飽きた「大丈夫」という言葉にうんざりしつつ、俺は頷く。
それから数日経った今日、俺はやっと松葉杖を使って歩行できるようになった。
そこで初めてこの施設の中を歩けるようになった。もちろん、背後にベンダーとMP5を持ったガードマン付きで。
施設はどこも似たような作りで、清潔感がある不規則に穴の開いたトラバーチン模様の化粧ボードが張られ、壁も白い壁紙、おまけに足元の床のタイルも白だ。病院のような作りだが、恐らく違うだろう。
廊下はどの部屋もガラス張りになっており、俺がいたような部屋と同じような作りになっている。中には呼吸器を付けられた人間が必ず一人はいた。わかる限りでは成人男性だったり、まだ十代半ばの少年であったりと、そのほとんどが男性であった。中には胸のふくらみから女性である者もいたが、その顔は呼吸器のせいでよく見えなかった。
俺は松葉杖で一通り歩き、恐らく建物の角ほどまで進んだ所で俺は壁に寄りかかって休憩した。
窓の向こうには晴れ渡ったマンハッタンの上層と思われる街並みが映っている。だが、その景色の雲も、通りを走る車も映っていない。間違いなくパネルだ。
覗き込むほどの元気はなく、俺は本当に疲れた身体を休めながら思考を巡らせる。ここは恐らく地下施設だ。ペンタゴンか?そこまでは分からない。
「そろそろ戻ろうか?」というベンダーの言葉に頷くと、ガードマンの一人が車椅子を運んできた。
俺はガードマンが持つ車椅子に疲れた身体を座らせる。
ゆっくりと来た道を戻りながら、俺は考える。
これから自分がどうしていくべきか? そして、ここからどう抜け出すべきか?
また例の部屋に戻り、俺は二人掛かりでベッドに乗せられる。半年前まで重かったはずの身体は今では男二人でも有り余るほど容易く乗せられてしまう。
そこでまず俺はすべき事がひとつ決まった。