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ボディガード・チルドレン  作者: 兎ワンコ
第一章・ボディガード・チルドレン
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0.プロローグ・バーンズ教官の回想

 1989年4月

 中華人民共和国の全国人民代表大会にて共産党の強硬派から出たウ・ツェンファが国民の圧倒的支持により主席へ。

 ツェンファ主席は元軍人であり、数多くの強行的改革案を全面に掲げて多くの国民の支持を貰った。その支持率は中華人民共和国始まって以来の支持率であった。


 1993年8月

「優性遺伝子である漢民族におけるアジア人種の全支配、統治」を掲げ、中華人民共和国は北朝鮮の書記キム・リアンと同盟を結び、政治に批判的であった韓国、アメリカ、ベトナムに対して宣戦を布告。


 中北同盟軍は韓国、ベトナムに侵攻。さらに戦火は拡大しカンボジア、日本にも飛び火する事になる。後に『アジア戦争』と呼ばれる戦争であった。


 1993年9月

 中国軍は韓国の全面的支配の為、北朝鮮側からの侵攻に加え、南側からの上陸に必要な架け橋である日本の北陸西側の侵攻を開始。


 そして本島の日本海に面する北西エリアを制圧し、新潟県沖に巨大な人口島の建設を開始する。これは軍事施設と植民地を兼ねた人口島である。


 韓国に駐留していた米軍基地への爆撃と同盟軍の被害を受けたアメリカ合衆国は、友好国への援軍と報復を兼ね、北朝鮮と中華人民共和国へ武力介入を発表。


 フランス、イギリス、ミャンマー、タイがアメリカ合衆国に賛同し、連合軍が中北同盟軍の侵攻阻止を開始した。


 1994年6月

 中北同盟軍30万人、連合軍12万人、民間人226万人の犠牲者を出した第一次アジア戦争はロシアのサンクトペテルブルグで行われた和平首脳会議において中国、北朝鮮側の停戦受け入れによって終結した。


 中華人民共和国軍及び北朝鮮軍は侵攻していた各国からの軍隊の撤退。賠償金の支払いにて決着した。


 痛ましい戦争の傷は28年もの時と経て、徐々に風化していく。




 2014年 3月

 アメリカ合衆国・カリフォルニア州某所 ボディガード・チルドレン養成学校 北米支部アジア系課棟


 灰色の壁紙と蛍光灯の明かりが灯るオフィス。


 堅苦しいクルミ色した木目のディスクに何枚もの少年少女達の顔写真とここ2年間のデータが並べられている。ボディガード・チルドレンアジア系課・課長であるバーンズ課長は写真と睨めっこしながら、自らの人生を振り返る。


 彼はここに来る前にアメリカ陸軍に在籍していた。厳しい訓練を受け、兵士となった彼が初めて行った戦場はアジア戦争であった。


 誰もが口にする。「戦争とはいつだって悲惨なものだ」 もちろん二十年前のアジア戦争も過言ではない。


 中北同盟軍は米軍基地のない東北地方より上陸し、北海道と関東へ向けて進軍を開始していた。当時まだ新兵だったバーンズの部隊は横浜へ上陸後、すぐに福島県まで移動した。


 福島県はまだ中北同盟軍の手には堕ちておらず、そこに設営された基地で装備を整えて、更に北へ向かった。


 初めて敵と交戦したのは白石シティに入るところだ。中国軍の斥候部隊と遭遇して戦闘となった。


 バーンズの部隊は車両を降りて、敵の銃撃を避ける為に近隣の住宅に入った。そこで部屋の片隅で怯える日本国民の家族に出会った。バーンズを含め、当時のアメリカ兵たちは改めて先進国での市街戦がなんたるものかを実感した。


 小規模な戦闘をいくつか行い、バーンズの隊が新潟へ向かうと決まった時、日本海側にいた中北軍の艦隊が撤退を開始した。それから一カ月後、和平条約により戦いは終わりを迎えた。


 復興支援としてしばらく駐留していたが、その中で多くの日本人の子供たちを見た。その目は疲れに混じり、解放された喜びに満ちていた。バーンズの人生の中で決して忘れることはない光景だった。


 そして四年前の2010年。中東・トリチェスタンで起きた軍事クーデターによる戦争で派兵され、現地で負傷して帰国した。帰国後、仕事を点々としていた時、ボディガード・チルドレン組織の設立が行われ、軍隊経験者の応募を見て入社願いを出した。


 すぐに入社は決定して職場に行ったが、実際に子供たちを前にすると、ボディガードに子供を使う事に複雑な思いを感じた。が、自ら学んだ知識や経験が彼らの命を長びかせられるのなら、と指導教官を希望した。




 ボディガード・チルドレンという組織が発足したのは90年代ヨーロッパ諸国からだ。


 90年代、富裕層の子供が誘拐される事件が多発し、その多くが悲惨な結末を迎える事が多かった。


 そして1999年の4月。ロシア国内の中等学校で悲劇が起きる。政府高官の子供を狙った武装組織のメンバー6人が学校を襲撃。目的は誘拐のみであったが、偶然近くをパトロールしていたパトカーの通報により誘拐は失敗。学校を占拠し、立てこもり事件へと発展した。


 3日間の籠城の末、最後は警察隊の強行突入により、22人の子供と犯人6人が死亡した。死亡した子供たちの中には犯人たちの目的としていた政府高官の子供も居た。だが、悲劇はこれで終わらなかった。


 その年の5月から8月。アメリカ、イギリス、フィリピン、ユーゴスラビア、日本、中国で同じように学校を襲撃した事件が相次いだ。ロシアでの事件に触発された過激派組織や模倣犯の仕業だった。六か国で50もの学校、住宅が襲撃され120人もの犠牲者が出た。そして射殺されたり、逮捕された犯人の中には子供もいた。


 この出来事は世界中の人間を恐怖に落とした。多くの不登校児を生み、更には学校内に自己防衛の為に武器を持ち込む親や子供まで現れるようになる。


 イギリスでは子供を守る為に、子供自身に柔術や護身術を受けるスクールが発足する。それは後にボディガード・チルドレンという組織の始祖となるのである。やがてアメリカ、フランス、ロシア、中国といった国々で同様の訓練組織が生まれ、いつしか子供が別の子供を守るための訓練を行うようになり、その規模は国際組織になるほど巨大化していくのであった。


 2000年初頭。遂に国連総会である条約が提案される。それが子供自身をボディガードの訓練を受けさせ、子供を守る組織が他国への渡航を行う条約である。多くの世論からバッシングを受けたが、ボディガード・チルドレンという存在が国際法が可決されるのであった。こうして、子供が子供を守るという無理無体と思える組織の大頭は、組織は肥大化し、先進国にはいくつもの訓練校が設置された。

 十四年経った現在では、学校の中に一人や二人、子供のボディガードが目新しい存在でなくなるようになった。


 そしてこのボディガード・チルドレンを育てるスクール。

 スクールのカリキュラムは3年過程であり、13~17歳までならば入校は可能だ。


 初期の頃は身寄りのない子供を優先にスクールに入学させていたが、現在では人種や生まれ関係なく、試験をクリアした者のみの入学となっている。


 入学した彼らは3年間寮生活を行い、本来受けるべき学校カリキュラムと、ボディガードとなるカリキュラムを平行して学んでいかなければならない。そして、子供の彼らには過酷なほど厳しい訓練が待っているのであった。



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― 新着の感想 ―
[良い点] 短くまとまり、読みやすい文章となっています。 私の中では早口のナレーションになる感じのスピード感! [気になる点] 大統領選挙で首相が選出されたかのように書かれていますが、大統領と首相は別…
2020/04/19 22:19 退会済み
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