一
「善次郎、描き直しな」
角の蕎麦屋に出前を頼み、長屋へ戻って来た善次郎を出迎えたのは、愛想の無い一言だった。
見ればごみ溜めの様な部屋の隅、日頃善次郎が絵筆を使う床に、お栄がしゃがみ込んで善次郎の絵を覗いている。
「なんだい藪から棒に…あれ?先生は?」
「鉄蔵ならお政さんトコに行ったよ…泊まるんだろ」
お栄は父親の事をいつも『鉄蔵』と呼び捨てる。
お政というのは父親の弟子の一人、画号を葛飾北明といって父親の妾の様なものである。
「なんだ、先生の分も頼んじまったよ出前」
「お前が食えばいいさ…それよりこの絵だけは直しな、〆切はまだ先だろ?」
善次郎は話題をそらしたかったが、お栄は逃がさない。
その絵は善次郎が依頼された読本の挿絵、そのうちの一枚であった。
むすっとした目で善次郎を見上げるお栄に観念して、善次郎は訊いた。
「分かったよ、お栄ちゃん何処がいけないだろう?」
「…下絵を出しな」
善次郎の下絵に朱筆を走らせる。
「上手ぇなぁ、お栄ちゃん」
「ほら、ここ、この手をこっちに持っていきゃあ自然だろ」
およそ他の事に無頓着なお栄であったが、コト絵に関しては容赦が無い。
嫁いだ絵師の作品を下手糞とさんざん貶し離婚した程である。
本人にしてみれば、善意で修正する事を提案したつもりだった様なのだが、なにしろぶっきらぼうな物言いだ。
本当は面倒見が良いのだが、見た目と物言いで損をしている。
「なるほどなぁ……俺ぁまだまだだなぁ、先生やお栄ちゃんみたく描けねぇよ」
「当たり前ぇだ、鉄蔵もオレも餓鬼の時分から筆持ってんだぞ。昨日今日描き始めた奴が比べるなぃ」
「そりゃそうだ、そういや先生は今朝下絵一枚描いたきりだね」
「…気がのらねぇんだろ、描けねぇ時はあるさ鉄蔵でも」
父親は別方面から同時に二枚を依頼されていた。そのうち一枚はお栄が代筆して描いている。
善次郎は今朝描かれたその下絵を覗き込んで溜め息をついた。
「…のらなくて描いた下絵でこれかぁ」
「のってねぇ筆だろうが?…あぁ、名入れ書くの忘れてた」
お栄はそう言うと自分の作業机に腰を下ろす。
善次郎が脇から覗くと見事な美人画が完成していた。
「お栄ちゃん、いつになったら自分の名を入れるんだい?代筆ばっかじゃ勿体無ぇぜ?」
「………五月蝿ぇ」
お栄は完成した美人画の隅にさらさらと父親の画号を入れる。
『葛飾 北斎 画』