二
それから一か月後には僕達は交際を始めた。僕が週末にも仕事があることに加え、正社員になったばかりで忙しく会うことができない時も多かったが、たまに休みがあった日には二人で出掛けた。被写体を求めて駆けまわる彼女に振り回されてばかりだったけど。
そのうち、僕が彼女のマンションに入るかたちで同棲を開始。それから更に親交を重ね、彼女が結婚について口にしたことをきっかけに、僕は自分の過去を告白した。いつか話さなければならないと思いながらも言えずにいたことだった。
一時期精神科に通院していたことと、その理由――会社でのストレスから精神的に不安定な状態に陥ったこと。
廃ビルのこと。
夢のこと。
全てを話した。
ビルの跡地に、彼女の実家が建っていたことも。
彼女は「精神科云々については、まぁ、そこまで驚いてない」と言った。僕が精神的に弱い部分があることを彼女はとっくに勘付いていたのだろう。
「廃ビルで私そっくりの人に会った。夢の中でも」
彼女は僕の説明をゆっくりと繰り返した。いい思いはしていないだろう。僕だって、彼女に僕とそっくりの知り合いがいたと知ったら少なからずショックを受けると思う。
「しかも廃ビルの跡地に私の実家があった。うん、まぁ確かに時期的には合うんだよね」
元の実家はかなり古い家屋だったらしく、数年前に両親とともに引っ越した。そのことは彼女からも聞いていた。写真の中で新しくなっていた花壇はそういうことだったのだろう。
「そんでもって私と同じ紅茶好き……。不思議なこともあるもんだねぇ。いや、あるの? 私と会って惚れちゃったから記憶の中の『彼女』を書き換えたりしてない?」
「し、してないよ」
「ふーん」
彼女はテーブルの上に置いた自分の手に視線を下ろしながら、
「まぁショックはショックだけど」と言った。
「ごめん」
「ううん。まぁ、話してくれた方がよかったし」
あのさ、と彼女は僕を見ながら言う。
「もしもここに、その彼女――――夢の中で見たまんまの『彼女』が現れたらどうする?」
「多分、すごく嬉しい」
「それで?」
「夢のことについて聞く。何か知っているようなら教えてほしいし」
「うん、それで?」
「それだけだ」
「本当に?」
「さっきも言ったとおり、『彼女』に対する好きはそういう類のものじゃない。君と出会ってからそれがはっきりと分かった」
「ふーん。でもあれだね」
「なに?」
「そういう意味じゃないって分かってても、他の女を好きって言われるとむかっとするね」
「ご、ごめん」
彼女は笑いながら立ち上がり、キッチンへと入っていった。冷蔵庫の開閉音の後、戻ってきた彼女の両手には缶ビール。
「明日休みでしょ? 貰い物がたくさん残ってるから昔話ついでに消費しちゃお」
「昔話って、僕の?」
「勿論。だって初めて聞いたんだもん。夢の話もそうだけど、前の会社の話とか、通院してた話とか。もっとちゃんと知りたい。駄目?」
彼女は何気なく口にしたのであろう言葉は僕の胸を軽くするどころか優しく暖めてくれた。喜び、嬉しいという感情が身体中にじわりと広がって、涙腺を微かに刺激した。
「いや、全然。僕も聞いてほしい」
「んじゃ、まずは」
眼前に突き出されたビールの缶に自分の缶を軽く合わせる。
「乾杯っ!」
「乾杯」
さて、何から話そうか。
そう考えても上手く纏められないほど。
話したいことが、たくさんあるんだ。
結婚して二年が経った。
一月ほど前に店長が病気で倒れた。副店長でもある奥さんが店長代理をすることになったのだが、今まで店長一人に任せきりだったため一人では難しいということで僕がその補佐に任命された。そんな理由もあり、以前よりも忙しく毎日を過ごしていた。
ちょうどその頃。
遅くに帰宅後、夕飯を食べながら、何やら今日は様子がおかしいなと思っていた僕に、妻が意を決したように妊娠したことを告げてきた。
驚き。
それが引くと同時に喜びの波が押し寄せてきたことを、自分でも少し意外に思った。
「嬉しい?」
僕の過去を知っているためだろう。妻は様子を窺うように訪ねてきた。でもその顔は何故かにやけている。
「あぁ、うん。自分でも、意外と」
「うん、顔に書いてる」
「嘘。僕、どんな顔してる?」
「多分、私と同じ顔」
箸を持った手で顔を隠しながら、
「何週間?」
「四週間。ちょっと前から『あれ?』とは思ってたんだけど」
「そっか」
深呼吸してから手を離す。
「そっか」
「にやけ顔のまんまだけど」
再度顔を隠す。
「そっか」
「それ以外に感想ないの」
「いや、うん……。すごく、嬉しいです」
「小学生か」
「ご、ごめん」
「いや、いーけど」
にやにやと笑う妻の顔が浮かぶ。
「とにかく、あれだ。無理はしないようにしないと。安定期? だっけ? あれが来るまでは。安定期っていつ?」
「妊娠五ヶ月くらいから。人によっては安定期とかない人もいるらしいけど。歳のこともあるし、結構心配なんだよね」
顔から手を外す。妻が面白くなさそうにしたからにやけ顔は治まったようだ。
「君の実家で見てもらうことってできないかな。僕が仕事を休めたら一番いいんだけど、職場の状況的にも経済的にもそれは難しいし、昼間一人でいる時に何かあったら大変だろう」
「うーん、多分喜んで協力してくれるだろうけど……、ほら、うまくいかない可能性もあるでしょ? あんまり考えたくはないけど」
「あぁ、うん」
そうだ。舞い上がってばかりはいられない。
「でも確かに私も何かあったらって思うと不安だし、とりあえず心拍確認までできたら報告しようかなって思ってるんだけど……」
「心拍確認って、赤ちゃんの?」
「うん。大体六週間くらいからできるようになるみたい」
「そうなんだ」
「八週間くらいまで動かなかったりすると、もう死んじゃってる可能性が高いって」
「そっか……。うん、分かった。じゃあとりあえず、お義父さんお義母さんに報告するのはそれからにしよう。でもそれまでは絶対に無理をしないように」
「うん、了解」
子供ができた。
その日、夕食を終えて歯を磨いている間も、入浴している間も、ベッドに入って眠りにつくまで、ずっとただそれだけを考えていた。
この世界は終わりに向かっている。
その事実は何一つとして変わっていないのに。
それが分かっていても、僕は、僕らは。
何故。
未来を願わずには。
生きていられないのだろう。