五
瞼を開けると窓の向こうに真っ赤な空が見えた。
思わず目を覚ましてしまうほど驚いたけど、自分でも不思議なくらい動揺は残っていなかった。
振り返り、ベッドで眠っている彼女を見る。
何か寝言でも言わないだろうか。そうしたら夢の中で話すことができるかもしれないのに。
いや、でも今のままでもいいかもしれない。不便ではあるけど。
腰を上げると腹部に乗っかっていた携帯電話が滑り落ちた。拾ってポケットに入れてから窓の前へ移動する。
燃えているように真っ赤な空、街並み。
夢の中の紅い花。
好きな花。
この世界にも在るのだろうか。
在ったとして見付けられるだろうか。
見付けられたとして好きだと気付けるだろうか。
気付いたとして、ずっと好きでいられるだろうか。
それは途方もない奇跡のように思える。
そんな思考を断ち切るようにバイクの音が響く。窓の下を覗くと二台のバイクが廃ビルの横に停まった。人影は三つ。微かに聞こえてくる声には覚えがあった。
そっと窓を閉めてからその場にしゃがんで息を殺す。今度は心臓も鼓動を速めた。
足音、話し声、笑い声。
赤く燃える室内。
直に世界は暗闇に閉ざされる。
だから、それより先に瞼を閉じた。
不良達が帰るのを待っていたせいで、自宅に戻った頃には日付が変わってから二時間以上経過していた。
通路灯に照らされた僕の部屋のドアには紙が貼られていて、そこには『明日もう一度出社すること』と上司の名前付きで記されていた。剥がそうとした手を止め、見なかったフリをしてそのまま部屋に入る。
着替えてベッドに横になるとあっという間に眠気が襲ってきた。
夢は見なかった。
目を覚ましたのは翌早朝。ドアを強く叩く音で目を覚ましたが、上司の怒鳴り声が聞こえてきたため二度寝を決めた。
そして次に目を覚ましたのは正午過ぎだった。二度寝をするまでにぼんやりと考えていたことを実行すべく荷造りを始める。旅行バッグなんて使うのは大学の卒業旅行振りだ。あの頃の友人とは卒業してからもしばらくは連絡を取っていたけど、休みが取れずなかなか会えずにいるうちにいつしか途絶えてしまった。
バッグを肩に掛けて部屋を出る。鍵を閉める際、ドアに靴跡が残っていることに気付いた。蹴破られなくてよかった。
大通りに出たところを通りかかったタクシーを捕まえてカプセルホテルへ移動。とりあえず正式に退職となる二週間後まではここで暮らそうと思う。終電を逃した時なんかは駅前のカプセルホテルに泊まったりしていたから勝手は分かっている。
連泊したい旨をフロントに伝えると運良く二週間分の予約が取れた。二週間の終盤はお盆休み間近ということもあって空部屋があるかだけが心配だった。
荷物をロッカーに置いて行ってもいいかと聞くと快諾をもらった。チェックインは午後三時からのため、あと二時間以上時間を潰す必要がある。
財布だけ持ってホテルを出る。何気なく左右を見ると、周囲が背の低い建物ばかりということもあって右側遠方に廃ビルが見えた。
「あちらにはあまり近付かれない方がいいですよ」
その声に振り返るとスーツ姿の初老の男性が立っていた。背は低く、側頭部にのみ残った髪は真っ白。人のよさそうな円らな瞳が眼鏡の向こうで笑っていた。この人も利用者だろうか。
「そうなんですか?」
「夜になると血気盛んな若い人達が集まるそうです。今は夏休みでしょうから昼夜問わずでしょうかね」
「そうなんですか」
そうか、今は夏休みか。それならあの不良達が平日の昼間にあんな場所にいてもおかしくない。むしろおかしいのは僕一人だけだったらしい。
「随分古い建物のようですが、いつからあるんですか」
僕が子供のころには廃ビルだったから二十年くらいか、と頭の中で自答する。
「そうですねぇ……、もう、二、三十年になりますかね。以前までは他にも古い建物があったのですが、その間にそれらも少しずつ取り壊され、とうとうあのビルだけになってしまったわけです」
「そうなんですね」
「子供達なんかはああいう建物に興味が惹かれるようで、勝手に入って怪我をするなんてことも前々からありましてね」
「それは血気盛んな奴らに?」
「あぁ、いえ、廃ビルの中は割れた窓ガラス片等が散乱していたりしますからね。少し転んだだけでも流血沙汰になったりするわけです」
「なるほど」
顔の絆創膏を見られているような気がして、身体ごとビルへと向ける。
「取り壊す予定はないんですか」
「えぇ、ありますよ」
聞いておきながら、心のどこかである筈がないと思っていたのだろう。その返事に思わず振り向いた。
「あるんですか?」
「えぇ、はい。確か秋頃だったかと思いますよ」
「今年の?」
「えぇ」
「そうなんですか」
彼女はこのことを知っているのだろうか。
男性と別れてから二十分ほど歩いたところにあった定食屋で遅い昼食を済ませる。それから大型スポーツ店に行き、アウトドアコーナーに売られていた寝袋の中で中の上ほどの値段のものを購入した。帰り道にあったスーパーで必要な小物を買ってからホテルに戻るとちょうど午後三時になった頃だった。
チェックインを済ませ、荷物などを置いてから寝袋片手にホテルを出る。
廃ビルには十分で到着した。昨日不良達がバイクを停めていた場所に何もないことを確認してから建物内に侵入する。
三階のあの部屋にはいつも通り彼女の姿があった。ベッドの横に広げた寝袋の上に腰を下ろしサイドフレームにもたれかかる。この角度からだと窓には空しか映らない。薄い雲が漂っている青空だ。
「ここは秋には取り壊されるらしいよ」
空を見上げながら口にする。微かに聞こえる寝息に変化はない。
「そうしたら君はどこへ行く?」
振り返り、彼女の寝顔を見ながら問う。
「僕はどこへ行けばいいと思う?」
当然返事はない。分かっていたことだ。
そっと手を伸ばして彼女の頬に触れた。熱い、と真っ先に思った。体温が低下するはずの睡眠中でこの熱さ。発熱でもしているのではないかと思うほど。しかし呼吸も乱れていなければ寝苦しそうな様子もない。きっと元々体温の高い体質なのだろう。
夢の中で触れた彼女の手も現実と同じように熱かった。
前と同じようにソファで目覚め、彼女に手を引かれ、僕がいない間に発見した病気の花を治し、そしてお礼なのかは分からないが食事をご馳走になった。
食事後、水遣りを始めた彼女を眺めながらたまに紅茶を飲む。雨を降らせればいいという僕の案は却下されたらしく、相変わらず如雨露片手に広大な花畑を歩き回っている。まぁ病気の花を見付ける必要もあるし、さほど手間は変わらないのかもしれない。というかこの世界の花に水を遣る必要があるのかも曖昧だ。僕が見ている限りでは、明らかに彼女が水遣りできないほど遥か遠くにある花でさえ綺麗に咲いているのだから。
何気なく反対方向、ソファの裏手に顔を向ける。そこにある花壇には新たに八本の花が追加されている。紅い花もその中にあった。同じ様な色の花がないため一目で分かる。
彼女の方へ向き直ると目が合った。くいくいと手招きされ、頷きながら歩き出す。
予想していた通り彼女の視線の先には病気の花があった。治してから休憩所に戻って椅子に腰掛けると再び彼女と目が合う。
くいくいと手招き。
「一緒に水遣りしてもいい?」
治療を終えてから聞いてみると彼女はこくこくと二度頷き、左手で麦わら帽子とエプロンと如雨露を軽く叩いて複製した。それらを受け取ってから水遣り開始。
こんなことをするのはいつ振りだろうか。記憶を辿るととうとう小学生の頃まで戻ってしまった。学校で育てていた朝顔以来だ。それすら途中で面倒くさくなって枯らしてしまった記憶がある。
ときたま見つかる病気の花の治療をしながら水遣りを進める。二人掛かりでも全ての花に水を遣ることは不可能だが、ある程度やったところで彼女は満足したらしく、大きく腰を伸ばしながら鼻から長めの息を吐いた。
「今日はこれで終わり?」
彼女は頷いてから『お疲れ様』というように深々と頭を下げた。
「うん、お疲れ様」
こんなに清々しい気分でその言葉を口にしたのは一体いつ振りだろう、なんてふと考えた。
二人で休憩所に戻って紅茶を飲む。
「紅茶好きなの?」
彼女は頷いてから自らの鼻を指先で軽くつついた。
「匂いが好き?」
首肯。
「味は?」
首を傾げる。味はよく分からないということだろうか。まぁ正直、僕も紅茶の味はよく分からない。少し苦みがある、くらいだ。これはなんという銘柄なのだろう。尋ねても彼女に答える術はないだろうが。
再度紅茶を飲む。空になったカップを置くと、彼女がティーポットを持って注いでくれた。
彼女の手にちょうどいいくらい小さなティーポットだ。でもきっと中身が無くなることはないのだろう。魔法のティーポット。
「君はここが夢の世界だって知ってるの?」
彼女は否定も肯定もせずに首を傾げた。
「いや、なんでもないよ」
ふと思ったのだ。もしかしてここは彼女の夢の世界なのではないかと。
彼女が使える魔法のような力、この世界のことを以前から知っているような様子、そしてなにより僕一人ではこの世界に来ることができないという事実がそんな妄想を生み出した。
そう、妄想だ。
ここが彼女の世界で。
僕が呼ばれた側の人間だったら。
求められてここへ来た人間だったら。
多分それは、すごく嬉しいことだから。
彼女はカップをテーブルに置くと立ち上がり、花畑の中へと駆けていった。どうしたのだろうと思って目で追っていたが、彼女はなにをするでもなく視線を斜め下に向けたまま歩き回っていた。散歩だろうか。本当に花が好きなんだな。
穏やかな景色。
睡眠時に見る夢については未だに未解明な点が多いが、その内容にはその人の深層心理が関わっている、というのが通説だ。それを基に考えた場合、僕のこの夢はどんな心理から生まれたものなのだろうか。
一昨日の朝。目が覚めたら何もかもが面倒臭くなっていた。ベッドの中でぼんやりしているうちに携帯電話が間を置かずに鳴り響くようになった。マナーモードに設定してから再びベッドの中でぼんやり。頭は眠っているように動かないのに眠気は全く感じなかった。
そのうちに、このビルのことを思い出した。
そして不良達にリンチされて。
彼女に会った。
夢と現実で。
求めているのは僕の方なのだろう。
彼女に求めている。
変わらない世界を。
終わらない世界を。
そっと立ち上がって花畑に足を踏み入れる。
ある程度近付いたところで彼女が振り返り、僕の足元を指差した。その先を目で追うと一輪の花に目が止まる。僕が好きだといった紅い花だった。
「僕の好きな花だ」
彼女は頷く。
「この花は現実にもあるのかな」
彼女は再度頷く。
「そうなんだ。じゃあ、いつか無くなってしまうんだね」
不思議そうな表情をしている彼女と真っ直ぐ向き合う。
「僕らが生きている世界は終わりに向かっているんだ」
花畑の中心で彼女は首を傾げる。橙色の花飾りが小さく揺れた。
「比喩とかじゃない。そのままの意味さ」
彼女は口を動かした。声は聞こえないけど理由を尋ねていることは分かる。
「この廃ビルから一歩外に出れば嫌でも分かることだ。君にそれが可能なのか、僕には分からないけど」
花畑の中心で彼女は再び首を傾げる。
「その理由?」
彼女は首を横に振る。じゃあなんだろう。
「なんでこんな話をするのか?」
首肯。
「確かに、どうしてだろう。外のことなんか思い出したくもないのに」
少し考えるとすぐに答えは出た。当然だ。自分のことなのだから。
「多分だけど、僕はこう聞きたかったんだと思う」
なんとも情けない質問だと我ながら思うけど、
「『もし僕がこの廃ビルで死んだなら、この世界にずっといられるだろうか』」
彼女は首を横に振ってから悲しげな目で僕を見た。
「無理かな」
首肯。
「僕はいられるような気がするんだ」
彼女は先程よりも強く首を横に振った。長い髪が左右に振り回される。
「試してみようか」
彼女は首が飛んでしまうんじゃないかというくらいに否定の意思を示したかと思うと、僕を睨むように見てから両手をぱんと合わせた。
瞼を開ける。真っ暗な室内。横になったまま窓を見上げても月は見えなかった。
耳をすまして不良達の声が聞こえないことを確認してから上体を起こして隣に顔を向ける。
誰もいない。
何もない。
彼女も、ベッドも。
真っ暗な何もない部屋の中には僕がただ一人、広げた寝袋の上にいるだけだった。
これも夢か?
額に手を当てながら立ち上がり、窓を開け放った。寝汗を掻いた身体を風が冷やしていく。
遠くに見える道路には少数ながら車のライトが見えた。
にもかかわらず、胸の中にある焦燥感は消えてくれない。
夢じゃない。
現実だ。
普段と何も変わらない。
ただ彼女がいないだけ。
それだけで。
まるで世界が終わってしまったような。