四
母の日というのは花屋にとって一年で一番と言っても過言でないほどの繁忙期だ。四月に予約が入り始めるころから徐々に忙しくなり、一週間前からは日常の光景などどこにもなくなり、母の日が近付くほど店員達の余裕もなくなっていく。当日など、昔勤めていた人を臨時のバイトで雇っても人手が回らないほどだ。
「お疲れ様でしたぁ」
バイトの大学生が疲労困憊といった様子でお辞儀をする。
「お疲れ様です。今年は特に大変だったね」
「はい。補佐はまだ帰られないんですか?」
「うん、もうちょっとやりたいことがあって」
「補佐、最近家にも帰ってないんじゃないかって皆心配してますよ。ほら、お子さんまだ小さいですし」
「大丈夫。この繁忙期が過ぎたら休みを取るつもりだから」
「そうなんですか」
安心したように短く息を吐いてから、再度「じゃあお先に失礼します」と言って踵を返す。その背中を見送りながら、知らないうちに従業員に心配を掛けていたことを少し反省した。
バックヤードの自席に腰掛けて、目を閉じたまま長く息を吐く。一瞬眠りそうになって、慌てて瞼を開けて顔を左右に振った。
不意に、机の上でちかちかと光っている携帯電話が目に止まった。
『お疲れ様。今日お店に行ったとき見掛けたよ。顔色悪そうだったけど大丈夫?』
そんなに疲れているように見えるだろうか、と自分の顔に触れながら添付されていた動画を再生する。
今日買っていったものであろう花が生けられた花瓶をベビーチェアから眺めている娘。花を見て嬉しそうにしている様子が映されていたが、それよりも僕が気になったのは娘の頭だった。
見覚えのある花の髪飾り。
それを目にした瞬間、心臓が大きく跳ねた。
彼女が意思表示をする度に揺れて目に付いたものに酷似している。
気付けば妻に電話を掛けていた。スリーコールの後、数週間ぶりの妻の声が聞こえた。
『もしもし? どうしたの?』
「もしもし。えっと――――」
何と言うべきか。勢いで電話を掛けてしまったせいで言葉に詰まっていると、
『仕事終わったの?』
「うん。少し前に。まだ職場だけど」
『お疲れ様』
「うん。動画見たよ」
『あ、可愛かったでしょ、おめかしして』
「あぁ、うん。どうしたの、あの花飾り」
『今日私が花を買いに行ってる間、お母さん達と買い物に行ってたんだけどね、そこでしきりにあれを気にしてたから買ってあげたんだって。すっかりお気に入り。寝かせる時に外そうとしたらすっごく怒るくらい』
「そうなんだ」
『ねぇ、近いうちに帰ってこれそう?』
「え? あぁ、うん。そのつもりではいるよ。まだ日にちまでは分からないけど」
『そっか。難しいのかもしれないけど、あんまり無理しないでね』
「うん、ありがとう」
通話を終え、携帯電話を机の上に置いてから深く椅子にもたれて深呼吸をした。
偶然だ。
自分に言い聞かせるように目を開く。照明の灯りが眩しかった。
いつまで彼女の影を探し続けるつもりだ。そんなことをしている暇なんて、今の僕にありはしないのに。
大体、形こそ似ているものの、色が全く違う。
娘が着けていたのは赤い花飾り。
彼女は僕があの世界に行く度花飾りを変えていたけど、赤色は見たことがない。
青と、ピンクと、橙色の三色。
三色?
再度携帯電話を手に取って動画フォルダを開き、それらしいサムネイルの動画を再生する。
映し出されているのはプラスチックのカメラと、フェルトで作られた花畑。
花は三色。
青と、ピンクと、橙色。
偶然だ。
そう考えながらも頭のどこかで共通点を探している自分がいた。
真っ先に浮かんだのは紅茶。彼女と妻の唯一の共通点だったからだろう。
味は分からない、匂いは好き。
言葉でこそ聞いていないが、彼女は確かにそう言っていた。
紅茶はカフェインが多く含まれているため小さい子供に飲ませることは出来ない。
『一緒に飲めるのは大分先だなぁ』と残念そうにしていた妻のことを思い出す。
いや、こじつけだ。
こじつけか?
字を書けなかったこと。
子供がおままごとで使うような如雨露、スコップ、鋏。
彼女と同じ顔にもかかわらず不思議と感じた幼さ。
舌足らずな喋り方。
他にも、思い出せば思い出すほど。
ふと、動画を閉じて、撮影日時を確認した。
半月ほど前。
仮にそうだとして。
時間は、どうなっている?
今、どのタイミングの夢の中にいる?
いや、この際そこは重要じゃない。
彼女の身体を蝕んでいく黒い斑点が脳裏に浮かぶ。
あれは何を意味する?
僕の妄想か?
散っていく花、終わる世界。
あれは何を意味する?
鍵を手に取って店を飛び出た。車に乗り込み、急発進させる。
妻に連絡を、そう思いポケットに触れて、携帯電話がないことに気付いた。曖昧な記憶を辿ると、鍵を取る前に机の上に放り投げていた。また肝心な時に、と歯軋りする。
二十分ほどで妻の実家に到着すると、合鍵を使って玄関を開けて妻の寝室に駆け込んだ。
「わっ」と驚きの声をあげたのは、ベビーベッドを覗き込んでいた妻だった。
「えっ、どうしたの? 仕事は?」
「大丈夫」とだけ返してベビーベッドの前に立つ。娘は眠っているようだった。顔、衣服から覗く手足を見ていく。呼吸もしっかりしているようだった。
「何かおかしな様子とかはない? 体温が高いとか、下痢が続いてるとか――――」
「え? ううん、なにも。そんなことがあったらすぐ病院に連れて行くし……。どうしたの、急に」
「いや――――」
言うべきでない。自然にそう思った。
「少し、嫌な夢を見たから、心配になって……」
そう言いながらその場にしゃがみこむと、妻は心配そうな表情で背中をさすってくれた。
「疲れてるせいよ。そういう時って悪夢とか見やすいでしょ?」
「うん、そうかも――――――――」
しれない、と発することはできなかった。
視界が歪み、世界が傾く。
頭をぶつけたのが壁なのか床なのかすら分からない。
痛みも感じなかった。
ただ、声だけは聞こえていた。
妻の驚きの声。
義両親の足音と声。
そして、娘の泣き声。
まるで涙が降ってきたかのように視界は滲み、
そのうち、暗く閉ざされた。