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ねむるきみとねむる  作者: 野良丸
第二章
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 それから八か月後、予定よりも一ヶ月以上早く生まれてきた娘の体重は2000グラムに満たないもので、呼吸が安定していないことからも、出生後すぐにNICU――――新生児集中治療室に入れられた。産後十日で一足先に妻が退院することとなり、それからは病院へ通って世話をする毎日。僕も、店長が復帰したことや副店長の助力もあって定時で帰宅した後に病院へと通っていた。

 娘がNICUから保育器へ移ったのは出生から二週間が経った日のことだった。順調に体重も増えているし呼吸も安定しているから、と医師は言ったが、保育器の中で眠っている子供はやはりとても小さく、触れることにすら恐怖を感じるほどだった。

「そろそろ少しだけでも抱っこしてみれば? まだ怖い?」

 一緒に保育器を覗き込んでいた妻が僕を見ながら言う。

「怖いよ。多分、ずっと怖い」

 保育器の中に手を入れて、マッチ棒のような細さの指にそっと触れる。

 抱っこ自体は、NICUに入っていた時から、看護師立会いのもと短時間であれば許可されていた。

 それでも僕はまだ自分の子供を抱くことができない。それでも、最初は触ることすら難しかったから成長した方なのだ。

「もうすぐお祭りだよね」

 指先に感じる柔らかな感触に戦々恐々していると、妻が不意にそう言った。

「あぁ、うん。そういえばそうか」

 毎年この時期になると自然と思い出していたことなのに、今年だけは今の今まですっかり忘れていた。

「付き合ってから毎年行ってたのに今年からは無理だね」

 妻は少し残念そうに笑う。その表情には僕への気遣いも感じられた。

 祭りの時期、八月中旬は繁忙期だが、それでも毎年――――妻と出会う前から、ずっと行っていた。彼女との約束を果たすために。

「この子が大きくなってから行けばいいよ」

 でも、それももう終わらせる時が来たのかもしれない。元々、妻と祭りに行って花火を見た時点で半分くらいは約束を果たしたような気持ちにはなっていたし、子供を置いてまでしなければならないことではない。

 そう常識的に考えられるようになったことに、一抹の寂しさを感じた。


 結局、僕が娘を抱っこしたのは退院当日だった。今やっとけば、直した方がいいところとか看護師さん達が色々教えてくれるから、と妻に押し切られた結果だった。

 情けないことに、緊張のあまりその時のことは殆ど覚えていない。唯一覚えていることは、僕が抱いた瞬間娘が大泣きして「お父さんが怖い顔してるから」と妻や看護師さん達に笑われたことくらいだった。

 退院後、妻と娘は義両親のところでお世話になることが決まっていた。期間はとりあえず一ヶ月。妊娠していた頃と同様、僕は休みの日だけ顔を出すことになっている。

『花火だけでも一緒に見られない?』

 妻からそんなメールが届いていたのは祭り当日の朝だった。

『二階からよく見えるし』

 確かに妻の実家から花火を見ることは出来るだろう。だが、

『ごめん、難しいと思う』

 事前に休みでもとっていない限り、社員が――――それも仮にも役職持ちの人間が花火に間に合う時間帯に帰宅できるとは思えないし、この時期にそれができたらできたで売上的に非常によろしくない。

 案の定、その日マンションへ帰ったのは花火が終わって二時間以上が経過した頃だった。一人食卓についてコンビニ弁当を食べながら、妻からのメールに添付されていた写真を眺める。

 妻の実家の二階。遠くに見える花火と、それを小さな窓から眺めている妻と娘。

 赤ん坊は花火の音を聞くと驚いて泣き出すと聞いていたけど、少なくとも写真からそんな様子は見られなかった。あれくらい距離が離れていれば大丈夫なのだろうか。廃ビルで聞いた時はそれなりの音を感じたけど、あの頃の自分の感覚をどこまで信用していいのかも分からない。

 写真は三枚あって、一枚は二人揃って花火を見ている写真。もう一枚は妻がカメラを見ている写真。そしてもう一枚は、おそらく一向に花火から目を逸らさないのであろう娘の頬に妻がキスをしている写真だった。

 花火が好きなのだろうか。だとしたら妻と同じだ。

 僕は正直、あれ以来好きとは言えなくなった。

 でも嫌いにはなりたくない。

 娘が好きだというのなら尚更。



 退院から一か月が経ち、当初の予定通り妻と娘がマンションへ帰ってきた。もともと仕事人間で家事が苦手な妻にとって育児との両立はとても大変なようで、口では「まぁ分かってたことだから」と言っていたが、娘が夜に泣いていても目を覚まさないほど疲れ切っていることも少なくなかった。

 おむつの交換や家事を代わりにするくらいならできるが、お腹を空かして泣いている時はどうしようもないし、夜泣きをしている時に抱っこしても僕が相手ではなかなか泣き止んでくれないから困ったものだった。

 そして娘が生まれてから八か月が経った頃、妻と娘はまた実家へと戻ることになった。

 理由は僕の仕事が更に忙しくなり、ろくに帰宅できないようになったから。再び店長の容態が悪化し、入院とまではいかずとも自宅で安静にしなければならない状態になったのだ。もともと、そういう可能性を見越して店長補佐として働いていた僕が代理をすることになるのは当然のことで、慣れない仕事に手間取って職場に泊まったり、自宅に帰ってもずっと仕事をしたりしている日も少なくなかった。

 特に最近夜泣きが酷い娘のことや妻の負担や疲労を考えると、そんな生活を続けさせるわけにもいかなかった。

 そして僕は以前にも増して仕事に打ち込むようになった。妻と娘がマンションにいるうちはほぼ毎日帰宅はしていたし、週に一日は休みもとっていたが、いつしかそれすらなくなるほど。今は仕事を、と、それだけが僕の頭を支配していた。当然、家族のことを完全に忘れることなどなかったし、会えるものなら会いたかったが、今は仕事をすることが未来の幸せに繋がると考えていた。

 実家へ行くのは月に一度か二度。それにしたって丸一日いるわけではなく、他の用事で近くを通った時に少し寄る程度のものだった。妻も義両親もそんな僕に文句を言うどころか心配してくれていたし、見る度に大きくなって、ハイハイが上手になって、掴まり立ちが出来るようになっていく、そんな娘を見るのは嬉しい反面寂しいものもあったけど、それでも仕事を休む、減らすという考えには至らなかった。

 そんな僕の気持ちを察してだろう。妻はいつの頃からか、毎日のように娘の写真や動画を送ってくれるようになった。

『伝い歩き練習中』というメールには、掴まり立ちの状態から歩き出そうとして尻餅をつく動画が添付されていたり『お父さんに似て花が好きみたいです(泣いている絵文字)』というメールには、プラスチックでできたカメラのおもちゃと、フェルトで作られた花畑を並べて、娘がどちらを取るか撮った動画が添付されていた。ネタバレ通り娘は後者を選び、その後妻が「カメラ、オモシロイ」とカメラのおもちゃを持ってアピールを開始したが、娘はフェルト畑に咲いた三色の花を引っこ抜いたり植えたり、何を思ったか自分の頭に乗せたりするのに忙しく見向きもしていなかった。妻は項垂れていたが、隅っこに映っていたお義母さんは嬉しそうだった。


『母の日に花を買いに行ってもいい?』

 そんなメールが届いたのは四月末だった。店が忙しくなることを知っているからこその質問だろう。

『大丈夫だよ。僕が対応できるかは分からないけど』と送るとすぐに返信があった。

『じゃあ行きます(敬礼ポーズの絵文字)』

 それを確認してから携帯電話を置くと、間髪入れずにメールの着信音が鳴った。なんだろうと再び手に取る。

『忘れてた。今日の娘』

 ワンコみたいに。

『最近お父さんの写真を見せると不思議な反応をします』

 添付されていた動画を再生する。

 床に座っている娘に妻が写真を渡す。娘はそれをまじまじと見つめた後、周囲を確認するように顔を動かし、携帯を構えているであろう妻の方を見て言葉になっていない声を発した。

 再生を終えたタイミングで届いたメールには『お父さんに会えなくて寂しがってるように見えます。今の忙しい時期が過ぎたら、一回ちゃんと会いに来れませんか』と書かれていた。

 会いたいという気持ちはある。でも今はそれ以上に仕事を休むことへの不安が大きく、

『分かった。考えてみる』

 そう返すのが精一杯だった。




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