幕間:伝説を作った男の話
その男は一見何処にでもいる風貌だった。くたびれたシャツに継ぎ接ぎだらけのズボン。髪はぼさぼさ、中肉中背で、強いて特徴をあげるなら、その意志の強そうな青い瞳くらいだった。この男に自分の命運を預けるのはかなり不安だったが、迷っている暇はなかったので声を掛けた。
『頼む、乗せてくれ。追われているんだ』
男は私の言葉に反応すると、その青い目をすっと眇めて聞き返してきた。
『…どこまで』
『…っ、街の、南の』
私が最後まで言い切らないうちに、男はボラードに括ろうとしていた舫い綱を舟の中に投げ入れた。
『追われてんのはマフィアか』
『あ、あぁ。戻る途中で取引現場に遭遇してしまったんだ』
まだ遠いが、微かにモーター音が聞こえる。この古き良き街並みに似合わないけたたましい音の鳴る舟なんて、マフィアくらいしか乗らない。
『さっさと乗れ』
『わ、分かった』
マフィアと聞いても顔色一つ変えないこの男は、肝が据わっているのか、それともよく分かっていないだけか。少なくとも今はこの男に頼るしかない。
『身体低くして、へりに掴まってろ』
言われるがままにすると、一気に舟が加速した。通常、漕ぎ舟でスピードが出るには時間がかかる筈なのに、いきなり身体が前のめりになるくらいの速さだった。しかし、新式のモーターの方がすぐに追いついた。
『いたぞ!』
『あそこだ!』
動く舟の上では照準が合わないのか、マフィアは銃撃してはこない。だが向こうが追いついて舟に乗り込まれれば一巻の終わりだ。圧倒的不利な状況でも、男は焦る様子もなく一定の速度で漕ぎ続ける。
『頭、もっと落とせ』
不意に男が指示してきた。言う通りにすると、頭上すれすれを何かが凄い勢いで通り過ぎた。何か、ではない。オールだ。男はフォルコラからオールを外し、勢いよくオールを振り抜いたのだ。オールは建物の角に当たり、スピードを落とさず舟の進路を曲げた。驚いたのは私だけではなく、マフィアも同様で慌てていた。モーターのスピードを落とさずこの狭い路地を曲がることなど不可能だろう。そのまま奴らの舟は進んでしまい、見えなくなった。
『今のうちに、迂回しながら港へ向かう。南の方は多分押さえられてるだろうから、輸送船の船着場に行くぞ』
男は静かにオールを戻すと、複雑な水路を難なく進んだ。この街の水夫の頭の中には、水路の地図がしっかりと刻まれているのだ。
『ありがとう。おかげで仕事に戻れる』
『…そもそもこんな夜中にどこへ行っていた』
なんだかその物言いが父親のようで思わず笑ってしまった。実際、男の年齢は自分の父とそう変わらなさそうだ。
『幼馴染の女性に会いに。もう二度と会うことは出来ないだろうと、別れを告げに来たのだ』
男は眉根を寄せてこちらを見たが、すぐに前を向いた。僅かな光に照らされたその瞳は海の色に似て美しかった。
『…思い出は、残せたか?』
幾分温かなその声音に自然と頬が緩む。もしかすると、この男もまた大事な者との別れを経験しているのかもしれない。
『…あぁ。この胸に、しかと』
港に着いた時、ふと男の名を聞いてみたくなった。何となく、この縁はここで終わりではない気がしたのだ。
『貴方の名前を聞いても?』
『エンリコだ』
素っ気ないが、答えてくれる男は見かけによらずお人好しのようだ。朝日に照らされた男の横顔にもう一度笑い、私は船に乗り込んだ。
『エンリコ、良い名だ。私はアルベルト。良かったら覚えておいてくれ』
この後、エンリコはこの名を忘れる事など不可能な出来事に遭遇する。街の全責任者ーー総督|ドージェ|に招かれ執務室で渡されたのは一通の手紙と勲章、そして白銀のロザリオだった。何故そんな物を渡されるのか分からなかったエンリコに対し、総督は手紙を読めば分かると言った。促され読んだエンリコは頭を抱え、亡き妻に対応を乞いたくなった。
『勇敢なるカスケードの水夫へ
貴方のおかげで私は無事司教の任につくことになった。貴方の勇気と素晴らしい技量に敬意を評し、私が洗礼の折に授かったロザリオを贈る』
後にこの出来事は総督の下で大々的に評され、街の伝説になってしまうこと、また助けた男が異例の早さで出世し枢機卿まで登り詰めてしまうことなど、この時のエンリコには知る由もなかった。
大変長らくお待たせしました。今回は幕間ですので人物紹介はありません。暖かい目で見守っていただけると助かります。