支配者の椅子
「無事に終わったか?」
「うん、お待たせ」
表に出るとレオナルドが待っていた。カルロは端々から女性がこちらを見ている事に気づき溜息をついた。
「どうした、元気がないな」
「あんたは一度自分の顔を鏡でよぉく見てみるべきだよ」
「どういう意味だ?」
後ろからなんだかんだと追及してくるレオナルドを無視してカルロは先に進む。この後は教会広場でミケーレと待ち合わせる事になっているのだ。目的地に着くと、背後の男と同じく女性達に見つめられながら平然としているミケーレがいた。やはりこの二人は一度自分の顔をちゃんと確認すべきだとカルロは頭を抱えた。
「よ、終わったか」
「これから何処に行くつもりだ」
「俺ん家」
ミケーレの発言にカルロ達は思わずギョッとした。怪盗が自分の根城を明かしても大丈夫なのだろうか?
「何ボケっとしてんだ。さっさと行くぞ」
長い足で勝手に歩き出した男にあわててついて行くと、意外なことに彼は商業地区へと足を向けていた。多くの屋台や路面店が軒を連ね雑然とした道をすいすい進んで行くものだから、迷子にならないよう必死でついて行く。まぁ周囲の人間より頭一つ分でかいので見失うことはなさそうだが。
やがて坂の上に差し掛かると、カスケードの美しい湾が眼前に広がった。ウミネコがいつものように忙しなく飛び交い、潮風が頬を撫でていく。ぼんやりと眺めていると、レオナルドが肩を叩いた。前に向き直ると、既にミケーレは坂の下に降りていた。階段を下り、防波堤に沿って歩くとその先にあるのは貿易会社の倉庫が立ち並ぶ経済特区のはずだ。
「着いたぞ」
トンと踵を鳴らし男が止まった場所は特区の中でもトップクラスの貿易会社、コンタリーニ商会の建物だった。
「おかえりなさいませ」
エントランスに入るや否や従業員が整列してミケーレに頭を下げた。その様子に唖然とするカルロだったが、彼は平然とその中を突き進む。豪奢な調度品溢れる廊下を進み、行き当たりの部屋のドアを開けると、中央に艶のあるデスクと革張りのソファのあるどう見ても応接室と思しき内装が揃っていた。無人のデスクにつかつかと歩み寄ると、立派な肘掛椅子に躊躇なく座り、男はデスクの上の伏せられていた札をクルリと立たせた。
「ご挨拶が遅れて申し訳ない。海運会社コンタリーニの社長、ミケーレ・コンタリーニだ」
不敵な笑みを浮かべ男が指でつついた札には、紛れもなく『プレジデンテ』--社長、と書かれていた。
「…ありえない」
応接室の長椅子の端でレオナルドが力なく呟いた。天井を呆然と見つめる様はさながら死人のようだ。カルロも同意見だが、一方で色々納得したのも事実である。
「マナーも賭博も慣れてたのはこれが理由だったんだな」
「教えたのはアタシじゃないけどね」
少し低めの女性の声に慌てて振り向くと、妙齢の美女が立っていた。柔らかく波打つ黒髪と、相手を小馬鹿にするような笑い方は何処か見覚えがあった。
「どちら様?」
「見て分かんない?馬鹿息子の母親だよ」
そう言って彼女は今は不在の社長席を指さした。カルロ達は思わずデスクと美女を何度も交互に見比べた。言われてみれば確かに顔の造りはほぼそっくりだ。
「ツェツィーリア・コンタリーニ。ツェツィで良いよ」
「何勝手に入ってんだ。楽隠居のくせに」
ツェツィと名乗った女の横にいつの間にか戻ってきていた部屋の主が立っていた。こうして並ぶと親子というより姉弟に見えるから不思議だ。
「船出すんならアタシの承認がいるだろ。持ってきてやったのに随分な言い草だねぇ」
「面倒くさがるならとっとと寄越して完全引退しろよ」
母親の手の上でポンポンと転がされているのはどうやら承認印らしい。つまりツェツィは会長ということか。
「あれ?」
「どうしたカルロ」
「会長はお父さんじゃないんだな、と」
カルロの問いにミケーレは意味深な笑みを浮かべた。母親が出てきても父親の話をしない辺り、病床の身か死別したかのどちらかだろう。カルロも身内のいない人間なので、それ以上尋ねるのは気が咎めた。
「…生きてるよ」
「え?」
「ここに居ないだけでな」
そう言ったミケーレは応接室の窓を向いていた。何もかも卒なく熟す男の、欠けた部分が垣間見えたような気がした。