四話→早速
天より天に太陽が鎮座し、数多の生物を一番高いところから眺める真昼時。学校の校庭では、未だ無邪気な男子たちが汗をかき、校舎内では涼しげな女子達が流行りに疎ければどこから引っ張り出してきたかも分からない話題で盛り上がっている。
一方、汗をかくことを嫌う男子から、流行など疎いどころの話ではない女子となった僕は、校庭でも校舎でもなく、体育館裏にいた。
果たしてなぜ、日も人の声も届かないような場所にいるのか。僕は、ある一人の女子生徒に呼び出されてここへ来たのだった。
その子の名前は──分からない。分からないが、面識はある。といっても、部活の後輩などではない。彼女が廊下で教材やプリントなどを散らかしてしまい、困っていたところへたまたま通りかかった僕がそれらを拾ってあげた──というのが、最初の出会いだ。かといって、そのときの僕は、学校で習う程度の道徳を、律儀に行動に起こしただけ。特別、彼女のことを意識しているわけでもなければ、そもそも同級生どころか同学年ですらなく、これがお互い初の顔合わせのようなものだったので、関係としてはまったくの赤の他人であった。ところが、彼女としてはこれが"運命的な出会い"であったらしく、のちに廊下ですれ違えば花咲く笑顔で挨拶してきたり、またドジったところを偶然助けてあげれば、感謝とともに「新立先輩も何か困りごとがあれば私に頼ってください!」と言うほど(なぜ僕の名前を知っているのかは不明)僕を慕ってくるようになった。挙句の果てには、バレンタインデーに、どんな手を使ったのか僕の家を突き止めてまで僕に手作りのチョコを渡しにきた。
僕としても、悪い気はしなかった。今はともかく、少なくとも先週までは男だったのだから、ちょっとしたことで後輩の女子に慕われている状況は、夢にも見た光景ではあった。そろそろ頃合いを見計らって、互いの親睦を深めにいっても遅くはないだろう──とも考えていた。
その矢先が、これだ。
今朝もその子は、わざわざ教室に来てまで、僕に挨拶をしに来た。僕は、性転換の事実を悟られないよう、いつも通りに返事をしたつもりだった。しかし、そこはさすが僕ごとき平凡人の唯一の追っかけといったところか、すぐさま僕の異変に気づいたらしく、心配そうに首をかしげた。
『……先輩、どうかしたんですか?』
『え!? あっいや、どうもしてないよ?』
無論、僕の動揺ぶりを彼女が見逃してくれるはずも無く。
昼休み、ここへ呼ばれたのである。
そして、待っていた彼女に、壁に追いやられ、
「先輩、どうして女の子になっちゃってるんですか?」
と、真顔で問い詰められているのが現在。
「……これは、俗に言うイメチェンというも」
「誤魔化そうとしないでください」
「……そういえば、君の名前って」
「誤魔化そうとしないでください」
「…………やっぱ、誤魔化せないよね」
「当たり前です。他の人は鈍いからともかく、ずっと先輩を見てきた私の目は騙せませんよ」
「……さすがだね」
「嬉しいですけど、誤魔化そうとしないでください」
嬉しいんだ……。というか、これは想像以上にとてつもなくヤバイ状況。というか、終わってる状況。
意外とクラスメイト相手にはイメチェンで通せたからなんとかなるかと思えば、まさかこの子の存在を忘れていたなんて。友達以上の関係になりつつあった分、すぐに勘付かれてしまった。というか、確信している。だって『もしかして』じゃなくて『どうして』だもの、完全にもう僕が女になっていることを確信しちゃってるよ。
「どうして女の子になっちゃってるんですか?」
再度、問われる。
どうしようもない。誤魔化しようがない。この子を欺く術を、今の僕は持ち合わせていない。
「…………こ、これは」
「こっちを向いてください」
足元を見そうになった顔を、両手で強引に上げられる。
目立つのは好まないのか、両目を隠すように長い前髪。そしてその間からちらりと見える、僕をまっすぐ見つめる、黒く、透き通った瞳。両こめかみの髪は、小さな胸の前で結ばれ、後ろ髪は、瞳と同様、綺麗な腰のラインを隠すように長く伸びていた。小柄で、華奢ながら健康的なその身体は、学校独特の制服に包まれていた。
「新立先輩」
「……」
「新立先輩」
呼ばれるたび、僕の視線は、彼女の瞳に吸い寄せられる。
いつの間にか聞き慣れていた、細く、それでいて力強い声は、優しく、それでいて退く気がない彼女の心を表しているようで。
「新立先輩」
沈黙で答える僕の心を、何度も振り返らせるその呼び声は、その言葉無しに、僕にこう言い聞かせているようで。『驚かない。先輩を傷つけるようなことは絶対にしないから、言ってみてください』と。
「…………ぼ、僕がさ」
「…………」
「こうなった、理由はさ」
「理由は?」
「……正直、分からないんだ、さっぱり。今朝起きてみたら、いつの間にかこうなってただけで」
「…………」
「これで、納得してくれる?」
彼女は、僕の頬から手を離し、俯いた。
言ったとおり、後の言葉を選んでくれているようだった。僕が話している間も、決して表情を崩さないでいてくれた。
彼女は優しい。そして正直だ。少なくとも、僕なんかよりは。
「……それじゃあ、先輩は、なりたくてそうなったわけじゃないんですよね?」
「当たり前だよ!」
誤解は避けたい。故に、これだけは即答。
「……なんだ」
「え?」
不意に彼女が顔を上げた。それまでに数秒を要したのにもかかわらず、彼女は笑みを浮かべていた。
「なら私が、新立先輩を好きでなくなる理由はありませんね」
それは、安心したゆえの笑みだったらしい。
「先輩がなりたくてなったっていうのなら、さすがの私も引いちゃうところでしたけど、そうじゃないのなら別に構いません。好きでいられます」
「え、でも、事実、こうなって……」
「私、誰かの所為で被害を被ったら、かならずその人に、"故意"なのかそうじゃないのかを訊くんです。そして、答えによって対応を変えます。もしわざとだったら、最悪、一生縁を切ることがあります。勿論、時間がかかっても許すことのほうが大概ですけど」
「……わざとじゃなかったら?」
「最悪、一生縁を切ります」
「一緒なの!?」
思わず僕がツッコむと、彼女はふふと笑う。
「あくまで、最悪の場合、ですよ。そう、たとえば、第三次世界大戦勃発の中心人物だとか、私の初めてを無理やり奪っただとか、誰かが私を除け者にして堂々とテスト点一位を取る、だとか」
「なんか幅広すぎない?」
第三次世界大戦と初めては分かるけど……。最後のは完全に嫉妬だよねそれ。
「多少の失敗ていどで、恨みを持ったり嘲笑ったり、なんてことはしませんよ」
「君自身、よく廊下でプリントとかぶちまけてるもんね」
「そ、そそそれはいま言わないでください!」
指摘すると、彼女は顔を赤くして僕の頭をぺちぺち叩いてきた。さっきまでクールだったのに、小動物に見えてくる。おまけに、こんな子に簡単に頭を叩かれるくらい背が縮んだ自分が悲しくなってきた。
「と、とにかく、それは、被害や不幸を別の人が被ったときも同じなんです。先輩はもともと女の子になりたくて、わざとなったわけじゃない。それだけ分かれば、私は先輩を許せるんです」
腕を組み、すぐにまた冷静を取り繕う彼女。
さすがに恥ずかしい過去を語られると慌てるようだが、僕が性転換した事を知ってもまったく驚きを見せていないのは確かだった。
親の教育の賜物か、それとも元来の性格なのか──彼女は、物事を冷静に見つめる眼とそれを受け止める器を持ち合わせているらしい。姉がいなければすぐさま現実逃避する僕なんかより、よっぽど立派だ。
「君って、良い人だね」
「ありがとうございます。嬉しいです。せっかく好きな人に褒めてもらったんですし、何も出さないのは失礼ですよね」
「なにが出るのかな」
「母乳が出ちゃいそうです」
「へぇ……、えぇ!?」
「冗談に決まってるじゃないですか。真に受けないでください」
いや、分かってるけど! 真に受けたつもりではないけど! 君みたいな子がそんな冗談を吐くことにびっくりしたんだよ!
「私だって冗談は言いますよ。それに、そもそも私の貧乳で白濁液なんて作れるわけないじゃないですか」
「白濁──って、今さら危ない単語を濁しても意味無いよ!」
「私の貧乳でぼ」
「わざわざ言い直さなくていい!」
「それより先輩」
「え、この流れここで終わりなの!?」
「じゃあなんですか、先輩はまだ私の貧乳を虐げたいんですか? これでもすごい気にしてるんですからね!」
「気にしてるんだ……、いやそうじゃなくて! 別に君の胸をどうこう思ってたりしてないから!」
「じゃあ先輩は巨乳がいいんですか?」
「え、そりゃもちろん大きいほう」
「うわーん! 大好きな先輩に貧乳蹴られたー! 心を弄ばれたー!!」
「は嫌いかな! 小さいほうが好きかな! うん、むしろ小さくないと許せないって感じ! だから泣き止んで!!」
しまった。この子、想像以上に厄介だ。そして楽しい。
「それで先輩、言いたかったことなんですけど」
「え、あっうん、何?」
いきなり泣き止むのか……。
戸惑う僕を余所に、彼女はさっさと僕に振り向く。
「私は先輩の名前知ってますけど、先輩は私の名前、知らないですよね」
「……あぁ、うん」
恥ずかしい話、彼女の名前は苗字すら知らない。
関係というのも、彼女が一方的に僕へ寄ってきたようなものなので、まだ友達とはいえないのかもしれない。
ただ、それはいま知ることができる。
お互いの事をよく知らぬまま、バレンタインデーチョコを寄越してきて、まったく段階を踏まず恋人の関係になりつつあった以前と比べれば、これは進歩といえるだろう。ただ、名前を聞くまでの経緯が、大分不本意というか、情けないものではあるが。
「……私は、私の名前は、優月神奈っていいます」
少しもったいぶって、彼女は名乗った。
優月、神奈さんか。
「いい名前だね」
「ありがとうございます。嬉しいです。また褒められちゃいました」
「今度は、何が出るの?」
「いいえ、出るというよりは、生まれそうです」
「生まれる?」
「子どもが」
「へぇ……、えぇ!?」
「冗談に決まってるじゃないですか。いい加減、学習してください」
「だから、地味に笑えない冗談を言うのはやめてよ!」
「そこは無理にでも笑うのが男の人です」
あぁ、状況が状況なだけに、嫌に心に深く刺さる!
「っていうか、優月さんって、意外とそういう冗談言うんだね……」
「何言ってるんですか。私だって、こんな冗談言うのは恥ずかしいですよ」
そう言いながら彼女は僕から顔を逸らすが、その頬はたしかに赤かった。
平然と言い放つならまだしも、本当に恥ずかしいくらいなら、無理して言わなければいいのに……。
「それと先輩」
ぱっと振り向いた優月さんが、僕の元へ歩み寄ってくる。そして、周りには誰もいないのに、あえて小声で耳打ちしてきた。
「私、先輩に言ってましたよね」
「……え?」
「ほら、廊下で私がプリントとか落っことしちゃったのを二回拾ってくれたとき──『先輩も何か困りごとがあれば」
「私に頼ってください』?」
「そうです。私は先輩の頼みであれば、なんでも引き受けますよ」
微笑むと、優月さんはまた僕に背中を向ける。
声をかけてください、という事だろう。
思わず苦笑いしてしまいそうになる──が、困っているのであれば、困っている表情をしなければ。僕は、できるだけ困った表情をして、彼女に声をかけた。
「その、優月さん」
「はい。なんですか、新立先輩?」
振り返り、首をかしげる優月さん。
「ちょっと、というか、すごい困ってるんだけど……、助けてくれない?」
僕の救いを求める手を、優月さんが払いのけるはずがなかった。
「もちろんです!」