四十六話→お礼
お久しぶりです
今朝もまたうんざりといった顔をした女の子の赤い舌から一日が始まる。
目覚ましの音が耳から耳へ抜けていた以前から、今や姉より早く起床することもあるほど生活リズムが整いつつある。枕に散々弄ばれた髪を梳くのもすっかり板につき、直近は朝の時間に余裕ができてきた。その中ですることといえば、朝食を作る姉を気まぐれに観察することくらい。
姉がいつも早起きして家事をしてくれている間、僕はいつも寝呆けていた。容認されていたことではあるが、こうして姉の姿を見ていると何となくいたたまれない。せいぜい感謝のひとつでも伝えたいが、気持ちは言葉にならないまま足元だけが落ち着かない。
「今日も早起きだね」
姉としては、そんな冷やかしにもなりきれない妹が隣にいるだけでも嬉しいらしい。
右手の菜箸でフライパンの上の卵をほぐしながら、腰にあてていた左手で前髪をすくわれた。
「早く寝るから」
僕が顔をそらすと、今度はその指の背が頬をなぞる。甘んじて大人しくしていると、やがて手のひらがおもむろに頬をなで始めた。姉の口角が上機嫌に歪んだ。
「昨晩は神奈ちゃんと話してなかった?」
「優月さんが寝るから僕も寝ようと思って」
「いいね、そういうの」
姉は微笑ましそうにつぶやきながら、揺るぎない手付きで皿の上を彩っていく。傍らのトースターで焼けた二枚の食パンを僕が回収しているうちに、姉は二人分の品を持ってテーブルへ向かった。二人向かい合って席に着き、手を合わせる。
「いただきます」
マーガリンと苺のジャムを控えめに塗ったトーストにかぶりつくと、悪くない気分がした。
「優月さん、……やっぱり大変じゃない?」
まばらな雲にかくれんぼするお天道様に目を細めながら登校する道すがら。
隣を優雅に歩く恋人に僕は思い切って声をかけた。
「家、離れてるでしょ。一緒に登校できるのは嬉しいけど」
彼女は今朝も迎えに来てくれた。
先日訪ねて分かったことだが、優月さんの家が僕の家から学校を挟んで真反対にあるというのはあながち嘘でも真でもない情報だった。真反対というほどではないが、少なくとも彼女が僕を迎えに来るためには通学路をまるきり外れなければならない。
彼女が始めたことだ。僕としても恋人と通学できるのはその日の活力に繋がるので、ありがた迷惑でない意思ははっきり表す必要がある。しかしながら、お弁当のことといい優月さんの負担がどうしても気になってしまう。
「私は先輩の方がよほど大変だと思います。この際お聞きしますが、先輩は女の子になって何日目ですか?」
「それは……」
性転換したのが先週の月曜日。今日は性転換してから二度目の火曜日。
「もう一週間くらいは……」
「『まだ』。まだ、一週間です。いいですか、先輩が女の子になってからまだ一週間しか経っていないんです。先輩にとっては長いようで短かったかもしれません。でもまだ十日すら過ぎてないんです」
「それはそうかもしれないけど」
「先輩にとってはいくつもの心変わりがあったと思います。いくつも心が折れて、折れそうになって、それでも私やお姉さんがいたから何とかなったのだと思います。でも数ある問題はまだ山積みなんです」
突きつけられる現実。
たたみかれられる諫言。
漠然とした物言いだからこそ耳を塞がずに聞いていられるが、ほんの数日前の僕ならこの場で優月さんに当たり散らしたかもしれない。僕のことを何よりもつぶさに見ているからこそ、優月さんは今ここで切り出したのだろう。その眼は、姉にも負けない情愛に満ちていた。
「……私が早起きするのはいつものことです。先輩に気にしていただくほどのことではありません」
前のめりだった語気が一歩引かれる。
「先輩はご自愛なさってください。時間が解決してくれる問題ばかりではないですけれど、でも時間はあります」
ようやくこの身体とも向き合えるようになってきて、優月さんのことや周りを気にかける心の余裕まで生まれてきたつもりだった。しかし僕が越えてきた山や谷は、過ごした時間に対してあまりに密で酷だった。突然の不幸にどん底に突き落とされた僕をすくい上げてくれたのは、今の僕を受け入れてくれる人たちの器だが、最終的に僕が前に進むためには僕自身が僕を認めるしかない。それを何より手助けしてくれるのは悩める時間であることを彼女は言いたいのだろう。
背中を押してくれていた彼女が、今度は焦燥する僕の手を引き止めてくれたのだ。
「……なんていうか、また諭されちゃった」
何気なく気遣ったつもりが、気遣われてしまった。
それほどまでに大事なのだろう。優月さんにとっても、好きな人の性転換とは。
「気にしないでください。迷惑になっていなければ」
「迷惑じゃないよ」
迷惑じゃない。優月さんがしてくれることは全部前を向く力になる。
「それなら私もそれでいいんです。どうしても気にかかるようなら、お礼の一つでも頂けたほうが私は嬉しいです」
「お礼……」
それを聞いて、とりあえず今すぐできることを考えてしまうのはあまりに安直だろうか。鞄の中のお菓子をあげるのは違うような気もするし、先輩としてしてあげられることを思いつこうにも僕は頭が悪い。先輩後輩の関係で浮かばないとなれば何だろう。友達。恋人。
恋人。
恋人か。
「…………?」
優月さんが不意といった様子で顔を伏せる。そうして向けられた目線の先で広がる景色を、彼女にしてはゆっくり認識するほどに、その小さな耳が沸騰していく様を僕はじっくりと見つめた。
「!? っ………、!?」
真っ赤な表情が、僕の顔と繋がれた手同士を鳥がついばむような速さで往復しつづける。彼女は理解すれどしきれないといった感情を声にもならない声で僕に訴えた。
幸い、人目が増える範囲まではまだ少しだけ道のりがある。優月さんが人目を気にする性格かは微妙だが、どちらかといえば僕の行動は彼女の初な乙女心にクリティカルヒットしたのだろう。優月さんは攻められると弱い。
「お礼って言っていいかわかんないけど……、付き合ってるんだし不思議じゃないでしょ」
「…………ひ、………」
「ひ」
「………………」
か細い一文字を最後に言語を失ったらしい優月さんは困惑した表情のまま前に向き直り、俯き加減のまま歩き始めた。僕も普段以上にその足並みに合わせて進みだす。
鞄の持ち手を固く握りしめる左手とは裏腹に、右手は僕の左手に包まれたまま微動だにしない。しかしそのふやけそうなほど上がりきった体温は異常なほど伝わってくる。それはやがて密着した皮膚から伝播してきて、僕の首から上までも熱くしていく。
一応これでも、手を繋いだのは二回目なのだが。
この大振りな反応からして、サプライズにはなっただろう。
こそばゆいのは僕も一緒だが、今はこの感触と、隣のしおらしい恋人を堪能していたいと思った。