四十五話→あの時から
「ゲームはあまりしませんね。アドベンチャーだとか、ストーリー性のあるジャンルは気にはなるんですけれど、私にできるか自信がないもので」
「やって慣れるものだよ。やり直せるのが魅力だからね、ゲームは」
「先輩は、ゲームはお持ちなんですか?」
「優月さんに合うかは分からないけどね」
今ならねだれば姉の財布の紐も緩みやすいかもしれない。僕の奸計に苦笑を返しながら、優しく諫めるのも同じスピーカー越しの優月さん。
当の僕は巻いた毛布を抱き枕にして寝台に横になっている。耳元に寝かせた携帯はちょっとした布ずれの音すら拾ってしまうのだが、通話の相手は快く容認してくれている。寝間着で寝転がっていることを正直に伝えてからは、むしろ僕が寝返って細かい息をつく度に、耳元で何か悶えるようなくぐもった声がかすかに聞えるのは気のせいだろうか。
街の音はすっかり夜の帳に攫われてしまったもので、顔の見えない恋人の声がよく僕の耳に響く。
今頃の姉は入浴中か。湯に残った僕の残り香を堪能していることだろう。おごっているわけではない。現に猿みたいな声が聞えてくるのだ、浴室から。通信料を犠牲に贅沢な耳栓もしたくなる訳である。
「優月さんにも勧めたいゲームはあるし、またおいでよ」
「ぜひ。お姉さんと加邉先輩とみんなで遊べたら、楽しいでしょうね」
先日四人で出掛けた際、優月さんと加邉も少し口を交わしたらしい。僕はその内容を知らないが、ふと目を配った時の二人の雰囲気は悪くなかった。面倒に見舞われた身内を一人抱えているという共通点がある以上、意気投合できる部分があったのかもしれない。
しかしながら、その日の別れ際に二人が僕に見せたあの庇護欲に満ちた眼は、僕の枯れ葉のようなプライドを人知れず吹き飛ばしたのだった。
とはいえ、それすらも今更なのである。
「二人きりの時間も欲しいけどね」
「……私は少し、先輩に付け入りすぎたのかもしれません」
「……だめ?」
「構いません。構いませんから、……先輩はきっともう眠いんですよね。そう言ってください」
今さら恋人に甘えるごときに抵抗はないのである。
自分が弱いのはとっくに思い知っている。こんな境遇なのだ。こんな境遇なのに誰かに認めてもらえる幸運に強がるのは、決して僕にできた真似ではない。一線などとっくに越えてしまっている。ならば甘えるまでなのだ。
「優月さんの声って、眠くなるね」
「それは先輩だけだと思います」
「電圧の低いときに聴けるの僕だけだもんね」
返答が途切れた。画面の向こうでは物音ひとつ立たないが、心なしか聞こえないはずの動悸が僕の鼓膜を揺らしているのは気のせいだろうか。
優月さんのキャラが日ごとに変わってきているような気がするのだが、なぜかこれを呟けば『先輩に言われたくありません』と言い返される未来が見えた。
「…………先輩、私だって、可愛いと思うものには目がないんですよ」
それは散々思い知った。でなければ、僕は今までのような恥辱を受けていない。
「ここだけの話、先輩を撫でるお姉さんを見てどれほど羨ましいと思ったことか」
恋人を着せ替え人形扱いするわりに、頭を撫でるという簡単な行為を思いとどまる理由が僕としてはよくわからないのだが。
「でも、優月さんの家で勉強会したときはふつうに撫でてきてたよね」
「あのときは私が先生だったので……、いいかなと」
普段は自分はあくまで後輩だからという引け目があるのだろうか。その点でいえば、僕は先輩でありながら、今の今までこれでもかというほど彼女に甘やかされているのだが。
「僕がいいよって言ったらそうするの?」
「い、いいいんですか?」
「すごいわかりやすく動揺してくれるね」
いよいよ自分の頭が疑わしくなってきた。そういうフェロモンでも流出しているのかもしれない。神様はいよいよ僕をどうしたいのだろうか。そのうちどこかの動物園にふれあい対象として展示される運命なのだろうか。園長はいまだに浴室でハッスルしている猿だろうか。とんだ逆転現象である。
「とっくにそれだけじゃ対価にならないほどの恩を僕に売ってるんだよ、優月さんは。してよとはどうしても言えないけど、無理やり撫でられて、たとえそれ以上のことをされたって僕は何も文句は言わない」
「先輩、一つ聞きますけれど」
突然、神妙な声色が聞こえてくる。
「諦めたわけではないですよね」
釘を刺されたことはわかった。
僕は優月さんの彼氏。
決して忘れてはならない。僕と彼女との間に存在している一番の事実。
決して忘れることはない。僕が僕を見失わないための一番の戒め。
「……勿論。僕のためにも、優月さんのためにも」
忘れられるわけがない。
僕の自我は、過去の僕を知り、なおかつ今の僕を認めてくれる存在がいるからこそ保たれているのだから。それは家族や優月さんや加邉のことだが、なにより僕がその第一でなくてどうする。
曲がりなりにも、僕が、今の僕を甘受できるようになったのは皆のおかげだ。だからこそ、僕がもう疲れたと過去をかなぐり捨てて楽になる道は、僕自身が許さない。
僕の性別を元に戻す方法。これが見つかるのがたとえ僕が死んだあとだとしても、僕はそれまで諦めるわけにはいかない。僕が男に戻るまでは。
「……安心しました。おかげで明日は、存分に先輩を可愛がられます」
「……僕はおいしいお弁当が食べられるならそれでいいよ」
「思わず張り切っちゃいますね」
声には出せないが。
優月さんに撫でられるなら、悪くないなと思った。
それは、優月さんの家で勉強会をしたあの時からだったのかもしれない。
お久しぶりです。