表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
44/48

四十二話→物憂い

 体感でいう一時間くらいの長丁場を経て、貴重な触れ合い対象としての触れ合い体験も、教室の扉の開閉音によって中断が告げられた。

 進入早々、担任が挨拶を口にしながら教壇に進むなかで、クラスメイトたちも着席していく。今まで自席に縛られていた僕も、ホームルームが始まるとなれば教室から飛び出すわけにもいかず、すでに飽和寸前の精神的疲労を二酸化炭素に溶かし込んで吐き出し、それから机に突っ伏した。

 その頭に、宥めるように隣人さんの手が置かれる。隠す気のないらしい他意は、しきりに僕の頭頂部を右往左往する手のひらからまるで流れ込んでくるかのよう。

 今となっては、当初に抱いていた複雑な感情も薄れ始めている。かといって、現在の心境も、容易に語れるような整然としたものでもないのだが。感情が左右されることが少なくなっただけでも幾分ましなわけで。


「さて、月曜日です。先生は週末の深夜アニメをうっかり録画し忘れちゃったんですけど……、めげずに今週も頑張りたいと思います。皆さんも張り切って、新しい一週間を乗りきりましょう」


 号令に従って生徒が立ち上がる中で、担任が懇願するように手を合わせた。


「あと先生の見逃したアニメを録画してる人がいたら、焼いて見せて欲しいなって……」


 礼を済ませて、生徒は着席する。

 担任が朝の連絡を始める中で、隣から肩をちょんちょんとつつかれた。机からあごを離して視界を右に向けると、隣人さんが円盤を僕に見せつけてきた。


「こんなこともあろうかと」


 その表情はさも誇らしげだった。



 担任によるゆるゆるな三限の国語授業も終わり、生徒は各々の昼を過ごしだす。

 僕も授業中に芽生えた眠気を頬をつねって追い出す。水滴が忙しく共食いしあう窓を横目に教材を片付けると席を立った。待ち合わせの場所へ向かおうと教室の扉を開けると、隣人さんと出くわした。


「おっとっと、今日も運命の人とディナーかな?」

「ランチだけどね。アニメは先生に渡せた?」


 隣人さんは満足げにうなずく。促されて階段の方角を見やれば、浮いた足取りで湿った廊下を歩む後ろ姿が見えた。


「そういえばね、もいっこ朝に渡しそびれてたのがあってね」

「先生に?」

「ううん、新立君に」


 右手を手繰り寄せられ、上を向いたその手のひらに、彼女のポケットから取り出されたものが置かれた。

 底に近い周囲が薄緑の茎で囲われ、その一点に黄色の小花が咲いた小さな袋で包装された贈り物。丁重に取り出してみると、それは白色の輪っかだった。


「新立君、髪長いの似合ってるし、個人的にはなるべく切ってほしくないから。……結んでれば、あんまり邪魔にはならないだろうし」


 なるほど、髪留め用のゴムか。

 隣人さんはもっともな理由に見せかけた願望をたらたらと述べている。

 一見して、ゴムに飾り気は見当たらない。数ある色から白を選んだあたりには素朴な疑問を覚えるが、追求するまでもないだろう。とはいえ、ご丁寧な包装から気遣いは汲み取れる。彼女も週末は僕のために家の外へ出向いたらしい。


「……お手数を」

「いいのいいの。私があげたかっただけだから。それでね……、よければ、使ってほしいなって」


 物欲しそうな瞳で見つめられ、もう一度贈り物に目をやる。

 決して、今の性別を悟られたわけではない。これはあくまで、中性的な男子として認められたに過ぎない。彼女らとしても、物珍しいがゆえに気にしているだけなのだろう。

 果たして、それだけなのだろうか。


「……ほんとに、これでいいの?」

「え、どうかした?」

「……ありがとね。次は体育だし、そのときに使わせてもらおうかな」


 隣人さんは嬉しそうに三度点頭すると、僕の横を抜けて教室に入った。背後の雨模様もぼやける笑顔で僕に手を振って。

 僕も肩越しに小さく手を振り返し、教室を出た。後ろ手に扉を閉めると、いったん袋にゴムを戻す。それから扉に軽く寄りかかり、天井へ向けてため息を吐いた。

 これでいいわけがない。このままではいられない。

 僕がそう思いつづけている限りは。


 常にポリ袋が鳴らされているかのような騒音が響いている。街並みは、天から降りる透明な幕に、その複雑な輪郭を半ば奪われているものの、頑なにそこに在るわけで。

 上靴はそのままに下駄箱から外へ顔を覗かせてみれば、途端に耳に袋が覆い被さったような感覚を覚えた。屋根からこぼれてきた雫が鼻先を幾度も掠めていく。

 しばらくそのままでいれば、やがて雨音は程よい距離から僕の鼓膜を揺らしてくれるようになった。

 するとようやく僕は聞きつける。

 それは、おだやかな息づかい。


「……一回くらい、僕に待たせてくれたっていいのに」

「お構いなく。待たされたつもりなんてありません」


 雨のなかでもしかと聞き取れる声。

 すぐ左の外壁の角から、優月さんが僕を覗きこんでいた。

 彼女は微笑んでから、僕に背を向けて歩き出す。僕もそれについていく。

 下駄箱を抜けて外壁を左へと辿った先。二回の渡り廊下を屋根とした場所が、今日の僕らの場所。

 雨の日ともなると、大抵の生徒が教室か食堂に会する。他に自分だけの場所を持つ生徒もいるだろうが、そこを選んだのは僕と優月さん以外はいまい。

 別に関係を秘匿にしているつもりはない。

 二人きりでいた方が落ち着く、ただそれだけのこと。

 この学校で、僕のこと(・・・・)を知っているのは、加邉と、彼女だけだから。


「優月さん」

「はい?」

「……優月さんはさ、……雨って好き?」

「どちらかといえば、そうですね。心が洗われるとはよく言いますけど、私はなんとなく分かるような気がします」

「……さすがだね」

「変な褒め方しないでください。照れるじゃないですか」


 照れるのか。


「先輩。先輩は、変に悩みすぎなんです。いえ、先輩の境遇は、いくら悩んでも足りないでしょう。でも、悩みすぎなんです」

「…………」

「私の言いたいことが分かりますか?」


 尻目にこちらを見やる優月さん。

 逃げてばかりだと思っていた。しかし、それは僕の主観にすぎなかったということだろうか。

 付きまとわれていたのだ。いくら僕が拒んでも、性転換はいつも僕の思考の中心にとぐろを巻き続けている。遠慮もなしに。

当然だ、事前申告も挨拶もなしにやって来たのだから。礼儀を知らないのだから、慮ってくれるはずもない。

 思考に呑まれるにつれてうつろになりゆく僕の視界を、彼女の動きにつられてなびく髪が占めた。


「……優月さんのお説教ほど、為になるものもないことは分かってるつもりだよ」

「変な褒め方しないでください。照れるじゃないですか」


 失笑しながらも、僕は彼女の髪にまとわりついている水滴を眺める。

 お弁当をいただく前に、まずはあれを拭いてあげることにしようか。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ