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四十話→猫

 週末明け。

 朝の時計は慌てんぼなもので、月曜日を迎えた憂鬱を発散する間もなく家を出てきた。

 すでに学校は間近。一本の並木道を生徒の川に流されていけば、そのうち校門に辿り着く。

 青天井にへばりついた光源は背後の遠い街並みから顔をのぞかせている。容赦のない日差しは不相応な衣服をまとった気概のない背中を押しているとも突いているともいえる。圧倒的エネルギーに圧されて背骨が萎えだした。そんな背中をつついたのは、今朝から爽やかなこの人の爽快な挨拶だった。


「おはようございます、新立先輩」


 今日も今日とて目元に艶のある黒い幕を降ろし、胸元を控えめなリボンで飾った優月さん。目が隠れているので表情は薄いように感じられるが、感情はその薄い唇と、そこから発された笛のように通る声が語っていた。


「……おはよ」

「大人しい先輩も悪くありませんけど、声はもう少し張りましょうか」

「おはようございます」

「はい、よくできました」


 拍手。

 変なところで大袈裟なのが彼女なのである。周囲に人気が無ければ、きっと頭まで撫でてきたことだろう。

 彼女の僕に対する扱いにもすっかり慣れてしまった。ただし、それは露骨な女性的扱いへの妥協であって、先輩なのに後輩に甘やかされている状況には、依然として複雑な心境は変わらない。現時点で拒んだ節が無い以上、満更ではないのかと問われれば否定できないのだが。

 事実、満更ではない。何だかんだ言って受容的なのは、お節介な姉を持った影響だろうか。自分で皮肉の一つを書き殴った付箋でも喉に詰まらせたい気分である。


「昨晩は眠れましたか?」


 優月さんが前髪を整えながら尋ねてきた。

 昨夜の電話を気にしているのだろうか。


「おかげさまでね」

「安心しました。寝不足は大敵ですからね」

「何の?」

「勉強の、です」


 そこは肌とは言わないのか。


「むしろ先輩なら心配いらないかと思いまして」

「どういうことなの……」


 ふと宙を舞う葉に目が釣られる。するとその左頬に、すこしひやりとした何かが触れた。左に顔を向ければ、僕の頬から手の甲を離した優月さんが微笑んでいた。


「やっぱり、心配いりませんね。先輩は今日も可愛いです」


 いいかげん聞き流すことを覚えてしまった僕は、冗談にあくびで返す。隣の口は不満げにとがっているが知らんぷり。

 この身体も不便を感じない程度には馴染んできたが、やはり己に似つかわしくない性別を抱えている事実はなおも僕を苛んでいる。慰めてくれる相手はあれど、この息苦しさに耐えうる器ははっきり言って持ち合わせていない。でなければ、人前で二度も泣きはしなかった。

 両腕を頭上に上げて大きく伸びをする。

 内心で自虐してはいるが、決して今の気分が最悪というわけでもない。

 現在の僕を知っているのは、僕だけではないのだから。

 

「今日も晴れたなあ」


 現在の僕を知っている人は、過去の僕を慕って、現在の僕を導いてくれている。


「お昼には雨が降るみたいですけどね」

「じゃあ昼はどこで過ごそうか?」

「食堂は人が多いですし……。下駄箱を出て右に自動販売機がありますよね、そこのベンチはどうですか?」

「いいね。屋根もあるし、決まりだね」


 会話が一段落ついたところで、ふと視界を小さな猫が横切った。彼は動く障害物たちの間を縫うように避けながら、瞬く間に姿を消した。

 朝から縁に恵まれたような気分になって、思わず口角が上がる。頭を占めるのは、僕が出掛ける直前まで抱っこを乞うてきた二匹の鳴き声。

 新しい家族を迎えてからは、やってきて間もない空間でまるで実家のようにくつろぐ鈴や桜を見て、気ままな二匹に憧れてしかたがない。こちらとしても、見様見真似で伸びをしてみたり、その様子を姉に盗撮されたりと退屈しない日々を送らせていただいているわけだが、いかんせん彼女たちを相手にしていると勉強が手につかない。

 僕のプライベートでぱんぱんなメモリーカードをへし折ってやろうと考えたこともあったが、姉のカメラを没収しようと鬼気迫っているところで足元をうろちょろされては、憎き変態の前ですら相好を崩さずにはいられなかった。その顔もまた激写されたわけだが、ペットのことを考えるとどうでもよくなってくる自分がいる。

 大した悩みも、猫といると大した悩みのようには思えなくなってくる。境遇に悩まされ、現実と願望の間をさ迷うのが馬鹿らしくなってくる。

 姉や優月さんに励ましてもらうのとは、また違った気の保ち方ができるのだ。


「先輩、鈴ちゃんや桜ちゃんは元気ですか?」


 妥協する口実にしているだけなのだろうか。

 まさか、そんなはずはない。

 たとえそうだったとして、僕がそれを自覚する術はあるだろうか。

 あったとしても、片っ端から捨て去っている。

 おそらくそれでいい。決して事態から目を逸らしているわけではないのだから。


「病気も持ってないみたいだし。元気だよ」


 大丈夫、諦めたわけではないし、諦めるつもりもない。

 ただ少し、ほんの少しだけ、悪くないと思いはじめただけだ。

 だってほら、いい人生経験じゃないか。


「大丈夫、心配しないで」

「ええ、はい」


 だからまだ、大丈夫。まだ大丈夫。

 僕は僕だ。見失わない限り、僕は僕なんだから。

 身体は違っても。声は違っても。髪の長さは違っても。身長は違っても。顔は違っても。

 性別は違っても。

 僕は新立吉海。きっとそのはず。


「……ねえ、優月さん」

「はい?」


 優月さんは僕に目を向ける。

 同時に、前方の路地から、先ほどの子猫が出てきた。彼は道路を駆け足で渡って、反対側の歩道に乗ると、民家の花壇に飛び上がり、ぐうっと伸びをして、空を見上げた。それから少しと経たず、また彼は歩み出した。

 よく見たら、少し鈴に似ている。


「僕って、僕だよね?」


 子猫は気ままにさ迷っている。


「勿論です」


 優月さんは即答した。

 追い風に吹かれ、その前髪が少し揺られた。その奥には、黒い瞳が居座っていた。

 僕は微笑む。


「そっか」


 花壇にはもう、小さな旅人の姿はなかった。

 きっとまだ、子猫は気ままにさ迷っている。

 そこに思考はないのだろう。

 余計だから。


「どうかしたんですか?」

「ううん、別に」


 戸惑いさ迷い物狂い、血迷った末。

 僕が憧れたのは、猫という生き物だった。

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