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三十九話→僕だけの

 同日。

 一線を越えたためかもはや小慣れてしまった入浴と夕食を終え、団欒も済み、現在は自室で就寝までを過ごしている。

 かといってくつろいでいるのかと問われれば、そうでもない。

 僕はベッドの上に正座し、携帯のスピーカーを右耳に当てて幾度目かの深呼吸を行っているのだ。

 無論、通話自体が初めてというわけではない。元父を除いた家族とは用件ありきで連絡を交わしているし、加邉に休日の暇潰しに誘われることも稀にある。

 今回ばかりは、相手が相手なのだ。

 恋人との初めての通話。

 いつも直接顔を合わせて会話しているのだから問題はないはず。しかしながら、通話越しだからと我を見失って下手なことを口走らないかという妙な不安が僕の肩を力ませるのだ。

 心配する必要がないことは分かりきっている。

 変なところで心配性なのが僕なのです。

 最も、過度に緊張している理由はそれだけではないのだが。

 意識はしていたはずなのに、不意に耳元の呼び出し音が途切れて鼓動が大きくなる。

 慌てるまもなく、スピーカーから聞こえてくる声。


『もしもし。新立先輩ですか?』


 電話越しゆえか、普段とは心なしか印象が違う。どこか気の抜けたような声音、しかしどこか堅苦しい口調。


「もしもし。優月さんだよね?」


 なんとなく聞き返してみる。

 彼女がくすりと微笑むのが聞こえた。


『夜分にどうかされました?』

「優月さんが寂しがってないかなと思って」

『言うようになりましたね。勿論寂しかったですよ、香波さんの弟さん思いには負けちゃうでしょうけど』


 相変わらず言いますね、お嬢さん。

 姉も姉で、もしこれを聞いていたら負けん気を発揮していたかもしれない。

 はたして、弟思いでない姉が女になった弟にメイド服を着させるだろうか。


『ところで、先輩』

「ん?」

『今晩のおかずがだいぶ残っちゃいまして、明日のお弁当はそれを詰めていくことになりそうなんですけど……』

「いいよ気にしなくて。用意してくれるだけで嬉しいから。気楽にね」

『そうですか? ああちなみに、先輩の好きな食べ物ってなんですか?』

「……えっと、ちくわかな」

『気を遣ってます?』

「半分」

『では今週中には私の手作りちくわがお弁当に登場すると思います』


 手間かかりまくりじゃないですかやだー。


「ムキにならないでよ。無理もしないで。優月さんのお弁当を食べれるだけで嬉しいんだよ」

『そう言われたら余計張り切っちゃうタイプなのわかりませんか?』

「優月さんの事だもの」

『偉いですね、先輩。でも女性を煽るのは感心できません』

「そうなの?」

『一般論です』


 そうなの?


『ああでも、私はむしろ歓迎しますよ?』

「遠慮します」


 その挑発には乗らない。

 それにしても、優月さんの声は不思議だ。

 その声が僕の名を唱えるたび、僕の中の僕が呼び起こされ、底のない心の底に巣食う黒きが日に照らされるような。照らされた黒きはしだいに浄化されていくようでしかしそれとは異なる変化ーーそれは、言うなればオセロの黒い駒が白に圧倒され、侵食されていくような感じーーを受け、最終的には僕の中の僕と一体化するような、そんな感覚を覚える。しかも、浄化された黒きと一体化すればするほど、僕の中の僕という存在が、徐々にいつかの僕から遠ざかっていっている気がしてならないのだ。遠ざかっていく感覚が、脳裏に焼き付いて離れないのだ。

 それらが正しい感覚なのか、正しい感覚の変遷なのかはわからない。

 少なくとも、これは僕だけが知りうる感覚であり、またこれを味わっている間の僕は悪い気分ではない。

 そんなことを思いなから、少女は、僕の部屋で僕の恋人と電話越しに会話しているのだ。

 正しいかどうかは別として、これが現実なのだ。

 この現実を受け入れるために、僕はこの一週間で何度の涙を流したことだろう?

 二度だ。

 僕の記憶が正しければ。

 

「……あ、眠い?」


 物思いに耽っていた頭の中に、恋人の控えめなあくびが割り込んできて我に返った。

 優月さんは続いて出そうなそれを噛み殺すような、締まりのない呂律で言った。


『失礼しました。……先輩の声って、ずるいですね。学校で聞く分にはなんてことないんですけど、夜とか電圧の低いときに聞くと眠たくなっちゃいます』

「電圧って」


 物の例えとはいえそれはどうなんだろう。


「……僕って、そんなに変わった?」

『はっきりとはいいませんけど、過去の先輩と直接見比べたら驚くどころでは済まないでしょうね』

「そんなにかあ……」

『癖というか、嫌味を感じないといいますか。あるいは、懐が感じられるといいますか。猫撫で声とはまた違うんですけれど──こう、もし先輩が話している途中で寝てしまっても、その声と顔には怒られない気がするんです』

「さすがに怒るよそれは」

『どういう風に?』

「……起きたら、デコピンとか」

『起こさないんですねえ……』


 だって授業中の居眠りの気持ちよさとか熟知してるタイプですし……。


『今日のところは通話が終わったら寝るつもりなので丁度いいんですけれど、勉強中に掛かってきたら試されてるようなものですね』

「出なくていいよ、そういうときは」

『いいえ、出ます。先輩ですから』

「……こんな彼氏をどうも。目をかけていただいた上に世話も焼いていただいて、大変感謝しております」

『まあまあ。卑屈な先輩も』

「かわいいって言いたいんでしょ。物好きさんもいたものだね」 

『あら、恋人が物好きでなければ先輩は可愛がられなかったとお思いなんですか?』

「誤認識でした。優月さんはそもそも恋人には目がないんですよね」

『愛でているんです。可愛がるという単語では足りません』

「それはそれは。さぞ愛でられる側も複雑な心境でございましょう」

『して、本当の心は?』

「ありがとう。励ましてくれて」

『先輩のためですから』


 今までとは違う感謝の伝え方にはなったが、お互い乗り気立ったのでよしとしよう。

 彼女は不思議な人だ。不思議で、実直で、強かで、一途な人だ。脆そうな見掛けに依らず、とても剛胆な人だ。頼りがいのある人だ。

 (うぶ)で攻めに弱いところはあるけれど、でも結局は彼女のもつ流れに流されてしまう。彼女は僕になるべく足並みを揃え、そこから一歩踏み出した位置から僕を導こうとしてくれる。

 変わってしまった身体、どこか新鮮味を帯びた五感に戸惑う僕がつまずかないように。

 姉とは異なる、謙虚な立ち位置を崩さず。

 尽くせることを、尽くせるだけ尽くしてくれる。

 そんな彼女に返せることは、さほど無いような気がしていた。返せるものなら返したい。でもここ一週間は、眼前の問題に思考を持っていかれて、まともに考えることすらできていなかったように思う。

 今のように比較的余裕のある頭でも、大した礼は思い浮かばないが。


『そろそろ寝ますね。良き睡眠導入剤をありがとうございました』

「あっ、待って」

『はい、まだ何か?』


 でも、もうちょっと知りたいなと思った。

 優月さんの事を。

 とはいえ。


「……その、優月さんの趣味とか、聞きたいなって」


 僕ごときに、人の内側に踏み込むことはまだ難しかったらしい。


『……先輩』

「は、はい」

『私のことを知りたいようでしたら、私の母乳の一滴でも飲んでからにしてください』

「はい、……えぇ!?」

『冗談です。本気にしないでください』

「しないよ! 断じて本気になんてなってないよ! 優月さんがまだ下ネタキャラ捨ててなかったことにびっくりしたんだよ!」

『何を言っているんですか。私だって頻繁に口にするのは恥ずかしいに決まってます』


 ああ、スピーカーの向こうで赤い頬を扇いでいる様子が目に浮かぶ。


『なにも今聞く必要もないでしょう。明日の朝は難しいですけど、昼にはゆっくり話せるんですから』

「……そうだね。そうだよね」


 すこし、焦りすぎただろうか。

 彼女はそれすらもお見通しなようだ。

 ともあれ、もとよりあった就寝気分に加えて僕の声の相乗効果で眠気もピークらしい。もう寝ますという言葉の後ろで、部屋の電気を消すような音が聞こえた。

 僕がつられて部屋のスイッチに手を掛けたところへ、優月さんが、最後に、という前置きとともにこう切り出してきた。


『もうひとつだけ言っておきますね』

「うん」


 電気を消す。


『心配は要りません。いいですか。私と先輩の間に、心配は要りません』


 カーテン越しの月明かりを残して部屋が暗む中で、彼女の声は、はっきりと僕の耳に届いた。


「…………うん」

『それでは、おやすみなさい』

「……うん、おやすみ」


 プッ、ツー、ツー……。

 もう優月さんの声は聞こえない。しかし、僕の耳から遠のていくわけでもない。彼女の一言一句が、僕の心臓を動かしているような、そんな気さえする。

 こんな彼氏、重荷ではないだろうか。重荷だろう。ところが、それを支えられるだけの逞しさを持った人なのだ。

 頼りない縁を支えてくれる、僕だけの力持ち。


「…………」


 縁から足を下ろす形でベッドの端に座ると、そのまま横に倒れ込む。目の前のシーツを固く握り、そこにできた皺へ、瞳を隠した顔を寄せるようにして小さく呟いた。


「……ありがと、優月さん」


 このまま眠り込んだなら、新しい一週間の幕開けだ。

 朝になったら元に戻っているなんてことは、もう望まない。期待しない。

 でも、諦めもしない。

 諦めることを許してくれる人たちがいるからこそ、諦めたくない。

 滅多なことは、もうたくさんだ。

 僕は普通でありたい。

 特殊であることにも普通を演じることにも、決して向かないから。

 僕は普通になりたい。

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