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三十八話→自覚

体育祭やら中間やらで一か月も間が空きました。

本当に、申し訳ない。

 性転換後初の街デビューも昨日に過ぎ去り、ほっと安堵が募る今日この頃。

 憂鬱な月曜日を明日に控えつつ、おやつ時に差し掛かろうとしているこのひと時。特に何をするでもなくソファの上で猫たちとのんべんくらりと過ごしているのがワタクシ、新立吉海です。

 やらなければならないことの一つや二つはある筈なのだが、たとえ名も価も高い占い師に気の利いた心遣いを頼んだところで、どのみち何をしても状況が好転する未来が約束されるわけではないのはよくわかっている。僕にできることといえば、下手に騒がず、周りに対して僕の異変をひた隠しにすることだけだ。それゆえに、この日曜日を"今まで通りに"過ごしているわけである。

 テーブルの上、ソファに寝転んでいる僕のちょうど目の前の位置にふと皿が置かれる。その上に積み上げられているのは、三枚のホットケーキ。

 僕が気怠い体を起こして膝に鈴を置くと、姉が桜を抱えてその隣に座った。


「何だか分かりますか?」

「おやつです」

「大、正解です」


 姉は頷き、僕の頭の上に手を置いてくる。撫でたいだけでしょう。


「三つしかないから、最後のは半分こにしよっか」


 半分こしてみたかっただけでしょう。

 僕が妹になったことで、妹という存在に憧れていた姉の願望が次々と表立ったそばから叶えられていく。

 妹と猫、片方しか得られないとしたらどちらの方が欲しかったのか気になるところだが、すでに両方とも恵まれたつもりらしい相手に質問するのも野暮だろう。

 先週末くらいからわだかまっている、手元に六割が小吉のおみくじでもあったらミキサーに掛けたくなる程度の破壊衝動を解消できる目処は未だに立ちそうにない。

 この人や恋人が傍にいるだけで負の感情の大半が浄化されていくのだ。あとに残るのは、お猪口一杯の自虐心だけ。それくらいでは己を達観できるまでには遠く及ばないらしい。同じ量のお酒で吹っ切れられる人がそうそういないように。

 

「いただきます」

「どうぞどうぞ。シロップは買ってあるから、いっぱい使っていいよ」


 どこへも行かなければどこへもやれないものには甘い蓋。

 この身体とはもう一週間の付き合いなのだ。それが体感的に長いのか短いのかはともかくとして、以前の性別に馳せる想いが肥大化することはあっても、この身体に病まれることはない。無論、悩みはするものの。

 少なくとも、付き合い方はそれなりに覚えた。


「ちょっと焦げてる?」

「ああ、吉海のこと考えてたらぼーっとしちゃってね」

「冗談なのか本気なのかわからないボケはやめて」

「私がいつボケたっていうのよ」

「どれもこれも自覚あったように見えたんだけどなあ……」


 無意識下の暴走ならしかたないね。

 しかたなくないよ。

 おかげで僕がどれだけ辱められたことか。


「あっ」


 一枚目のホットケーキも残り三分の一となりかけたところ、口に頬張ろうとした欠片からシロップが零れ落ちてしまう。

 たまたま鈴は僕から離れて毛繕いしていたので彼女が汚れることはなかったが、僕の寝間着の腿あたりに付着した滴を拭おうにも、ティッシュが視界に無くて慌ててしまう。


「あーこぼしちゃった? ほら」

「ん」


 姉に手渡されたそれで急いで拭くも、やや染みになってしまっている。


「手添えて食べないからだよ。パジャマだからまだよかったけど」

「ん~……」

「唸らないの、こぼしちゃったものはしょうがないでしょ。もうお昼過ぎてるのにパジャマも着替えないで──休みになるといつもこうなんだから、吉海は」

「……今日は性別のせい」

「私や神奈ちゃんはちゃんと過ごしてます。残り食べたら着替えなよ」


 頷いて、フォークを持ち直す。毛繕いを終えた鈴が膝の上に戻ってきたので、今度はシロップをこぼさないように慎重に口へ運ぶ。

 リビングの角でテレビが喋り続けている。一昨日やその前より早送りに聞こえる音声を聞き流しながら、口ではおやつを味わい、片手では鈴の毛並みを味わう。たまに牛乳を挟むといと幸せ。

 ここ一週間でいちばん弛んだひと時。波乱だった昨日までと比べると堕落並みの緩急だが、今日この時間をこうして過ごすことは、男であっても女であってもそう変わらなかっただろう。そう思えて、ようやく僕はこのひと時を癒しと感じられるのだ。


「……ごちそうさま」 

「いえいえ」


 最後の一枚を二人で分けて完食すると、僕はソファに凭れた。

 絨毯の上で気ままにじゃれ合っている鈴と桜を細まった視界で眺めていると、太腿に二匹のものとは違う重みが加わった。

 視界を下にやると、姉の黒い頭が、僕の膝の上でちょうどよい位置を探して身じろいでいた。


「……姉は元弟である妹に甘える生き物なんですかね」

「私はそういうお姉ちゃんなんですう」


 鷹揚にも程がありませんかね。いえ、決して小言を言えた立場ではないんですけれど。

 ほどなくして落ち着いた頭がその場で回り、目頭から目尻までなだらかなカーブを描いた睫毛の間から、姉の黒い瞳が僕を見つめた。

 優月さんの吸い込まれるような瞳とは異なり、どこか姉らしい包容力を感じる、肝の据わった瞳。

 この瞳から見えている僕は、果たして言葉通りの僕なのだろうか。


「あのさ、吉海」

「……何?」


 心なしか心の底を見透かされたような気分になっていたところへ声を掛けられて、すこし鼓動が大きくなる。

 思わず押し黙りそうになってしまうのを堪えて口を開くと、姉は伸ばした手で僕の髪に触れてこう言った。


「髪、結んでみてくれない?」


 拍子抜けした内心を隠せず、思わず眉根が緩んでしまう。


「どうして?」

「いや、どんなもんかな~って」

「……ゴム無いよ」

「はいどうぞ」


 姉がポケットから取り出したそれを条件反射的に受け取る。

 何の変哲もない、黒い髪留めゴム。少し色褪せたような、使い古した跡が見られる。


「あ、結べる? 私がしようか?」

「……いいよ、これくらい自分で」


 クラスメイトに髪型をいじくられた経験がある。あの時は肩をすぼめてばかりだったが、やられる内に簡単な髪の結い方くらいはなんとなく覚えた。

 とはいえ髪が引っ張られる感覚は苦手なので、ポニーテールは避けて、ひとまず後ろ髪を左肩から前へもってきて毛先に近い位置で結ぶ。フリーな場合の後ろ髪の長さはせいぜい肩甲骨付近なので、前へ持ってくると胸あたりに届かないくらいだ。


「うん、髪結んだ吉海も素直な吉海もかわいい」

「……そう」


 素直というよりは、休日の気怠さにあてられて口答えする気にもなれないだけである。昨日は出掛ける用事があったのでまだ気を張れたが、完全にオフな今日は特に気怠い。

 僕の姉だけあって、妹がいちばん無防備な時も熟知しているらしい。


「この前は私が膝枕したんだし、今日は私がしてもらおうかなって」

「僕が気失ってたときでしょ、それ」

「あれから片付けるの地味に大変だったんだよ? まあ私もまさか吉海に女の子の日が来るとは夢にも思わなかったし、吉海がああなるのも仕方ないとは思ったけどね」

「……あんま掘り返さないでよ、思い出すだけでも恥ずかしいんだからさ」


 僕がふいと顔を背けると、姉は苦笑いする。


「ごめんごめん。で、調子はどうなの?」

「昨日今日は、そこまで」

「言っとくけど血の量だけじゃ語れないからね? いちおう期間が過ぎても次が来るまでなんともないわけじゃないんだし」

「……べつにいつまでもこのままでいるつもりじゃないし」

「周期くらいメモっときなさい、一か月とかそこらで元に戻る自信が無いなら尚更ね」

「…………善処します」


 たしかに、また己の身体のリズムに不意打ちを食らうのは御免だ。

 一か月どころや、二か月や半年後になっても男に戻れる可能性は低い。この性転換があくまで病の一つで、時間が経てば治るようなものであればそれがなによりの幸いなのだが。今になってそのような淡い希望に縋るのも無駄だととっくに悟っている。

 溜め息を吐いてしまう。

 その瞬間、両頬に衝撃が走った。


「──ッ?」


 気付くと、姉が僕の頬を両手で挟んでいた。

 直前までとは打って変わり、鋭い視線が僕を射抜く。


「吉海、これも言っておくけど」

「……?」


 僕が心の中で首を傾げられる程の間をおいてから、姉は続けた。


「私はこんな風に振舞ってても、吉海に男の子に戻ってほしいと思ってないわけじゃないからね。私はあくまで、私の思うお姉ちゃんらしいお姉ちゃんを振舞ってるだけ。吉海が男の子に戻るつもりなら、きっと神奈ちゃんが手助けしてくれるだろうから。吉海に男の子に戻ってほしいといちばん願ってるのは、きっと吉海の恋人であるあの子だろうから。神奈ちゃんは本当に良い子だと思う。……ぶっちゃけ、私の弟にはもったいないくらいね。だから吉海──」


 ──簡単にめげて、あの子を幻滅させないでよ。


 そう言ってからというもの、姉は僕に後頭部を向けて目を合わせなくなった。それから姉が僕の膝の上で寝息を立て始めるまで、そう間もなかった。

 これでは着替えもしにいけない。

 少々放心していた後、ふと鈴と桜の方をみやると二匹もお互いに身を寄せ合って夢を見ていた。

 彼女らの寝息を聞けば聞くほど、テレビの音声が遠のいていく。テレビの音声が遠のけば遠のくほど、いつの頃から内心でこだましていたかもわからないその声がはっきりしていくような気がした。

 その声は、誰かが僕を呼んでいる声だった。

 その声は、テーブルの上の空っぽのお皿の横にあったスマホを何気なく取って、おそらく何の気なしに受信メール一覧の先頭にあった最新の既読済みの一件を開いたときに、僕の鼓膜を内側からたしかに鳴らしたような気がした。


『改めてよろしくお願いします』


 普段の調子のいい口振りとは一風変わって、恋人との初めてのメールに対する緊張が感じられる、ぎこちない文面。

 恋人。恋人。そうか。


 優月さんは、僕の"恋人"なんだ。

 紛れもない、僕の"彼女"なんだ。 

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