三十六話→つくづく良い人たち・前
たかが二時間。
されど二時間。
途中で姉や優月さんの歌が挟まれたり、加邉に目で救済を乞うもののジュース管理に逃げられたりとインターバルこそあったものの、二時間の大半は僕の初々しい歌声ばかりが防音室内に響き渡っていた。それにより、僕を中心にひっそりと開催された『ドキッ、身内だらけのカラオケ大会』は、僕の恋人と変態の脳内に大層なお花畑を咲かせる結果と相成りました。
その種子はといえば、僕の喉の潤い。潤いと言っては、どちらかというと種子を育てる水と比喩した方が適切かもしれない。なんにせよ、初めてのカラオケでそれなりに枯らした喉を、やや過分な水分で労っているのが現在。そんな中で目指しているのが下りの電車。
駅までは徒歩でやや暇をもて余す程度。
おやつの頃合いということもあり、何か食べながら帰ろうという話になった。迷いながら歩いていたところ、優月さんが躊躇いがちに手を挙げ、僕らの足を止めた。
「すみません……、ちょっと待っててもらっていいですか?」
どうやら催したらしい。
近場の公園にあった公衆便所へ小走りで駆けていく優月さんを見送る。彼女が戻ってくるまで、公園にある木陰のベンチで休憩することにした。短い袖と裾を振って駆けまわる子供たちを眺めていると、たまたまクレープ屋が目についた。
いかにも女性受けしやすそうなカラフルでメルヘンな看板には、町のクレープ屋さんと打ち出されている。店頭には七人ほどの列があり、その客層と言えば、カップルか女子学生か主婦といったところだった。
甘味は好きだ。クレープにもなんとなく興味こそあったものの、この男女比に気圧されて、結局は店頭にすら並べないのが常だった。
しかし、今なら。
周りの目など気にすることなく、買えるだろうか。女性になった身体に、女性に近い格好の今なら。
とはいえこの身体を利用するのも、もはや残骸と成り果てたなけなしのプライドが許さないわけで。それが原因で、内心で疼く衝動はかろうじて行動にまで及ばなかった。
詰まるところ、甘いものを前にした僕の内心の葛藤は、男の頃より増すばかりなのであった。
「吉海、クレープ食べたいの?」
「あ、いや……」
目ざとい姉は、クレープ屋に注がれる僕の視線に気づいたらしい。
姉のことだ。このまま頷けば、快くおつかいに駆けていってくれることだろう。愛する妹のためだからとかなんとか抜かして。
それはそれで耐え難いし申し訳ない。
「……んん、ちょっとお客さん見てただけ」
「そっか」
僕が首を横に振ると、姉は点頭し、僕のとなりに腰掛けた。
ベンチに座る僕らは生暖かい風に晒されている。まばらな落ち葉は何かにちぎられた緑か、そのまま去年を過ごしたのだろう黒ずんだものばかり。風はそれらを転がすと同時に、ベンチに取り囲まれた木が囁くのを手伝っている。ぼやけた木漏れ日は、葉と雲が勢力を増しつつあることを示していた。
冷感が恋しい季節の前に、まずこの日差しが恋しくなる時季がもうそこまで迫ってきているわけで。
雨は、どちらかというと嫌いだ。
場合によっては、恋人の傘の下へお邪魔できることもあるが。
梅雨という時期は、それだけで思考を憂鬱に陥れてしまう。おまけに性転換との相乗効果はもはや免れはできまい。今年の梅雨は、なるべく考え事をしないよう気を付けるべきだろうか。少なくとも、独り思考に耽る中で己の不甲斐なさを嘆くよりは、恋人もとい後輩に勉強を教わる中で己の不甲斐なさを自嘲する方が断然マシだ。どちらにせよ僕という存在が不甲斐ないことに変わりはないが、それは今に分かったことではない。
いつの間にか落ち込んでいた視界をふと上げると、優月さんが僕をじっと見下ろしていた。
「買っちゃいました」
茶目っ気を乗せた台詞に釣られて彼女の手元を見やると、クレープが両手で握られていた。
生粋の女性であるなら、甘味を求めるごときに躊躇など不要らしい。
個人的には羨ましい限りである。
「何が入ってるの?」
「クリームです」
「うん、大抵そうだと思うけど。具は?」
「フルーツです」
「大体そうなのは知ってるよ! 内容を訊いてるの!」
「あまりムキになってると、また可愛いって言われちゃいますよ」
誰のせいだ、と反論しようとした口にクレープが捩じ込まれる。不意のことだったが、僕の歯は柔らかい生地を素直に噛みきり、僕の舌はとびきり甘いそれを素直に味わった。
「どうですか?」
「……おいしい」
挙げ句には、頭に浮かび出た感想を、その起因となった物質を素直に通した喉が、正直に発してしまう。
恋人に対して、僕は随分と従順になったものだ。
「よかったです」
その恋人の屈託のない笑顔を見ては、満更でない表情を隠すこともできない。
そして、今まで我慢していた欲求も、我慢できなくなるわけで。
「もう一口くれる?」
「構いませんよ、どうぞ」
差し出されたクレープに、控えめにかじりつく。それを味わい、飲み込んでから、僕は徐に立ち上がり、ポケットから財布を取りだした。
「……やっぱり、僕も買ってくる」
優月さんがクレープを頬張りながら首を傾げた。
「優月さんと同じやつ。バナナとキウイでしょ」
唇のクリームを舐めとり、丸い頬を染めて微笑む優月さん。そして、彼女は僕の隣に並んだ。付いてきてくれるつもりらしい。
そんな僕らの背中を、姉は有言で、加邉は無言で見送ってくれた。
「ま、いってらっしゃい」
僕はそれに苦笑を返してから、店へ向かって歩きだす。優月さんは、クレープを大事そうに食べながらそれに付いてきてくれる。
列の先頭に立って注文の品を待つ間、優月さんは僕に小声でこう囁いたのだった。
彼女のことだーー他人事のつもりでも、達観しての一言でもなかったのだろう。そしておそらく、励ましでもなかったはずだ。
そう、それはきっと、彼女なりの説教だったのだ。
「満喫しないと、ただの損で終わってしまいますよ」




