三十五話→はじめてのカラオケ
昼食くらいではさほど時も要さず、お店を出ると、日はまだ高い位置にあった。白い雲を薙ぎ払う白い日光がビル群に反射して眩い。それが夏入りを感じさせるが、風はあるのでまだ涼しい。その風というのも、だんだんと湿り気を帯びつつあるのが今日この頃。
さて、昼食を終えてからというもの、みな揃ってまだ時間があるので、少し遊ぼうという話になった。
加邉はさほど乗り気ではないようだが、思うところがあるのか、姉と僕の誘いに乗った。頷くときには、どちらかといえば姉のほうに視線を向けていた。僕は内心で苦笑をこぼしながら、加邉の僕に対するこのような対応も暫くの間は仕方のないことなのだと自分を説得した。やがて慣れれば、彼も以前と変わらず接してくれるようになる。友達だから。
だから、少しの間の辛抱なのだ。
僕を避ける友人の視線に、心がちくりと痛むのも。
「どうしようかな。何がしたい、吉海?」
とくにプランもなく街を適当にぶらついていたところ、先頭の姉が僕に尋ねてくる。
「家に帰って着替えたい」
「却下」
素直に答えたのに。その即答は酷い。鬼畜。
まあどのみち帰ったところで、男物の服は姉によって僕の手の届かない場所に管理されている。いつか戻った時のためにいちおう捨てないでくれてはいるが、僕が女でいるうちにそれらを着られる機会はおそらく滅多にない。あったとして、我が家の変態親子にボーイッシュを強要されたときくらいだろうか。
現実は非情である。
ため息を吐きながら、隣の優月さんに振ってみる。
「私は何でもいいですよ、先輩といられるのなら」
予想はしていたが、いざそう答えられたらなんとも気恥ずかしい回答である。最も、いまの心境では頬を染める余裕もないが。それにいい加減、彼女の調子に慣れてしまった部分もある。
「……もうちょっといい顔してくれたっていいじゃないですか」
僕の反応が薄いことに機嫌を損ねたのか、口を尖らせる優月さん。
体育館裏で下ネタをぶちかましていたのは、やはり僕の反応を楽しむことが目的だったのだろう。自分で赤面を晒して自爆してはいたが、あの時は僕もこの人にはある意味で敵わないと思ったものだ。
それが今となっては形勢が逆転しているのを認識して、わずかに危機感を感じていると見える。なにも勝負しているわけではないのに。彼女としては、可愛くなった彼氏を可愛がりたいらしい。自分自身が可愛がられるのに弱いことが露呈してしまったのだから、内心では焦っているのかもしれない。
「んん、うれしいよ。僕も何でもいいや、姉さんが決めて」
僕が性転換しても、僕に対する気持ちが変わらないでいてくれるのならそれは嬉しいことこの上ない。おかげで僕としても、正気を保っていられる。女のままでいいかと、思わないでいられるのだ。
たまには彼女のペースに呑まれるのも、悪い気はしない。
僕の回答を聞き、姉は尻目にこちらを見た。
「そう、加邉君は?」
背後から声は聞こえてこないが、どうやら仕草で僕や優月さんと同じ意を返したらしい。
それを視認したらしい姉は、ちらりと僕を見て、前に向き直る。
「……そう、じゃあ私の案を通させていただくわ」
その瞳は、胡乱げに輝いていた。
気づいたらカラオケボックスに詰め込まれていました。
狭い部屋の出入り口傍に機械と丸椅子があって、中心のテーブルをソファが囲んでいる。僕はなぜか上座に強制的に座らされ、その両隣を姉と優月さんが占領した。加邉は自ら丸椅子を選んだ。まっすぐ顔を上げた僕の目線の先に、モニターがある。
「昼ご飯は食べたし、なんかデザートでも頼もっか」
姉がテーブルの上のメニューに手を伸ばす。大小二つあり、小さい方を見ると、デザートのメニューが羅列されていた。パフェやパンケーキなどの見本の上を姉は指でなぞるが、中々その動きが止まらない辺り、迷っているのだろう。
「とりあえずパフェとアイスクリームを一つずつ頼んで、皆で分けませんか?」
姉は優月さんの提案をのみ、あと全員に希望のドリンクを確認すると、カラオケ機器が収められた棚の側面に提げてあった注文機械とついでに電子目次録を取ってきた。あろうことか電子目次録を僕の目の前に置き、自分は注文機械でメニューを選んでいる。
「……あの、これは?」
「察してないとは言わせないわよ。今回の主役は吉海だからね」
姉の瞳を見たときに生まれ、カラオケボックスの前まで来た時にはほぼほぼ確信まで近づいた僕の嫌な予感を、ご丁寧に直球ドストライクに当てはめて下さりやがったのは、この姉の台詞なのでした。
「い、いや僕、知ってる曲少ないし」
「一つでもあるならそれ歌えばいいのよ」
「……そんなに上手くないだろうし」
「私が吉海をここに連れ込んだ目的はね、吉海の歌唱力じゃなくて歌声なのよ」
こうなった姉は、もはや逃がしてはくれまい。
同じく僕の隣に陣取っている優月さんに、抗議の口を向ける。
「……あの、優月さん」
「偶然ですね、香波さん」
「へ?」
「私の目的もそれだったんですよ」
駄目だ、逃げ場がない。
逃げ道は見えているのに、たとえ走り出したとして、そこまで辿り着ける気がしない。
「諦めなさい吉海。二時間の辛抱だから」
つまりはこの拷問に二時間は耐えなくてはいけないというのか。
逃げる選択肢を奪われた僕は、しぶしぶ電子目次録を手に持ち、扱い慣れない機械で試行錯誤しながらなるべく歌いやすそうな曲を探す。そんな僕の姿さえも思い出に取っておきたいのか、両隣から幾度となくシャッター音が聞こえてくる。僕はそれを耳にするたび、身を縮こまらせていき、ようやく曲を選んだときには打ちひしがれて涙目になっていた。
「……泣くほどか」
うるさい加邉、お前に僕の気持ちは分からん。
分かりたきゃお前もこうなれ。
「ほら、マイク持って立つ」
姉の無慈悲な命令に、僕の身体は素直に従う。弟は、姉には逆らえない。
僕は気休めに溜め息を吐いて、自分で選んだ曲のイントロが流れる中、マイクを構え、肩幅ほど足を開いて歌う姿勢を取った。歌うときには、姿勢をよくするとともに、脱力を意識し、お腹から声を出すと声が通ると聞く。
「意外と古い曲歌うのね」
「先輩、頑張って下さい」
姉の苦笑いと恋人の応援を受けながら、僕は人生初のカラオケに勤しんだ。
数分後──僕の両隣には、頬の緩み切った笑顔を浮かべて脱力する二人の姿が。僕が肩を揺すって歌い終わったことを知らせても、上の空で聞こえていない様子。
ただ一人、平静の加邉にこうなった理由を求める。
「……どうして」
「……お前が女物の曲なんて歌ったからだろう」
だって女になったからには女性キーの曲じゃないと歌いにくかったから……。決して歌で家族と恋人の心を鷲摑みにするつもりは毛頭なかったのに。
「だからってどうかとは思うぞ、松田せい──」
「わーわー!!」
流行にはとことん疎いんだから仕方ないだろう!
昔の曲だって有名どころしか知らないんだから!
「ところで、その、僕の歌は、どうだったの……?」
「……そこの二人を見ればわかるだろう」
たしかに見るからに僕の歌声に対する感想を体現してるように見えるけども。
あまり見たくないからお前に聞いているんだよ。
「ひっ……?」
不意に両脇から服の裾を掴まれる。喉奥から情けない悲鳴が漏れるままに振り向くと、姉と恋人が妙に輝いた瞳で僕を見つめていた。
「まだまだ、足りないわよ吉海」
「時間はまだまだあるんですからね、先輩」
そうだ、この拷問は二時間あったんだ。
「延長って出来ましたよね」
……二時間以上あったんだ。