三十四話→軸 ※挿絵有
お久しぶりです。
さすがに甘味は昼食にはならないということで、とりあえず近場の洋風料理店に入店。昼食のあとにデザートでも食べ歩きながら暇を潰そうという話になった。
白い店内にはそれなりに人がいて、その大抵が看板に大きく打ち出されている自家製パスタを味わっている。入店するや否や、僕らは通りに面した窓の傍の席に案内された。僕ら姉弟が奥に詰め、僕の隣には優月さん、姉の隣には加邉が座った。
間もなく店員が四人分の水とお手拭きを持ってきて、それぞれに配り、注文の際にはテーブルのボタンをお押しくださいと言い残して去っていった。
姉がメニューを取り、机上に広げ、僕らに見やすいよう回してくれる。
「どれがいい?」
「ん、カルボナーラでいいかな。優月さんは?」
「ちょっと、迷いますね」
加邉も腕を組んでメニューとにらめっこしている。姉は店自慢のミートソースかオムライスの二択で迷っているようだ。
僕はいちど深く息を吐いて、背後の景色を見やる。まばらなマンションの他には一軒家ばかりの住宅街から電車で二駅ほど離れてやってきたここは、晴天を遮ってその身に映すビルばかりで驚嘆はすれど、心の空く景観ではない。一部に被さる緑が、街並みの圧迫感をやや緩和してくれてはいるが、それでも自然物が人工物に圧された景色は変わらない。だが、人は、自分達で作り上げた世界の方が落ち着くようだ。硬めの座面からは、さほど冷感は感じられなかった。
「私はこっちにしようかな、二人は?」
「俺はハンバーグで」
「私は先輩のと同じにします」
三人も決めたらしく、僕が前に向き直るときには、姉が店員に注文をしていた。けっきょくミートソースにした姉は、わりと流されやすい性質なのです。
一方、優月さんは僕とのお揃いに落ち着いたらしい。
「べつに僕に合わせなくてもいいのに」
「先輩が選んだものならきっと美味しいかなと思いまして」
それはそうでしょうとも。お店の味だもの。
優月さんが僕に寄せている信頼は、いったいどこからやってくるのだろう。彼女のことを考えれば、あながち根拠が無いわけでもないようだ。今のところは、やがて目の前にやってくる品が、恋人の頬が落ちるほどの出来であることを祈るばかりである。
「加邉は朝食べたの?」
「一汁三菜飯三杯」
「……それで、昼はハンバーグ? 食べすぎじゃ」
「お前はもっと食べろ」
ごもっともです。
僕は苦笑いしながら、細い腕を細い手で撫でた。
女になった胃は、男のままの食欲を満たすほどの食事を許してくれそうにない。
「先輩、細いですからね」
優月さんは羨ましげだが、その上着の下に隠れた引き締まった線を僕は知っているわけで。
「それをいうなら、優月さんの方が」
「そうではなくて、先輩はなんというか、健康的な細さですから。私はいくら食べても、友人に食生活を心配されることが多いので」
その友人の気持ちもわかる。
優月さんは単に華奢というより、とにかくか細いのだ。制服も、彼女が着用すると、どうも皺が大きくなりがちに思える。その友人とやらも、優月さんと会う度、顔色を念入りに確認して安心するのだろう。
ふとしたことで折れてしまいそうな身体に秘めた、強靭な信念。そのギャップが優月神奈の魅力といえる。彼女と密接な関係を持って間もないため、知ったようなことを言えた立場ではまだないが、しかしながらそれだけは確信できるのである。
なんだかんだ現時点では健康体のようだし、さほど心配する必要もないのが事実。体調を崩しやすいなどということがあれば話は別だが。
「気にしないでいいよ。服、似合ってるんだし」
「どういう理屈なんですか」
そう言うが、満更でもなさそうに手をもんでいる。
「上着脱いだら?」
「……張り切ってお洒落してきたのは間違いでした」
優月さんは独り言ちてから、僕の提案に従った。渋々な様子の理由は、制服の時は誤魔化せていた身体の線が、恋人との休日の予定を考えて服選びに熱を込めたために、とうとう露呈してしまうことが恥ずかしいのだろう。
ためらいがちにボタンが外され、肩を覆っていたケープがか細い腕に巻かれていく。
そうして見えたのは、頼りなげな撫で肩、起伏の控え目な鎖骨下。そこから連想される上半身下部のイメージは、現実の彼女の身体と一寸の狂いもなく合致していて、たしかに僕と比べてもたいそう脆弱な印象だが、それでいて女性らしい丸みを帯びた輪郭には、不思議と安心感が募った。と同時に、僕の心底から湧いてきた彼女に対する保護欲は、僕が優月神奈という女性により惹かれていっている証拠となり得るのであった。
緩んだ口から、素直な感想がまろび出てしまう。
「……優月さん、綺麗」
「……──ッ」
腕に抱えたケープに顔を埋めたと思えば、今度は天井を仰ぎ、またもや顔を伏せるを繰り返す優月さん。瞼を皺が寄るほど固く閉ざして、下唇を強く嚙んで、顔を真っ赤に染め上げている。隣にいてやっと聞き取れる、薬缶のようでそれよりも若干澄んだ音の音源は、抑えきれないらしい羞恥心が肌の色となってそこまで及ぶか細い首の中に収められた喉らしい。
「置かれた状況も忘れちゃって、呑気なものね」
「…………」
姉は微笑ましそうにこちらを眺めていて、加邉は暇つぶしとばかりに無言で色とりどりのメニューを眺めている。
二人だけならまだしも、こうして周囲に人がいる状況がよほど堪えたらしい。林檎さんは肩をすぼめ、テーブルに軽く額をつける形で突っ伏し、そのまま微動だにしなくなった。
僕の恋人は、攻め好きだが、攻めに弱い。
普段は表情の上半分を覆っている黒い仮面も、このように仕草で感情を大っぴらにしてしまっては意味がない。しかし、普段の澄ました態度とこの初心な反応のギャップが、優月さんの隠れた魅力でもある。
決してそのような性癖は持ち合わせていないが、彼女が羞恥に身悶える姿というのは、いくら拝んでも見飽きないものだ。
僕が得意げな内心をひた隠しにするのに必死でいると、優月さんが首を少しだけ回して、長い前髪の奥から尻目にこちらを睨んだ。涙目で。
「……新立先輩、しばらく恨みますよ」
きっとそのつもりがないのは、及び腰な声音からして自明である。
仕返しもできずに不機嫌なのは確かだろうが、満更でないこともわかっている。
「来たよ、料理」
お待たせしましたという常套句と共に、頼んだメニューがテーブルに置かれる。調理時間によって分けるのではなく、一度にテーブルの全員に料理を配る配慮はありがたい。
「ほら、優月さん」
「……はい」
頭が重そうにもたげられる。優月さんがケープを脇に置いたところへフォークを差し出す。律儀な彼女は、お礼だけは忘れず、それを受け取ってくれた。
各々手を合わせ、頂く。
加邉の大きな一口を横目に、僕もフォークにパスタを巻き付け、口へ運ぶ。巻く回数をいくらか意識して増やしたのは、別に張り合おうとしたわけではない。
隣では、優月さんが僕が食べているものと同じもので口の中を埋めている。
「おいしいね」
「はい」
余分な色素がやや抜け切れていない表情で微笑を作り、優月さんはうなずく。今の画を携帯の待ち受けにしたら、計り知れない幸福が舞い込んできそうな気がした。惜しみなく笑う門に、福は来たがるそうだ。
その時、こすれる金属音とはまったく異なる、機械的な音が鳴った。
大した苦労もなく文字に起こすなら、それはカシャッ。
「……なにしてんの姉ちゃん」
僕もろとも撮りやがったこの人。
「いやあ、これ待ち受けにしたらすごく幸せになれそうな気がして」
なんということだろう。つい先刻までの、この変態と同じ衝動に駆られていた自分を殴りたい。
姉はついでに自分の料理も撮って、緩み切った頬に手を添えながらにへらと笑う。今までの経験から、姉自身の手による僕の画像の削除には諦めがついているが、それでも優月さんを見世物にはできない。
「でも、優月さんがかわいそうだし」
「……いえ、先輩と映れたなら不満はないです」
「お、ありがと神奈ちゃん。大切にするからね~」
僕の擁護に対し、小さな頭が横に揺れるのを見て、姉の相好はこれ以上ないというほど崩れた。
どこまで僕に捧げる気なのだろう、この人は。どのような心境の表れなのか、最小限の動作で目の前の料理をたいらげることにひたすら取り組んでいる姿がとにかく小動物に見えて仕方がない。
「見てないで食べてください」
「あっはい」
フォークを持ち直し、テーブルに向き直る。
自分の料理を食べているうち、加邉のハンバーグが羨ましくなってしまう。
「……」
「……ほれ」
僕が目でねだると、加邉は一口大に分けた欠片を僕の皿の上に置いてくれた。
「ありがと。優しいなあ、加邉は」
「お前はせめて言葉で訴えることを覚えろ」
友人が性転換したという状況に、まだ頭が混乱しているのだろう。女になった僕とどう接するべきか悩んだ末、とりあえず加邉は以前より気を遣うことを選んだらしい。
それは、ある意味、妥当といえるのかもしれない。僕も逆の立場であればそうした。しかしながら、それでも断言できないのは、人間という種の突然の性転換が、必然や偶然という次元をはるかに超えた出来事であり、本来ならば不可侵な領域であるが故に、それに直面した者の行動を品定めしようにも比較する対象がないため。
加邉の行動が妥当といったのは、少なくとも加邉という人間の器が比較的大きいものでありながら、しかし僕の家族や優月さんほど成熟していなかったことを考慮した上で、やはり人間的には上等な判断であると評しても、それは過大評価ではないと僕個人が勝手にそう思ったからである。
ただ一つ言えることは、この事象に対し、加邉が僕以上に悩む必要はないということ。
「……気にしなくていいよ、そんなに」
語り掛ける僕の視線に対し、加邉はわずかに目をそらした。
それは逆に、僕の心を救った。
親友に、無茶の滲んだ視線を返されるのは、忍びなかったから。
距離は変わらず軸のずれた僕らの関係も、時が解決しれくれればそれでいい。
僕は心の中で苦笑をこぼしてから、食事に没頭しはじめた。
17/7/31 粗末ながら挿絵を挿入
私の画力がイメージに及ばないために、実際のキャラはこれより可愛いものと思い込んでください。