三十三話→持つべきもの
優月さんが我が家の呼び鈴を鳴らしたのは、予想外の訪問の二十分ほど後だった。
僕が加邉にやっとのことで事情を語り終え、静聴を貫いた加邉が放心したような表情で息を漏らした直後のことである。図ったような間であった。言わずもがな、図ったのは恋人ではなく運命であろう。この場合は、まあ、幸運と強いて称しておこう。
ともかく、加邉は事態の対処に困っているようで、同行を誘う姉の提案に、首を横にだけは振れない様相を返した。姉の魂胆は見透かせたものではないが、ただ一つ分かることは、姉はこのような場合にまで悪意は持ち出さないことである。
よって、僕にとっても、加邉の同行を拒否する理由は無かった。
優月さんの口出しをしないという行為は、敢えての意思を含んでいたのだろうか。一度ばかり負かした経験があるとはいえ、それだけではこの人の全てを知るまでには至らなかったということだ。
さて、至って健全な街並みを歩む僕らの影は、実物より短く、それが小腹の空く昼時を示しているわけで。とはいえ、出掛けるための用事は飲食店ではなく衣服店にあるため、お腹を満たす前にまずそれを済まそうという姉の独断に従わずにはいられず、元男にとっては装飾のまぶしい店内に、躊躇で動作の重い足を踏み入れた次第でございます。
「いらっしゃいませ!」
規模としてはこじんまりとした店内。故に、客の入店を見逃さなかった店員が、声を張って駆け寄ってくる。
波打った毛並みや色素の薄い髪色など技巧を凝らしたヘアスタイルに、接客業らしい小慣れた化粧。大きな瞳は元来の持ち味なのか、活発な印象を受ける。若く、二十代前半といったところだろうか。
「や、千佳」
その店員を見止めた姉が、手を挙げて彼女の名らしい名を呼んだ。
知り合いなのだろうか。僕がそう質問するまでもなく、店員は姉の手を両手で取って話しかけた。
「かなみん、また来てくれたんだ!」
「勿論、顔馴染みがいるだけで寄りやすくなるものよ」
「そっか、そっか! ああ、でもマニュアルは怠っちゃいけないから──今日はどんな服をお求めで?」
「私の服じゃなくてね、この子」
姉は入り口付近を指差す。千佳さんはその指をわざわざ足で追い、狼狽えている僕を突き止めたのだった。
「わわ、なにこの子かわいい! いらっしゃい!」
「ふむぐっ!?」
そして、抱きしめられる。
ちょっと、『一、初見さんがいらっしゃったら抱きしめる』なんてどこのマニュアルに記載してあるというんですか。そんなマニュアルがあるのなら、僕が燃やして灰にしてあげるから今すぐ持ってきなさい。
「かなみん、妹なんていたっけ?」
「うん、そうなの」
いません。でした。
「びっくり。かわいいなあ、中学生?」
「高校生です!」
れっきとした高校生です!
ここだけは過去形になんてさせない!
「姉ちゃん、こ、この人は?」
「水友千佳ちゃん。大学の友達。こう見えて良い人だから、安心して」
「こう見えても何も、誰にとっても第一印象が最高なことが私の揺るがない定評よ!」
姉の友人は癖のある人物ばかりなのだろうか。
「名前は?」
「吉海。普段服が少ないから、似合う服探してあげて」
「きみちゃんね。ようし、これしかないってのを選んであげる!」
ええ、構いませんよ。抵抗なんて忘れました。
ただ、できることなら、ミニスカートは許してほしいな、って。
昨日の内心は強がってた部分も否定できないんです。
「あなたには、そうね──通気性を重視し、丈を極限まで短くすることで機能性も生み出し、時には溌剌、時には扇情を口ずさむ、限りなくアウトに近いセーフラインを突き詰めたこの服がぴったり!」
ミニスカート。
黒を基調とし、重ねたフリルで飾られたそれを掲げ、微笑む千佳さん。
微塵の悪意も滲ませない純粋な笑顔が、内心では必死の逃亡を企む僕を頷かせようとする。僕は縋る思いで振り返り、背後にいる優月さんに視線で訴えた。
助けて。
「先輩──私にとって、可愛い先輩は目の保養なんです」
駄目だこの人は、目の前の状況を楽しむことしか考えていない。
ならば、奴は。
入り口の外にいる加邉に視線を移す。
助けてくださいお願いします。
「…………」
声は聞こえない。しかし、噛み締めるような僅かに開かれ、微かに動いた唇は、こう訴えていた。
すまん。俺には何もできん。
僕は眼前に迫る極端に短い布を、光を捨てた瞳で受け入れるほか無かった。
僕が次に日を拝めるのは、それから一時間半後のことである。
「じゃあね、かなみん!」
「ありがとね千佳」
「また来てね。でないと、毎日そっちの家になすび三本ずつ送るから!」
「せめて一本ずつでいいから。また来るね」
千佳さんは地味に悪質な嫌がらせを考え付くのが得意らしい。姉によると、実際に実行した試しは一度も無いのだそう。屈託のない笑顔で見送ってくれるその姿は、まさに純粋そのもので。
それはともかく。
店を出た僕は、店に入る前と比べ、あからさまに風変わりしている。
薄手の横縞シャツに土色のボトムスといった服装が、柄はさほど変わらないが絞られた袖口に裾はスカートのような工夫が凝らされた七分袖のシャツにこれといった変哲を避けたデニムに更新。細いベルトをシャツの裾が隠し、家から履いてきたスニーカーもこれならまま似合うとのこと。
無論、他にも購入した商品はたくさんある。提供された最大の袋を破るほど押し広げているそれらが、僕の今後の私服となる。僕の部屋の押入れやタンスは、持ち主の知らぬ間に掃除されてしまっているので、嫌でも一新したこの身に馴染ませるほかない。
「可愛いですよ、先輩」
「……どうも」
こちらも私服な優月さんが、横から僕を覗き込んでくる。
ラインの分かりやすい黒を肌に纏い、その上からボタンの施された白のケープで覆った上半身。腰から下は控えめな波のある黒のロングスカート。裾の数センチは複雑な模様がくりぬかれていて、そこから見えるブーツも生地は黒く、紐は白い。長い両こめかみの髪を胸元で束ねているリボンは、学校で見ていたそれより心なしか明るく、大きく見える。
肌を見せないファッションなのに、それでも着飾ったという事実が優月さんの魅力を増させたように僕を錯覚させた。
実際、似合っているのだ。
背伸びしない"らしさ"が特色となって、彼女を最大限に際立たせている。
それなのに、彼女は僕しか褒めない。
前髪を切らないのは、何の表れなのだろう。ここへきて言及するのは今更だし、こう言っては何だが、ファッションにしたっていびつだ。
とはいえ、僕としても、これが彼女の一部として定着してしまっている。
そう、本当に今更なのだ。ここへきて、彼女のスタイルに言及するのは。
彼女が僕しか褒めないことだって、一途な好意の表れだと分かりきっていることだろう。
僕がそれに応えようと決めたのも、ごく最近の事ではないか。
「優月さんも似合ってるよ、すごく可愛い」
「……先輩、強くなりましたね」
やはり優月さんは、褒めることはすれ、褒められることには免疫が無いらしい。僕が賛辞を返した途端、極端に歩調を緩め、僕の隣から去った。いまは俯きながら僕の背中を追っている。
僕は苦笑いしながら前を向く。前方には、雑談をしている姉と、それに律儀に相槌を打っている加邉がいた。
以前より大きく感じられる背中に近寄り、肩をつつく。
「加邉、なんかごめんね」
「……何がだ?」
「なんか、ほんと、色々と」
いまの僕を知ってからというもの、加邉は今まで以上に虚空を見るのが多くなった。それは考え事をしている素振りなのだが、その種といえば僕しかない。
それが忍びなくて、謝ってしまった。
「……いい。そうなっちまったのは、お前の問題だ」
「…………」
「そんなお前に手が貸せなくて悩むのは、俺の勝手で、あくまで問題じゃない。だから、お前が気にする事じゃない」
「……そう、かな」
少なくとも、僕より頭のいい加邉が言う事だから、間違いじゃないと思う。例えそれが間違いだったとして、僕に正解を導くことなんてできやしない。
「吉海は吉海よ。加邉くんだって、分かってくれるから」
ここぞとばかりに姉が口を挟む。
加邉は少し間を置いて、答えた。
「まあ。なよなよしいのはちっとも変わらないですからね」
僕は笑顔でその脇腹に渾身の肘衝きを喰らわせると、悶える親友を顧みず、優月さんへ駆け寄る。
「せ、先輩?」
極めて自然な流れそのままに恋人の手を取り、姉に提案する。
「ねえ、甘い物食べない?」
「おい待て新立、それは俺への嫌がらせか」
嫌いな甘味を克服するチャンスだぞ、加邉。
親友の好き嫌いを考慮する優しさが僕にはあるんです。
考慮のベクトルが真逆なんて細かいこと気にしてたらお前にも生理が来るぞ。
「……ああ、やっぱお前は新立だよ」
まあ、お分かりになって?
やっぱり持つべきものは親友ですね。