三十二話→四人目
窓際の壁に密接しているベッドに、カーテンから漏れ出ている日差しが降り注ぐ。それは僕を包む毛布に自然的な暖かみをもたらしていて、朝ながら二度寝を誘うのだが、同時に光が僕の顔部を射すものなので、寝させたいのか寝させたくないのか分からない。窓に板を貼り付けるのも面倒だし、寝ぼけた頭でカーテンを開けたら朝の街並みの代わりに渋い木目が見えるのはそれはそれで目覚めが悪い。
自然と人との和解は、人の側が大人しく妥協するしかあるまい。
僕は頑なに仰向けを維持しつつ、唸りながら目元をパジャマの袖で覆う。
これはさいきん寝間着を新調した姉が、まいにち着用して寝るよう命じて僕に押し付けてきたお古である。間が良かったというべきか悪かったというべきか、姉が寝間着を替えたのは、僕が性転換するほんの数日前だった。古い方を捨てるか否か迷っていたところ、弟の部屋から弟のパジャマを着た女の子が飛び出てきて弟を名乗ったので、それが真となれば、眼前で当惑している妹に着せるしかないと思ったらしい。
僕が女になったからこそ姉が僕に打ち明けたのは、妹に己のお下がりを使ってもらうようなシチュエーションに憧れていたということ。
姉にとってもやや大きかったサイズは、年下おまけに性転換が原因で小柄になった僕が身に付けては、限りない信頼性という名の厚さを誇る姉の皮を被った変態に幼稚な印象しか与えられなかった。しかしながら、この服装で就寝ことを考えれば、窮屈よりも緩い着心地の方が寝心地は良さそうなので、素直に受け継いでいる次第である。淡い薄桃色に白い花弁という控えめながらも乙女チックな柄には、少々たじろぐ部分はあるが。
休日ゆえにアラームを切ってある目覚まし時計の針は、すでに午前十時を指している。
姉や優月さんと出掛けるのは昼前。優月さんがこちらを迎えにくるとのことなので、姉は支度まで僕の二度寝を甘んじて受け入れてくれている。
とはいえ、そろそろ脳も睡眠を拒否し始めた。さっさと寝床を離れろとばかりに雑多な思考によって覚醒を促してくるのに対し、今までは寝返りで反抗していたが、いいかげん落ち着けなくて上半身を起こす。おもむろにベッドから床へ足を下ろし、立ち上がると、姿見の前へやって来る。
案の定、というまでもない。もはや。
強いて描写を付け加えるとするならば、指先が袖に隠れ、足が裾を踏んでいる寝間着姿が、我ながら中学生以下と見紛うほど幼く見えることだろうか。それを十秒ほど目の当たりにした本人の行動はといえば、俯くように顔を逸らして、小さな溜め息をひとつ吐くことだけだった。
着替えるのは家を出る前にしよう。寝間着姿のまま部屋を後にし、裾に足を取られないよう慎重に階段を下りてリビングに入る。
「お、やっと起きた?」
ソファに座りながらテレビを見ていたらしい姉が振り向く。僕はおはようと挨拶を返す。姉の足元で桜とじゃれ合っていた鈴が、僕を見るや否や鳴きながらこちらへ歩み寄ってくる。
「おはよう」
二匹の新しい家族にも挨拶をして、鈴の頭を撫でる。僕の手に合わせて毛並みが波打つ。鈴は僕に聞こえるように喉を鳴らしながら、手に擦り寄ってくる。
「もうちょっとで起こしに行こうと思ってたよ。神奈ちゃん、予定よりちょっと早く迎えに来るみたいだから」
「そうなんだ」
鈴を抱き上げ、姉の隣に座り、姉が弄っている携帯の画面を覗くと、たしかにそういう旨の優月さんからのメールが送られてきていた。
「そういえば、優月さんとメアド交換してないや……」
「ああ、神奈ちゃんもさっきそれに気付いてたから、吉海のメアドと番号教えといたよ」
「そっか、ありがと」
「んで、これが神奈ちゃんのメアドと番号」
下手に捻りの無い文字列が優月さんらしい。
部屋から携帯を取ってきて、それらを登録する。少し迷った挙句、こちらから先にメールを送ることにして、『改めましてよろしくお願いします。』という頓狂な文面に自己嫌悪を覚えつつも送信を終えたところで、先方からも一字一句違わぬ文面が返って来た。
口頭より文頭のほうが口下手になる不思議。これってトリビアになりませんか。
「朝ごはん食べる?」
「もう遅いし、昼まで我慢する」
言いながら鳴ったお腹の虫の音は、幸いにも二匹の鳴き声で掻き消された。
リビングの角に鎮座している薄い箱の中では、これまた薄いいわば義務的な笑顔を端正な顔に張り付けた若い女性リポーターと肥えた男性が、秘境の絶品を訪ねていた。
此度は、山奥に存在する神秘の滝、その傍らで客を集める飯処を紹介するとのこと。
風情ある店内や大きめの窓の外で主張する圧巻の絶景に興奮している二人の前に、いよいよ、その店自慢の料理が出てきた。清流の水を使ったうどんなんだとか。
リポーターは一口食べると、仕事で培ってきたのであろう語彙をひり出して賛辞を並べる。見映え、味、食感、全体的な出来映え──お手本のような褒め方にはさすがの一言。しかし、その隣で男性が言葉少なげながら豪快に眼前の品を頬張っている姿の方が、よっぽど料理映えしているように思えるのは、果たして僕だけなのだろうか。
気が付けば、番組は変わっていて、時計は十一時手前を示していた。
「寝癖あるし、整えてきたら?」
「うん」
付いてこようとする鈴を残し、用を足してから洗面所に入った。
洗面台の鏡で自分の表情を窺うと、姿見に見た表情と比べれば、いくぶん眠気は取れたように見える。これに冷水を掛けると、瞼は開き切った。寝癖も直し、洗面所を去る。去り際には、鏡の中の女の子に向かって、やはり赤い舌で無意味な悪態をついたのだった。これが癖になる未来も近い。どうせ見た者の大半には嫌味より愛嬌を見出だされてしまうのだから、悪癖であっても悪印象にはならない。
リビングに戻る途中で、ふと呼び鈴が響いた。
「吉海、おねがい」
二度目の残響の中で姉に返事をし、玄関に近付く。
おそらく優月さんだろう。
休日の優月さんを見るのは初めてだ。予想としては、飾り気ない服装に、ちょっと背伸びして小さな髪飾りを身に着けていそうな気がする。前髪は自然のままだろうが、それに慣れてしまった今では気にならない。表情が読み取りにくとも、内心は率直に言動に示すのが彼女だ。
少し厚めの扉の奥で、今時では最小限なおめかしで、最大限に僕を魅惑する恋人を想像しながら、扉を開ける。
予想は大外れ。
的外れというより、まず射るべき的が違った。
「……よう」
触れると痛そうな髪の毛そのままに、僕より頭ひとつほど高い位置から、それこそ僕を射るような目つきで見つめる男が──加邉が、そこにいた。
「……か、かなっ……べ?」
一瞬、頭の中が真っ白になった。
否、彼を見た途端、僕の脳内には様々な思考が湧き出て、それは単純に驚愕だったり、加邉の訪問に対する疑問だったり、この時間帯に我が家を訪問する存在は優月さんだけだと思い込んでいた自身に対する怒りだったりで、それらは光速で僕の脳内を一気に駆け巡り重なり合って、僕の脳内を刹那ばかり真っ黒に染め上げたのだ。その直後に現れたのが、混沌とした思考が僕を闇へ引きずり込もうとする寸前、かろうじて反射的に回路が切断されたことによる圧倒的な静寂。つまり空白。
最終的に残ったのは、いくら瞬きしてもそこに形ある現実として存在している人物の名前。
顎が外れる思い。塞がらない口は、目の前のお人好しの名前を、赤子のようなたどたどしさで唱えることしかできなかった。
「久しぶりにカラオケにでも誘おうと思ったんだが──お前、それ……」
思わず土間から後ずさりし、思わず靴を踏み、思わず敷居で腰が抜けた。
加邉も目を皿にしている。それは考えるまでもなく、僕の寝間着を見ての反応なのであろう。妥当な反応だ──彼は僕を、部屋着とはいえ、こんな女々しい服を着る男とは思っていなかったのだ。それは僕だって同じだ。ただ状況的に女らしさを強いられているだけで。だが、加邉はそれを知らない。
しかし、それを分かっていて尚、僕は誤解を解くことができない。あまりの不意打ちに、弁解する余裕を失くしたのだ。自ずと打ち明けるなら、まだ平静は保っていられたかもしれないのに。
「……なんつうか、すまん。邪魔したらしい」
加邉としても、如何ともし難い状況に、ひとまずその場を立ち去る選択肢を選んだらしい。どのように誤解したかは知れぬが、騒ぎ立てないところはさすがの育ちのよさといったところか。
加邉は僕に向かって頭を下げると、ゆっくりと閉まる扉の裏に隠れてしまう。すりガラスに見る影が次第に小さくなっていくのを床に腰をくっつけたまま眺めることしかできない自分に焦燥感を覚えつつも、何もできない。
「誰だったの、吉海?」
ふと、リビングの扉から姉が顔を出す。その足下から、鈴がやってきて、へたり込んでいる僕に触れながらにゃあと鳴いた。単に甘えたかっただけなのだろう。しかし、その声のおかげでようやく僕は我に返った。と同時に、何としてでも追いかけたい衝動に駆られた。己を裏切った友人を裏切らなかった──つくづく良い奴を。
きっと、事情も尋ねられずに背を向けたのは、不本意だったのだろう。
彼の本意を成す術を持つのは、僕だけだ。
だったら、この衝動に身を委ねるのが、僕の本意ではないのか。
脇目も振らず。
「──加邉ッ!」
駆け出し、飛び出し、名を呼ぶ。
正面の路地から、加邉が驚いたようにこちらを振り返った。僕が過度に至近距離まで駆け寄ると、加邉は後ずさりをしようとするが、僕はそれを彼の服の袖を掴んで許さない。
「……あまりな、そんな格好で外に出るもんじゃないぞ」
全くその通りだ。通行人に見られては恥ずかしいし、さっさと家に戻りたい。
でも、だからといって、羞恥に負けて一人で逃げ帰るわけにはいかない。いったんお前を連れ戻して、校長の話より重大な長話を全部聞かせてやらないと気が済まない。お前だって、聞かないと気がすまないはずだろう、加邉。
でも、掛ける言葉が見つからない。掛けたい言葉が多すぎて。どのみち一言では言い表せないことなのに、なるべく短文でことを伝えたい焦りっぽい欲が働き、けっきょく言葉が喉元で詰まってしまう。嫌に水気を帯びた思いは上り詰め、目元からにじみ出てくる。
涙もろいのも、きっとこの身体が悪い。そう、この身体が。この性別が。性別が悪い。性別が換わってしまったから。僕はそれを伝えたいのだ。誰にって。彼に。
加邉に。
「…………ねえ」
「なんだよ」
俯いたまま声を掛けると、すぐさま無愛想な声が頭に降りかかる。お節介な人間とは思えないほど。
「もし僕や周りの友達がありえない事になってたら、どうする?」
加邉は必ず、こう答えるはずだ。
「……事情を聞く、真っ先に」
「……だったらさ、聞いてよ」
僕もやっと、話す気になれたから。
目尻に溜まった涙はそのまま、側面から加邉を見上げる。不安げに眉根をひそめるのは、恋人の受け売り。元同性を相手に効果があるかはともかく、要求にかぶりを振ろうものなら、後に罪悪感を生む空気を作り上げたかったのだ。
知ってほしかったから。今の僕を、知ろうとしてくれている人に。
「……おねがいだから」
知ろうとしたんだ。
だから、この期に及んで拒否してみろ、道端で泣いてやる。
震える瞳で、親友を見つめる。
「……どこでそんな眼差しを覚えてきたんだよ、お前は」
当の親友の表情は、狼狽を訴えながらも、たしかに縦に揺れたのだった。