三十一話→戯れ
週末もとい休日を明日に控えた放課後となれば、それが幾度目となれど、どうしても心は躍ってしまうもので。それは、平常時と比べても、パーセントで言えばプラス二桁にも満たない高揚なのだが、恋人と一緒に歩いている状況と手を組めば、僕の足取りを軽やかなものにしてくれた。
しかしながら、優月さんの口数が心なしか少ない。
昼の一幕をやや根に持っているのだろうか。僕が無言に耐え兼ね、他愛のない雑談交じりに、遠回しに尋ねてみれば、律儀にも直球に答えるのが優月さんであった。
「私だって、先輩をよくからかいます。ですから、あれが仕返しなのは分かってます。べつに拗ねてるわけじゃないんです──ただ、人に言うのと、人に言われるのとでは、まったく違って聞こえたものですから」
「何が?」
「……一般的には、褒め言葉になるんでしょうか」
なんとなく予想はつくが、この誘導に、簡単に乗るわけにはいかない。
どちらかというと、根に持っているのは僕のほうなのかもしれない。
「僕は、優月さんのことならいつも褒めてるつもりだけど?」
「で、ですけど、あれは言われたのは初めてでしたから」
「何かな。……例えば──優月さんってすっごく可愛いね、とか?」
何気ない素振りとは裏腹に、尻目に隣を確認してみれば、大きく俯いて表情を隠し、鞄を両手で強く握り締める乙女がいました。賛辞の前に副詞を置いたのが覿面したと見えます。
このような形で、恋人より優位に立てるとは思いもよらなかった。
彼女は積極的だが、僕がちょっと押し返せば、攻勢を崩すところがある。今日一日で、それがよく分かった。但し、今後も、無闇にこちらが対抗しようものなら、すぐにでも手を打ってくるだろう。僕が知っているだけの彼女という人間を分析してみれば、優月神奈とはおそらくそういう人だ。
「……今日のところは負けを認めますから、もうからかわないでください」
「そういう訳じゃないよ。僕が思ってる、本当の事を言ってるだけ。優月さんだって、そうなんでしょ?」
「それはそうですけど……」
いつになく弱腰な優月さん。彼女にしては曖昧な回答は、下手に強硬な姿勢をとっては返り討ちにあう可能性を危惧しているのだろう。
「とりあえず、今日のでおあいこね」
いつの間にやら、足は我が家を通り過ぎそうになっていた。紙類をくわえ込んでいる郵便受けを開いて、詰め物を取り出すと、案の定、中から鍵がぽろりと落ちてくる。どうやら、姉は出掛けているらしい。
「優月さんが不満なら、いつでも褒めてあげるから」
玄関の鍵を回しながらそう言うと、どもり気味な返答が背中に掛かる。
「……み、魅力的ですけど、お構いなく」
扉を開き、一応、ただいまと声を張る。同居人は、今は外出中の姉だけなので、当然ながら家内から反応は無い。
否。同居人ではないが、先日から同居している動物はいたか。
「……お」
その証拠に、耳を澄ませば、閉じ切ったリビングの扉をかりかりと引っ掻く音と、にゃあというか細い鳴き声が微かに聞こえてくる。それも、二匹分。
「猫、猫ちゃん、ですか?」
とっくに確信しているだろうに、優月さんはわざわざそう僕に尋ねてくる。それは戸惑いというより、興奮に近いように思えた。
「うん。靴、脱ぎ忘れてない?」
「はい、並べて確認しました」
二人していそいそと玄関をくぐり、靴を脱ぎ、脱いだ靴を並べ、家に上がる。リビングに近づけば近づくほど、小動物の心細げな鳴き声が段々と大きく感じられる。
僕が取っ手を掴み、おもむろにリビングの扉を開けると、開ききるより早く、我が家にとって世界一可愛い双子が隙間を縫って出てきた。
「ただいま、っとと」
二匹そろって、まとわりつくように僕の足元を動き回り、僕を見上げて鳴く。甘えたげな視線に応えるのは、リビングに入ってからにしようか。
「歩きにくいから、ちょっと、もう」
二つの毛玉を踏みつけないよう細心の注意を払いながらリビングに入り、やっとこさ団欒スペースにある絨毯の上のテーブルをどかして、そこに腰を下ろす。我先にとばかりに、僕の膝の上を取り合う子猫たち。普段は姉に懐いている方も、姉が傍にいなくては、僕に甘えてくる。
両方の喉元をくすぐってやりながら、ふと優月さんのいた方向に目をやると、そこにも小動物が居た。廊下から、おずおずと顔だけを出してこっちを覗いている。
「どうしたの?」
「先輩が猫と遊んでいる姿が、すごく絵になるなあと……」
「……優月さんにもきっと似合うから、はやくおいでよ」
優月さんはリビングに入ると、なぜか四つんばいになって絨毯の上を進んでくる。なるべく猫と同じ目線で接そうという姿勢の表れだろうか。なんとも彼女らしい。
単に緊張しているだけなのが、四割といったところだろうか。
「ほら、もうちょっとこっち」
「……は、はい」
僕が手招きすれば、優月さんは恐る恐るといった様子で僕の隣へやってくる。すると、姉好きな片割れが、優月さんに顔を向けた。それに優月さんはびくっと体を震わせ、そのまま硬直する。小動物との接し方をまるきり知らなければ、こうなるのも致し方ない。
「良い人だから、甘えておいで」
僕は、子猫にそう声を掛ける。言葉が通じたかは分からないが、垂らした尻尾を大きくゆるりと振りながら、子猫は優月さんへ向かって歩みだす。当の優月さんといえば、未だ石のまま。しかし、子猫の前足が、絨毯についている己の手に触れると、彼女は我に返ったかのように子猫を見下ろした。
優月さんは、そっと片手を差し伸べる。子猫の舌がそれをなぞったのを、触覚に加え、視覚でも確認すると、心底から湧き上がっただろう愉悦を、なんとも顕著に、口角に表した。前髪の奥にある瞳は、きっと輝いていることだろう。
優月さんがその場に正座すると、子猫は膝の上に寝転がるように乗る。滑らかな曲線を柔らかな毛が覆う背中を優月さんがそっと撫ぜれば、子猫の尻尾の動きは止まって見えるほど遅くなった。
「……先輩」
一方、僕ともう一匹も、同じ状態である。遊ばずとも、互いがこれで満足。
頬と同じくらい緩んだ声音で、優月さんの呼びかけに返事をする。
「なあに?」
「こうも幸せなものなんですね、先輩や動物と同じ空間にいること」
「……そう言ってもらえると、嬉しいよ」
子猫の気持ちを代弁する権利はあろう。彼女の幸せをつくったものの内には、僕も含まれているようだし。
「この子たち、名前は何ですか?」
「そういえば、まだ決めてないかな」
可愛がることに夢中だったし、優月さんの意見を取り入れたいという思いもあった。
僕が案を求めると、優月さんは考え込む。
「個人的には、古風な名前が好きですね」
「どんなの?」
「"鈴"とか、"桜"ですとか。これは古風というより、和風になりますけど」
「へえ、いいね」
この際、優月さんの案をそのまま割り当てるのも良いだろう。僕も和風な名前は好きだ。
「それなら、この子が鈴で、その子を桜にしようかな」
「ちょっと、待ってください。い、いいんですか?」
さすがに安易だっただろうか。僕の提案に、まさかの原案者から待ったが掛かる。
「姉ちゃんも、優月さんが名付けるなら文句は無いって言ってたし、それには僕も賛成だから」
姉は姉で、こんな弟の災難を一目で見抜き、その上で慕ってくれている優月さんに信頼を置いているのだ。
「でも……」
「大丈夫だよ。ほら、鈴だって喜んでるし」
「それは先輩が撫でてるからですよね?」
僕の膝にお腹を乗せている子猫は、背中を往復する僕の手の動きに合わせて、その小さな喉に秘めたる鈴から、快い音を発している。
「そうだとしても、良い案だと思ったのは本当だから」
ね、と僕が微笑で説得すると、優月さんははにかんだ。つまりは、同意してくれたのだろう。人の猫の名付け親を担うことに対し、臆面は見られる。しかし、僕ら家族から彼女に伝えたいことといえば、むしろ感謝だ。
「じゃあ、決定だね」
「は、はい」
寝転がり、ぐっと伸びをする。そんな僕の行為を真似するように、鈴も絨毯に倒れた。僕はそんな鈴のお腹をくすぐり、前足も弱く握る。鈴はされるがまま。
「これはこれで、仲のいい姉妹みたいです」
優月さんが微笑ましげに呟く。
「優月さんも、ほら」
「いえ、人の家で横になるのは……」
「いいから」
遠慮がちに、優月さんは桜を伴って、横になった。
線は一本多いが、絨毯に皆で川の字を描く。僕と優月さんが両端におり、鈴と桜を挟む形で。
傾き、橙色に色づきはじめた日が、窓を隔てて二人と二匹に降り注ぐ。眩い日光も、目を閉じていれば心地よい。優月さんも、今ばかりは、僕や子猫たちではなく、きっと瞼の裏を見ていることだろう。鈴や桜も、同じだと思う。眠気すら誘うこの長閑な状況が、僕らをそうさせているのだ。自然と、優しく促すように。
あわよくば、この先も、同じ機会があればと思う。
「ただいま、……」
姉がリビングの扉を開けてやってきた。浅い眠りにあったのか、玄関の扉を開閉する音に気付けなかったので、不意の出来事だった。
ところが、丸い目をしたのは、僕や優月さんより姉の方。しばらく僕らを見つめると、やがてこう言い残して、二階へと駆けていった。
「そのまま待ってて。カメラ取って来るから」
絶好のシャッターチャンスだったらしい。
「……どうしますか、先輩」
間延びした声で、優月さんがそう問いかけてくる。
僕はちょっと考えてから、仰向けから優月さんの方向へ寝返った。
「待ってよっか」